2013年11月22日金曜日

ルーズリーフ、ふせん、情報カード

勉強にさいしてどのように調べた情報や考えたことを記録し、整理するかは、非常に重要な問題である。勉強と一口にいっても、いろいろな勉強がある。試験のための勉強、授業のための勉強、語学の勉強、論文を書くための構想メモ、などなど。自分のこれまでの勉強を振り返ると、一冊のノートに順番に記入していくという方法よりも、基本的には一枚ずつバラバラの紙に書いていって、それを入れ替えたり並べ直したりして、一つのまとまった体系を作る、という方法をとってきたように思う。これは大学入試に向けての受験勉強から、博士論文、そして現在の勉強に至るまで一貫した傾向だ。そこで、私がこれまで愛用してきた、一枚ずつバラバラの紙―ルーズリーフ、ふせん、情報カード―について、どんなふうに使ってきたのかをまとめておきたい。

ルーズリーフ
おそらく予備校あたりから使っていたツール。高校時代にも使ったことはあったが、紙を補充するのがめんどくさくて、あまり使っていなかったと思う。ルーズリーフに、考えていることをメモし、文章化し、一枚一枚ためていく、というのは、学部時代の卒論を書くときに試みた方法だった。あのころはいきなりワープロソフトの白い画面に向かうのがいやで、えんぴつでスケッチをし、後にパソコンで清書をするつもりで、ルーズリーフにキーワードや本の一部分を引用して着想をまとめようとしたのだろう。この方法は、おそらく修士論文のころも同じようにやっていたはずだ。ルーズリーフにメモを書き、それを文章化し、ある程度まとまったらプリントアウトして、今度は文章を直しながらふたたびメモをとるという作業の繰り返しで、400字詰め300枚ほどの修論が書けた。当時は自分の書いたメモを、宝物のように大切にしていたと思うが、その後どこにしまったのか覚えていない。おそらくその後2回の引っ越しで捨ててしまったのだろう。ほんとうは論文を書き上げるまでの草稿や、論文に反映されない着想(ボツになった部分など)はのちのち役に立つのだろうけど、やっぱり一度書き上げてしまった題材については関心がなくなってしまうのかもしれない。

ふせん
メモを書けるような大きめの付箋は、博士課程の途中から愛用するようになった。私がいつも使っていたのは、7.5センチ四方のふせんだ。このくらい大きさがあれば、キーワードや文献情報だけでなく、ちょっとした着想とか思考のながれも書くことができる。そしてこのメモをPCの画面の端や手帳にはりつけたり、ある程度数がたまってきたら、ルーズリーフの上に貼り付けて並べて、論述の順番を考えたりした。博士論文のもとになった8本の論文は、おそらくこうしたふせんメモの積み重ねと、その並べ替え作業のなかから生まれてきた。あの頃は、一日のうち半分は文献を読み、半分は付箋を並べるという感じだったと思う。ふせんを使った作業のピークは、2012年春の博士論文のときだった。20インチのiMacのまわりに、色とりどりの付箋が、ライオンのたてがみのように張り付いていた。論の流れから、ちょっとした思いつきや、誤字の修正など、その場で気づいたことをすべて忘れないようにと付箋に書いては、Macの周りに貼り付けていた。3月の末に論文は完成し、それから夏休みに公聴会が終わるまで、Macのまわりには、赤やオレンジのたてがみがくっついていた。製本した論文を提出する頃、一区切りついた気分で、ようやくたまりにたまった付箋を全てはがした。

