2012年7月31日火曜日

博士論文への道

博士論文の公聴会が8月6日に行われる。もはや論文はとうに提出してしまっているので、いまさらとくに緊張することもない。長大な論文の内容をしっかりプレゼンすることが必要だが、何をどうしたところで叩かれるべき点は叩かれるわけだし。

私の在籍していた研究科では、公聴会が冬と初夏にまとめて行われる。先週は同世代の友人の公聴会を聴きに行ってきた。友人の発表を聞きながら、彼がどのように博士論文を書き上げたのだろうと考えていた。そして、自分自身が彼とほぼ同じ時間を、どのようにすごしてここまできたのかを、思い出そうとしていた。博士号を取得した先輩や友人、妻などまわりのみんなが、留学したり研究員になったりとこの10年余り絶えず研究活動に専心してきたのに対し、私はあまりちゃんと研究をしてきたわけではなかったな、と改めて思った。そこで修士論文を提出してからこの春まで、どんなふうに研究を進めてきたのかを、年代を追って具体的に書きだしてみよう。


2004年春:修士号取得。修士論文では、シュレーバー回想録を丹念に読み込み、回想録がどのように「合理的」に成り立っているのかを、内在的な読解によって解明しようと試みた。だいたいやるべきことはできたし、シュレーバー研究はもうやめてもいいのではないか、と思い(指導教授にもそう言われたし)、新たな研究対象を探そうとしていた。友人から誘われ文化史の研究会で体操について話すことになり、シュレーバー父の体操書から、茨城県民体操やラジオ体操へ至る歴史を調べる。夜行バスで水戸まで行って県立図書館で文献を探した。

2004年初夏:ラテン語、精神分析などの勉強に励む。ラテン語は前期中に挫折。シュレーバーにおける光線というモチーフがどこからきたのかを考え始める。シュレーバーが元ネタとして挙げている本、同時代の文献など、さまざまな分野の資料を集め始める。

2004年秋:心霊主義および進化論的自然史とシュレーバーの関係に着目し、研究発表。イギリスおよび日本における心霊主義の歴史研究が参考になった。

2005年春:シュレーバーの元ネタとしてのカール・デュ・プレルという人物に着目する。デュ・プレルの宇宙進化論のシュレーバーへの影響を言えたらおもしろいのでは、と思ったが、デュ・プレルのテクストが難しくてなかなか読み進めることができず。全国大会で、シュレーバーにおける身体意識と宇宙観について発表する。そこそこ好評。

2005年夏:前年秋に発表した、シュレーバーと自然科学と心霊学を論文に書き直す。研究室の雑誌『文明構造論』が発足。

2005年秋:シュレーバーの世界観におけるカール・デュ・プレルの宇宙論の影響について発表するが、まったく消化不良。この問題はその後5年くらいたってようやく形になってきた。

2005年冬:シュレーバーの父親、D.G.M.シュレーバーのことを調べるうちに、体操や健康法の歴史や身体をめぐる言説の歴史に興味を持つ。研究科内部の発表会(人環フォーラム)で体操書に描かれた身体像と理想的な身体イメージの変化について発表する。デュ・プレルの心霊主義についての資料を探して東大図書館、天理図書館などに行く。

2006年春:冬に行った発表を発展させ、仲間内で企画した公開シンポジウムで、「体操における美」について発表。シュレーバーはしばらく放置して、体操研究に打ち込む。

2006年夏、ポスター発表準備
2006年初夏:リレー講義で体操と舞踊におけるリズムの概念について発表。同じ内容を学会でポスター発表。大雑把な話だったが、さまざまな人から有益な助言をいただけた。

2006年夏休み〜秋:8月は、自分の勉強をちょっと中断して、ドイツ現代文学ゼミナールで、Jan Böttcherの小説„Geld oder Leben”について発表。読むのは大変だったがけっこう面白い作品だった。9月に「文明構造論」にシュレーバーの「脱男性化」についての論考を発表。

2007年冬〜春:カール・デュ・プレルについての最初の論文を書く。『神秘哲学』、『叙情詩の心理学』における、無意識状態の人間の創造力にかんして、フロイトの夢研究と比較した。まだまだ概要程度しか書けなかった。(この春でドクターの3年間が終わったことになるが、単位取得退学のことは全く考えていなかった。あと1,2年がんばれば論文は出来上がるだろうし、それまでは学籍があったほうがいいと思っていた)

2007年夏:春の学会に行った際、世話になっている先生に誘われ、クラインガルテンにかんして共同発表をすることに。シュレーバー父はシュレーバー菜園に名前を残しているが別に庭園造りの理論家ではない。シュレーバーが菜園と児童の遊戯場について述べているテクスト、そしてシュレーバーのフォロワーがそれをどのように受け継いだのかを調べ、無理やりまとめた。

2007年秋:7年間住んだ石原荘が取り壊しのため、浄土寺の銀閣寺ハウスに転居。共同発表は、準備不足でうまく質疑に答えられなかったところも多かった。学会発表の準備と並行して、冬から構想を暖めていた、シュレーバーの言語と世紀転換期文学の言語危機意識についての比較を論文にまとめる。

