2011年10月20日木曜日

シュレーバー研究2 光線としての言葉(2005年)

フレックシヒの脳解剖図
私たちは、日々さまざまな言葉に囲まれて暮らしている。インターネット上の記事を読み、漫画を読み、TVを見る、本を読む。自分の言葉を話したり、書いたりもする。私たちが言葉といったとき、それは書かれた文章も人の声も、自分の頭にある考えも、同時に表すことになる。ことばとは、私たちが生活する世界の、あらゆる場所に存在しているのだ。



例えばインターネットに接続したとき、ニュースや掲示板を見ると、様々な人のことばが溢れている。物事を伝える言葉だけでなく、人を攻めたりけなしたりする言葉も多い。極端な言い方をすれば、インターネットの中には悪意が溢れている。

分光器
私がこうしてMacBookを図書館で開いているとき、この画面上に現れてくるおびただしい量の言葉は、一体どこから送られてくるのだろう?そして私の周りで勉強している学生たちが考えている言葉は、いったいどこにあるのだろう。彼らの言葉はどこを通って、彼らの頭の中からノートの上へと筆記されるのだろうか。

もし、私が見ているサイトに表示される言葉の群れや、私の周りの人々の思念が、眼に見えるものであったらどうだろう?私たちの世界はどのように見えるのだろうか?漫画のように吹き出しが人の頭の上にぽこぽこ浮かんでる様子を思い浮かべる人もいるだろう。だが、人間の思考やインターネット上の言説のような高速で行き交う言葉を、漫画のような文字の形で捉えることは非常に困難だろう。だとすれば、もう文字としての形を失って、光の帯のように見えるのかもしれない。

じっさいに人の思考や言葉が光として目に見えるようになってしまったのが、シュレーバーという人物である。シュレーバーは、神からの声を光線として自らの身体に受容する。なぜ、彼は言葉を光線として捉えたのだろうか?その背景には、彼が生きていた時代状況が大きく関与していたと考えられる。この論文、「光線としての言葉あるいは可視化された世界―シュレーバーと自然科学と心霊学―」では、19世紀末ドイツにおいて人々の関心を集めた、大衆向けの自然科学や心霊科学の言説を手がかりに、人の思考が見える化、すなわち光線として捉えられる、というシュレーバーの思考と同時代の人々との接点を探った。
アクサーコフの心霊写真
この論文を書くにあたって、天文学や物理学など自然科学系の本をいくつか読んだし、明治期日本におけるヨーロッパの思想やオカルティズムの輸入、超心理学のはじまりなどについても調べた。まったく関係のない文献も含めて、かなりの数をそろえたが、このような多方面から証拠を集めるという方法は、その後の研究に大いに役立っている。このような方法を見出すきっかけになったのは、社会史・文化史系の研究会での発表だった。文学研究的な作家・作品論に固執していたら到底できなかっただろうと思う。私にさまざまな指摘を下さった先生方や仲間たちに感謝している。

(下のPDFが読みづらい(ウィンドウが上下に狭い)場合はページを再読み込みしてください。) 光線としての

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