情報カード
情報カード。iPhoneの空箱がちょうどぴったり。

これまでの情報整理法の欠点を埋めるべく、この1年ほど使ってきたのが情報カードである。日頃の生活上のメモも、今後の研究計画も、講義内容の整理も、あらゆることに活用しているのが、カードである。ルーズリーフの欠点は、その大きさであった。私はとくに、パソコンで印刷した紙もルーズリーフも同じバインダーで管理していたため、B5などの小さいサイズではなく、いつもA4サイズをつかっていたので、どうしてもかさばって仕方がなかった。また、付箋の欠点は、保存しづらい点である。薄い紙で、裏にノリがついているため、付箋紙をそれだけでいつまでも保存しておくわけにはいかない。博論のさいに大量に書いた付箋紙のたてがみも、作業が終わったらゴミになってしまった。保存しておくのであれば、ルーズリーフや手帳など、何らかの台紙に貼り付けなければいけない。このような両者の欠点を解消しうるのが情報カードである。現在は5×3(125mm×75mm)およびB6(京大式といわれるサイズ)の二種類を併用しているが、どちらにしてもコンパクトだし、紙がしっかりしているので保存も容易である。とくに小さいほうの、5×3サイズは、毎日研究メモだけでなく、欲しい文献、授業のアイデア、日記など、様々な用途に愛用している。
情報カードを初めて使ったのは、実はけっこう昔のことだ。浪人時代、英語の勉強をするときに、例文を情報カードに書いてまとめて、毎日の通学中に見直すことを一年続けたら、英語は一番の得点源になった。この成功体験のために、大学でのドイツ語の勉強にもカードはときどき使っていた。もう20年近くまえのことだが、あれこれ回り道をした挙句にふたたび原点に帰ってきたようでおもしろいと思っている。

2013年9月19日木曜日

古いアパートの思い出


先日は大きな台風が来て、京都市内でも浸水・冠水などの被害があった。マラソン大会から帰宅して、朝まで死んだように眠る予定だったのに、夜中に緊急メールで何度も起こされた。翌日の昼にはほとんど天気は回復していたが、夜通し雨が横殴りに吹き付けていたため、玄関ドアの隙間から水が入り込んでいた。鉄筋コンクリート製のマンション7階でもこれだけの被害がでるのだから、かつて住んでいたような木造アパートだったら、どんな目に遭っていただろうか、とかつての下宿のことを思い出していた。

31歳で、風呂つき軽量鉄骨アパート(正確にはわからないけど、音がよく響くので壁は薄かった)に引っ越すまで、私が住んでいたのは、木造アパートばかりだった。東京で最初に住んだ部屋は、畳が傾いていて、入口の階段が崩れかけていた。そのため、4年目の春に取り壊しが決まった。大学4年次の後半を過ごしたアパートは、同じくかなり古い物件で、何年も人が住んでいなかった部屋だった。雨漏りはしていたが、友人と一緒に住んでいたのでさほどつらくはなかった。京都に引っ越して、大学院時代が終わる直前まで住んでいたのが、二部屋ある木造アパートだった。

東京時代のアパートM荘やT荘、そして2007年から結婚するまで住んでたG寺ハウスなどこれまで住んできた部屋は、総じてみなボロかったが、それでも遊びに来た友人や彼女からいい部屋だね、味があるね、と褒められることが多かった。しかし、京都のI荘だけは、おそらく誰にもいい部屋だと言われなかったはずだ。

大学院時代を過ごした木造アパートI荘は、四畳半の部屋二つがくっついた形になっているので、そこそこ広かったが、トイレは部屋の外、シャワーは下の階にあった。もちろん共同である。今思うとなぜああいう物件を選んでしまったのかよくわからないが、あの当時はトイレやシャワーが部屋になくても特に困ることはないと思っていたのだろう。たしかに古いアパートのトイレは、すごく狭かったり水が漏れたりとあまり快適なものではない。自室にあったら自分で掃除しないといけないし。それに比べるとI荘の場合は、いつも大家さんがきれいにお掃除してくれていたので、使うぶんには何も文句はなかった。
I荘の唯一良かったところは、隣の家の桜がすごくきれいな
ことだった。手にもっているのは2007年春にハマったきのこ栽培セット

だけど当然のことながら、自室にトイレがないというのは不便だった。体調が悪くて寝込んでいる時も、いちいちドアを開けて部屋の外にでないといけないし、雪が降る日や台風の日もなんどかあったはずだ。1階の共同シャワーも、朝の時間帯にはしばしば他の住人とかち合ってしまうし、真冬には水道が凍って熱湯しか出なくなることもあった。どうしてあの部屋で7年間もくらせてこれたのだろうか。今となっては、当時の自分があの不便さをどのように考えていたのかよく思い出すことができない。