2008年春:デュ・プレル、ヘッケルの宇宙進化論とシュレーバーの世界観を比較検討しまとめる。この年から精華大学にTAとして出講するようになる。他のバイトもいろいろやってて、だんだん研究室で勉強することは少なくなりはじめる。

2008年夏:シュレーバー研究の新しいネタが無くなり迷走し始める。

2008年冬:ドイツ語の非常勤講師の口を紹介してもらえそうになるが、のちに立ち消えに。かなり落胆する。精華大学助手に応募。公募に通っても通らなくても、もう学籍を抜こうと決意する。単位取得退学をするにあたり、博士論文の見通しについて研究室内で発表。この時に書いた博士論文の概要は、実際の論文のほぼ骨格となった。

2009年春:精華大学嘱託助手に着任。しばらくは必要以上に仕事がしたくて研究はほぼ休止状態。神秘的思考と近代ヨーロッパの思想についてのシンポジウムをすることになり、デュ・プレルの心霊研究と科学の関係について少しずつ勉強をすすめる。

2009年秋:デュ・プレルについて発表。2005年に初めて学会発表でデュ・プレルに言及した時に比べるとだいぶ研究は進んだが、それでもまだ説得力不足。

2010年春:院生仲間たちが徐々に博士号を取得したり、論文を書籍化したりするようになる。焦っていたはずだが、なぜか論文は書かず。何をしていたのかよく覚えていない。たぶん大学の仕事に追われていたのだろう。デュ・プレルについての発表を論文に書きなおしてシンポジウム論集を作るはずが、他の発表者の都合もあり、頓挫。自分の論文も大幅に遅れるどころか全く書けていなかった。

2010年秋:春に書けなかったデュ・プレル論を夏休みの終りに書く。ほとんど学会発表の時の内容と変わらなかった。

2011年春:この年の始めに婚約。妻が春に博士論文を提出。これを見てようやくおれもやらなきゃ、と思い始めた。年度が変わってすぐ指導教授と打ち合わせ。夏までは数回論文の構成について話しあったが、その後執筆の手が完全に止る。

2011年秋:結婚式の準備をしながら、すこしずつ原稿を書く。だが、本当に少しずつしか書けておらず、序章の半分くらいまでしかできていなかった。

2012年春:年が明けても論文執筆は進まず。博士論文全体の半分以上は既発表論文をつなぎ合わせる形だが、途中新たに書き下ろす章もあったので、とにかく書き足さなければならない部分を最優先で作業をすすめる。本格的に毎日ガリガリ書くようになったのは、2月5日に木津川マラソンが終わってから。残り一ヶ月半ほどで、原稿用紙100枚以上を書き足した。3月末になんとか提出。→現在に至る



このようにこれまでの歩みを振り返ってみると、あまりにもムダな時間がかかり過ぎていたのだなあ、と呆れるばかりだ。博士課程に入った頃は学会発表など後回しにして留学でもしておいたほうがよかっただろうし、2008年頃には論文の構想や内容はほとんどできていたのだから、もっと早く書き始めることができただろう。ああすればよかった、こうすればよかったということばかり思い浮かぶ。

ともかく、来週の公聴会で博士論文への道はいちおうゴールということになる。過去のことを振り返ってみて思うのは、一時期興味を持っていたけど、深められなかったことがけっこう残っていなあということ。今後はこれまで読みきれなかった資料を読んだり、欲しかったけど見てない資料を探したりするところから次の研究を始めていければいいのではないかと思っている。

2012年7月17日火曜日

どんなふうに勉強してきたのかなど、忘れてしまった

公募書類を書いたり、授業の準備をしたりしているけど、なんだかあまりうまくいかないので、今考えてることをちょっとまとめておこう。

ここ最近困っているのは、自分の記憶がどんどん薄れていっているということだ。


大学3年ごろ。パーティでドイツの学生と酒を飲んでいた
みたいだが、ちゃんと会話などできていなかったと思う。
私のドイツ語の授業を履修しているのは、ほとんどが大学一年生である。今年の学生なら、1992〜94年ごろの生まれということになる。彼らが生まれて間もないころには、もう私は明治大学の学生になっていたわけだ。

学生たちと話をしていて、いつも「あの頃自分は何をしていたか」ということを思い出す。期末テストや夏休みが近づけば、自分がどのように、大学に入って最初の期末テストを迎え、夏休みを楽しんだのかということを思い起こす。だけど、このごろ気づくのは、こういったちょっと昔のことがなかなか思い出せないということである。健忘症とか失語症とかいうものでは、もちろんない。そうではなくて、ちょっとしたこと、当時は当たり前のように積み重なっていた日々の記憶が薄れてしまっているのだ。