2013年9月11日水曜日

コッホ先生について

先日の日記でも言及した映画『コッホ先生と僕らの革命』(2011年ドイツ)を、すでに10回くらい(そのうち3回くらいはドイツ語版で)見ている。何度見ても飽きないのは、ダニエル・ブリュール演じるコッホ先生のかっこ良さや、彼の生徒たちのかわいらしさのせいばかりではない。この映画は19世紀後半のドイツを舞台に、フットボールを最初にドイツの学校に導入したコッホ先生の奮闘と、それに対する学校や社会の反応を描いている。この映画から、フットボールの歴史だけでなく、ドイツでいまでも愛好されている体操(トゥルネン)とスポーツの関係、近代的な資本主義社会、大衆社会の到来という新たな時代とスポーツの関係もまた、読み取ることができる。ほんとうに何度も見ても面白いので、その面白さをネタバレにならない程度に、詳しく紹介したい。
直接フリーキックを決めるヨースト。






1)登場人物の世代と時代背景
本作において重要なのは(というより私にとって大変興味深いのは)時代背景ならびに登場人物の年代である。物語は1874年のドイツ、ブラウンシュヴァイクに英国帰りの青年コッホ先生が到着するところから始まる。コンラート・コッホは実在の人物で、1846年生まれ。物語の中でも言及されるが、普仏戦争が終結し、ドイツ帝国が成立した1871年ごろ、ちょうど彼は大学を終え世の中に出たと推測できる。(映画では、コッホは新任教師のように描かれているが、実際は大学を卒業後1868年から、ブラウンシュヴァイクのマルティノ・カタリネウム校に勤務している)また、コッホが担任を務める生徒たちは、Untertertia(9年制ギムナジウムの4年生)と言われているので、14,5歳、1860年ごろの生まれだと考えられる。そして、コッホに対立する理事長のハートゥングやボールを製造する体育用具メーカーのシュリッカーなどは、息子がギムナジウムに通っていることから、コッホより少し年長の1830〜40年ごろの生まれということになる。

2)ブッデンブローク家の人々との年代的な一致
映画を見ながら、こういう映像、どこかで見たような、と思い、すぐに最近あらたに映画化された、トーマス・マン原作の『ブッデンブローク家の人々』(2008年、日本語版は未公開)を思い出した。映像が似ているのは、撮られた年代が近いからではなく、物語中の時代がほぼ同じだからだ。原作となるマンの小説は、1835年から1877年まで、リューベックの商人ブッデンブローク家の四代に渡る栄枯盛衰を描いた物語である。『コッホ先生』の時代と重なるのは、『ブッデンブローク家』の最後の当主ハノーが描かれる場面である。体が弱かったハノーは、1861年生まれで1877年に亡くなってしまい、物語は幕を下ろす。また、ハノーの父で『ブッデンブローク家』の実質的な主人公であるトーマスは、1826年生まれで、ちょうど『コッホ先生』の生徒たちの父親世代である。

2つの物語はほぼ同じ時代に、同じように、旧来のブルジョワジーの没落と新たな階級の台頭というテーマを描いている。『ブッデンブローク家』では、商人で市の要職を務めるブッデンブローク家が、少しずつ没落していくが、『コッホ先生』では、没落するブルジョワに変わって、新たな階級が台頭し、新たな時代が訪れることも予告される。新たな時代、それはフットボールとともにもたらされる。

3)トゥルネン〈伝統〉とスポーツ〈新たな時代〉が出会う場面
オープニングで流れる体操の図。この当時、このような図入りの体操書がたくさん出版された。
私はこの映画を、日本語字幕がついた日本版と、ドイツで買ったドイツ語版の両方を持っている。内容は同じだろうと思っていたら、ドイツ語版には、使われなかったシーンが収録されていた。このカットされたシーンのなかに、ドイツの伝統スポーツであるトゥルネンと、コッホがもたらしたフットボールとが出会う場面がある。

フェンシングの練習に励む父ハートゥング。
息子はコッホから教えられたフットボールについて説明する。
コッホ先生と出会い、フットボールを教えられた級長のフェリックス・ハートゥングは、家に帰り、この新たなスポーツを、学園の理事長をつとめる父リヒャルトに伝える。執事を相手に庭でフェンシングのトレーニングに励む父に、ボールを足でゴールに蹴りこむんだ、と説明する息子。怪訝そうな顔で話を聞く父。フェンシングや生徒たちが学校でやらされている器械体操および徒手体操は、この時代の上流階級のたしなみである。それらは19世紀初め以降、ドイツの伝統的な「身体訓練」―スポーツではない―として行われてきた「体育」(トゥルネン)である。

はじめてフットボールを教えられたフェリックスは、ボールを上手く蹴ることができず、転んでしまう。現在の我々から見ると、なんで?と思うのだが、当時の人々は丸いボールを蹴ったことがなかったのだ。ボールを蹴るという動作は、彼らの体育にも、そして上流階級の子どもの遊びにも含まれていなかったのだと考えられる。いっぽう労働者階級の子であるヨーストは、子供の頃から空き缶や石を蹴って遊んでいたため、だれよりもボールを蹴るのが上手かったのだろう。

4)トゥルネン対スポーツ、旧世代対新世代の対立、3つの家族が象徴する階級
この映画の大きなテーマである、フットボールとともに到来する新たな時代は、3つの家族によって象徴的に表現される。

旧来のブルジョワ、ハートゥング家。級長のフェリックスは、父が学園の理事長で大きなお屋敷に住んでいる。食事のシーンで商売敵を破産させたと言っていたので、ブッデンブロークのように商売や市の要職を務めているのかもしれない。父親のハートゥング会長は、学園の堅物教師(ラテン語のボッシュ先生や体操のイェンゼン先生)らとともに、旧時代的な秩序を代表する人物として描かれている。

体育用具メーカーのシュリッカー家。コッホ先生を追い出そうと画策するフェリックスに対して、親コッホ派のリーダー的な役割を務めるオットー・L・シュリッカー。父があん馬やメディシンボールを製造する体育用具工場を経営しており、彼も授業の後は職人さんのもとで修行に励んでいる。着任間もないコッホが招かれたパーティで、父シュリッカーが「ここは数十年前までブタ小屋だった」と自らの社屋を説明していたように、彼の会社はこの数十年で急成長し、今後もフットボールの製造販売などで、息子に代替わりしても、さらに大きくなっていくことだろう。

そして労働者階級のボーンシュテット家。息子のヨーストは、校長らの国民教育の理念によって特別に入学を許可されるが、階級を理由にいじめにあってしまう。母は息子の学業を支えるために工場で働いている。父親が一切登場しないが、もしかしたら戦争で亡くなって母子家庭なのかもしれない。

この時代、ギムナジウムには上流階級の子弟だけでなく、シュリッカーのような新興ブルジョワジーやボーンシュテットのようなプロレタリアの子供たちも進学するようになっていた。しかしギムナジウムを終え、大学に進む生徒は半分もいなかったというので、ヨーストのように途中で学業を諦める者もめずらしくはなかったのだろう。

5)まとめ
以上のようにこの作品には、フットボールが初めてドイツに導入された当時の子どもたちの熱狂と大人たちの反感とが対称的に描かれているだけでなく、フットボールとともに始まる新たな時代、階級的な区別がゆるやかになり、だれもが高等教育を受け、スポーツを楽しむことができるような時代の到来が見て取れる。こういった中心的なテーマ以外にも、旧時代の象徴とされているトゥルネンが教育の現場でどのように行われていたのか、当時の学校教育の様子、学校における体罰など、さまざまな観点から、現代との違いや連続性について考えることができよう。