大学1年生の時に、ホテルの配膳人のバイトを始めてあまりの忙しさに一週間で逃げ出したことや、その後コンビニの夜勤をやるようになり、大学の授業に出られるのは週3日のみとなってしまったこと、さらに冬にはもうひとつバイトを増やそうと思って「もちつき屋」に面接に行ったが、あまりのブラック臭に、話を聞くだけで逃げ出したことなどは、しょっちゅう人に話すネタなので、よく覚えている。だが、そういった出来事じゃなくて、ちょっとしたなんでもない日の記憶が、なかなか思い出せない。端的にいえば、自分が1年生のときに、どのようにドイツ語を勉強していたのか、何も覚えていないのだ。

格の概念とか、形容詞の格変化とか、定冠詞・不定冠詞とか、ドイツ語学習のポイントになるような文法事項を扱う時、学生がどのように理解し、どのように知識が定着するのかが気になる。そんなとき、自分がこんなふうに勉強した、こんなふうに理解したということを覚えていれば、もう少し体験的なアドバイスなどができるのではないかと思うのだけど、残念ながら、自分が勉強した時のことはちっとも覚えていないのだ。

ドイツ語の勉強に関して、いくらか記憶に残っているのは、2年生以降のことばかりだ。1年生の冬に、ドイツ・フランスを旅行して、ようやくちゃんと勉強しようという気持ちになってから、計画を立て、日々継続的に勉強するという習慣がやっと身についた。それから大学院入試あたりまで、どのように勉強してきたのかは割とよく覚えている。だが、どのくらい身についていたのかは、甚だ疑問である。当時はしっかり勉強してきたつもりだったのだが、ドイツに短期留学したときは、クラス分けの面接試験で言われたことがほとんど理解できなかったし、文法的な知識についても、ドイツ語を大学で教えるようになったここ数年のうちに、ああなるほどこういうことだったのか、とようやく腑に落ちるようなことも多々あったわけで。

おぼろげな記憶をたどって、昔の自分のドイツ語学習を振り返ろうとしたけど、あまり今の授業の役に立ちそうなことは思い出せなかった。せいぜい「形容詞は挫折のポイント」とか「夏休みが終わると何もかも忘れる」とか、まったくただの一般論でしかないではないか。

というわけで私はたぶん日々学生たちに教えながら、自分自身が学び直しているのだろうと思う。

2012年7月16日月曜日

どうしたらドイツ語ができるようになるのか

毎週いくつかの大学でドイツ語の初級を教えている。毎週授業のたびに、どうやったら学生たちはドイツ語ができるようになるのだろうと考えさせられる。

学力的に、よくできる子から、あんまり勉強自体が好きじゃない子までさまざまな学生がいる。あまりできない学生たちの様子を見ていると、ああ、自分も学部一年目はこんなもんだったなあ、と懐かしく思えてくることも多い。そういう学生たちが、少しずつドイツ語の発音を覚え、人称変化や格変化に慣れていくのを見ると、なるほど、そういうふうに徐々に身についていくのだなあと感心する。

教えているのは私なのだから、私の教え方さえしっかりしていれば、学生たちがどのくらいのペースで、どのくらいまで学力が伸びるのかは把握できるはずだ。たしかにそうかもしれない。だが、そう都合よく行くわけがない。学生たちはドイツ語を専攻しているわけではない。みんな自分の専門の勉強がある。英語もやるし、就活のための勉強もしているはずだ。だから、いくらこちらがあれこれ考えて計画をねっても、覚えておいて、と言ったことを全部次の週までに覚える学生などまずいない。

個々の学生の学習態度や学習習慣の問題ではなく、そもそも私自身が、どうやったらドイツ語ができるようになるのかよくわからないのだ。19歳で大学に入って、15年くらい勉強して、いちおう大学生に授業が出来る程度にはできるようになったけれど、それは15年かかってやっと、ということだ。毎回授業のたびに、たかだか1年か2年しかドイツ語を学ばない学生たちにどう教えたらいいのだろうと悩んできた。私自身は、どうしても勉強したい子はそのうちできるようになるのだから、そのための種をまいておくくらいで十分だろうと思っている。だけど、自分と同じように学生も10年以上ドイツ語を勉強し続けるわけではない。やはり、限られた時間の中で最大限の成果はあげるべきだ。だが、どうやって?

この問題が難しいのは、簡単にいえば、到達目標が定まっていないからだ。英語と同じように使いこなせるレベルをめざすのであれば、私の授業、私の教え方ではまったく不十分だ。しばしば第二外国語は、学んだところであんまり読み書きや会話ができるほど上達しないから意味が無いと言われる。大学4年間では、途中で留学して集中的に学んだりしない限り、たしかに難しいだろう。だが、だからといって無意味とは言いたくない。一年間ドイツ語の授業に出て、ゆっくりペースで現在完了形あたりまでしか勉強しなかったとしても、そこで学ぶのは、必ずしもドイツ語の単語や文法といった知識だけではない。英語の学習にも役立つような、言語観だったり、あるいは語学以外にも応用可能な、ものごとを体系的に俯瞰する視点だったりするのではないだろうか。

話が少しそれてしまったが、「どうしたらドイツ語ができるようになるか」そして「どのくらいの期間で、どのようなことを学習すべきか」という問題は、「何のためにドイツ語を学ぶか」という問題とも密接に関連しているということがわかってきた。