2013年9月10日火曜日

マラソンとその間に考えていること


走るのが趣味だというと、走っている間に何を考えているの?とよく聞かれる。妻にもよく聞かれる。だいたい毎日の日課としてやってるランニングのときには、その日あったことを反芻したり、何か気になることをじっくり考えなおしたりしている。今日であれば、今度の公募書類にはどんなことを書いたらいいのか、とか、今書いている論文はどういう予定で仕上げていったらいいか、なんてことを考えていたと思う。妻とケンカした日は、そのことも考える。そして、面白いのは、小一時間にわたって走りながら考え事をしていても、帰宅する頃にはだいたい何もかも忘れているということだ。嫌なことを考えていても、帰ってくると忘れる。たぶんこれは、二十代の頃にいつも通っていた銭湯と同じ効能ではないかと思う。銭湯に浸かるときも、いろいろなことを考えているが、サウナに浸かり、水風呂に入り、そして熱湯へというサイクルを何度も繰り返すうちに、考えていたことはだいたい忘れて、さっぱりした気分になる。
銭湯のことはともかく、こうやってこの5年くらいの間、走ることで生きているうちに生じるいろいろな辛いことを気にせずに乗り切ってきたのだろうと思う。しかし、何も残らないのでは、研究や仕事のことを考えても意味が無いような気もする。

マラソン大会に出ると、走る時間は当然もっと長くなる。フルマラソンなら、私の場合は4時間以上もかかってしまうので、考えることもたくさんある。でもたいてい、マラソン大会のように遠いところに出かけて、見知らぬ場所を走るときには、一人で考え事をするよりも、純粋に周りの景色を見て楽しんでいる。サイクリングやドライブに行くときと同じように、あのカーブを曲がったら何が見えるかな?わーい、きれいな海だな―といった具合に、自然の景色を眺めるのが何より楽しい。ドレスデンでの10kmレースや、京都のハーフマラソンのように、自分が住んでいる町のなかを走るときも、幅の広い車道から眺める町並みが、ふだんとはまったく違って見えるので新鮮に感じられる。

先程述べたように、走っているうちに何を考えていたか忘れてしまうので、フルマラソンのような長時間の大会では、写真を撮るようにしている。次の大会が近づいているので、初めてフルマラソンに出場した、2010年おきなわマラソンの際に走りながら撮った写真を見直してみた。写真を眺めていると、あの当時の自分がどんなことを感じながら走っていたのかが思い出されてくる。賑やかな応援や奇抜な仮装ランナーに驚き、補給食として提供されるそうめんに面食らい、足が痛くてもう走れないけど景色がとてもきれいで見入ってしまったことなど、当時の記憶が身体感覚を伴ってよみがえる。次の大会が楽しみだ。
スタート地点、嫌でも目に入る黄獣。

ウルトラマンは速かった

素麺がこういう形で提供されるとは

米軍基地の中でも応援をうけました

あと1km地点。海と空がきれいだった

2013年8月15日木曜日

テストというコミュニケーション


学期末テストの採点が終わり、担当する12クラスすべての成績を登録することができた。

大学でドイツ語を教えるようになって4年目(民間の語学学校、個人教授などはもっと前からやってた)になるけど、テストのたびに、自分の教え方を考えなおさせられる。

テストのできは、かならずしも学生のでき、いわゆる頭の善し悪しや勉強量と相関があるわけではない。いや、おそらく相関関係があるのだろうけど、私が重視しているのはそういうことではない。ドイツ語の期末試験で重視するのは、ドイツ語がどれだけできるようになっているか、ということよりも、その学期中に教えたことがどれだけ身についているかということである。つまり、よほど勉強してない(ほとんど授業に出ていないとか)一部の学生以外は、だいたいみんなできて当然なのが、学期末試験だと私は考えている。

しかし、当然のことながら全員が全員100点をとるようなクラスはない。全体的によくできているクラスもあれば、全体にできていないクラスもある。そしてできの善し悪しにかかわらず言えるのが、同じクラスの中では、正答率が低い設問は同じだということだ。それはその設問が問う内容について、私が授業中にちゃんと説明しきれなかったということでもあるだろう。

あるクラスでは(このクラスは全体的によく出来ていたが)命令形の間違いが多かった。別のクラスでは、前置詞についての設問が正答率が低かった。また別のクラスでは形容詞の語尾が、あるいは定冠詞類・不定冠詞類のミスが目立つクラスもあった。

このように、設問ごとに大きな差が生じてしまうのはどこの大学でも同じだ。そして、どの大学の学生も、同じ文法項目で躓いているわけではない―たとえば形容詞でみんな間違うとか―ので、やはり教材や教え方に問題があったのだと考えないわけにはいかない。教え方に問題があるとは、どういうことだろうか。説明の仕方がわるかったのかもしれない。もっとパートナー練習や問題練習をやったらよかったかもしれない。宿題で作文や読解の練習をやらせればよかったかもしれない。このように、テストを採点することで、個々の学生の頑張り様だけでなく、それぞれのクラスの授業でどのような反省点があったのかもわかってくる。

定期テストは授業アンケートよりもずっと有効な、教員と学生のコミュニケーションだ。彼らに私の言いたいことが伝わっていなければ、それは得点として現れる。文法事項の不理解だけでなく、学生の勉強の仕方は、逆に私の授業への意気込みに対する答えでもある。彼らの不勉強をせめてもしかたがない。反省すべきは、自分の授業のやり方だ。少しでも勉強してテストに臨んだ学生の期待をうらぎってはいけない。後期の授業に向けて、各クラスごとに反省点をまとめておきたい。

2013年7月31日水曜日

先生の研究


研究者あるいはそれに類する人に初めて接したのはいつだっただろうか。

大学入学以前に、研究という営みを身をもって見せてくれたのは、高校時代2年生と3年生のクラス担任をつとめていた、生物のS先生だった。理系の進学校だった母校(男子校だったこともあり、生徒の半分以上は国立大理系学部を目指すことになっていた)では、理系コースはつうじょう物理と化学を選択し、文系コースが生物をとることになっていた。だから、S先生は生物担当だけど国立文系クラスの担任をつとめていた。

文学部に進んで、外国語と哲学や歴史を勉強しようと思っていた私にとって、身近な先生は一年次の担任だった社会の先生や、一番の得意科目だった現代文の先生だった。彼らとは何かにつけ相談をしたり、おしゃべりをしに行ったりしてたはずだが、担任であるS先生は、どうせ理系の人だし、とちょっと敬遠していたと思う。S先生はいつも穏やかで、やさしかった。そして体が細くて背が高かった。三者面談で初めて先生を見た母は、ナナフシみたい、と言った。私たち生徒もみな、彼の専門分野から連想して、なんとなく昆虫っぽい人だと思っていた。

昆虫に似ているS先生は、私たちにとって、少々とっつきにくい存在だった。いつもおだやかだけど、何を考えてるのかよくわからない。授業も、親切丁寧ではあったが、とくに熱気のこもった授業というわけではなかった。そんな先生が情熱を燃やしていたのが、専門である昆虫の研究である。どのクラスの生徒も、かつて彼が大学院時代に取り組んだ、糞虫の研究の話を聞いていたはずだ。島に住む鹿のふんを食べる虫を長い時間をかけて研究したそうだ。虫の研究は学生時代だけでは終わらない。教員の仕事の合間にも、日々野山で虫を捕まえては、授業の前に、どこで捕まえたどんな虫なのかを説明してくれていた。とはいえ、こっちは文系コースの高校生だ。カブトムシならまだしも、なんだかわからないバッタやアリやスズムシを見せられても困る。わりとみんな冷ややかな反応だったと思う。

高校を卒業して10年以上がすぎ、自分自身もなにやら人に理解されづらいマイナーな研究に取り組んだ末、博士号を取得する所まできて、なんだかS先生を懐かしく思い出している。彼の態度はまさしく、真摯に自らの学問に取り組む研究者そのものだった。その後大学院の同じ研究科で昆虫学を専門とする人と知り合ったので、S先生の話をしてみたら、どうやらその業界ではそれなりの有名人であるらしく、名前を知っていた。あるとき地元に帰って、たまたま書店に寄ってみたら、S先生が高校を退職後に出版した本が置いてあった。優しく物静かな先生には、あの荒っぽい男子校での教員生活は苦痛が多かったかもしれない。しかし、文系クラスで授業の前に熱心に昆虫の話をする彼のことは、生徒のみなの心に刻まれているはずだ。

2013年7月21日日曜日

夏休みは映画を見よう


私はドイツ語を専門的に学ぶ学生を教えていない(いちおう京大のドイツ語IIには文学部生もいるが、どうも独文志望者ではなさそう)ので、あまり学生がドイツ語をしっかりできるようにしなければ、と思うことはない。もちろんできるようになってほしいが、やりたい学生は自分でやるだろうし、工学でも経済学でも、自分の専門についての勉強を最優先するのがいちばんだと思っている。語学などは、勉強の基礎でしかない。

だから、これまで夏休みには、課題などを指示したことは一度もない。みんな思い思いに夏休みをすごせばいい。どうせ夏休みなのだから、暑い暑いといってるあいだに、何もせずに終わってしまうのだ。せいぜい、短期バイトで文字通り汗水たらしてお金を稼いで、ちょっとばかり社会的な成功体験を得ることができるくらいだ。私だって、学生の頃は前期試験が終わったら、ほとんど勉強はしなかったし。

授業で学生たちに宿題の指示をすることはないので、ここで自分なりに宿題の提案をしておきたい。私が夏休みの宿題として考えたのは、映画を見ることだ。なんでもいいから面白いそうな映画のDVDを買って、何回か繰り返し見る。はじめから終わりまで律儀に見通す必要はなく、好きな場面、好きなセリフ、好きな女優さんが出ているところだけでも、何度も見る。不思議なことに映画というのは、よくできていて、いい映画は何回見ても楽しめる。
この夏、すでに数回繰り返して見た『コッホ先生と僕らの革命』
左はドイツで買った現地版。日本語版にはない、メイキングや
カットされたシーンも収録されている。
映画はもちろん日本語の字幕付きでいい。字幕を見ながら、それに応じたドイツ語がどこに出てきたのかが聞き取れるといい。何度か同じ場面、同じセリフを聞いているうちに、字幕に反映されていないドイツ語の単語があったことがわかる。さらに何度も聞いていると、だんだん、セリフがドイツ語の文章になって頭のなかに流れてくるようになる。

学部生の頃、フランスやドイツに出かけたが、旅行会話の本をもっていって、どのように発音するのかをイメージする手がかりになったのが、映画だった。現地で会話をするさい、映画の中のセリフを思い出し、単語は分からずとも、こんなリズムで、こんな音で、挨拶したり注文したりできたらいいのかな、と大雑把なイメージを描いたものだった。今考えると、あのころ楽しく見ていた映画は、語の発音に耳を慣らすためにちょうどよかったのだろう。

現在の私にとっても、映画は素晴らしい教材となっている。現地にいれば、テレビ番組などを長い時間見て、会話のヒントになるような表現を学ぶことができるが、日本でそれを学ぶには、映画が最適だ。同じ映画を何度も見て、見るたびに新たな発見をして、辞書を引いて表現を身につける。日本未公開の映画ももちろん、ドイツ語字幕を見たり、ドラマの場合は字幕がないことが多いので仕方ないが、場合によっては字幕なしでも見る。字幕なしで、ドイツ語をそのまま理解するのはまだ難しいが、それでも何度か繰り返し見るうちに、単語が聞き取れるようになるし、場面やストーリーの意味もよくわかってくる。

初級者には、映画の効用はわからないかもしれないが、とりあえずは勉強など忘れて、ドイツ映画を見て楽しんでほしい。この表現、なんだろう?と疑問を持つことが出来れば、それだけでもドイツ語学習のきっかけになる。

2013年7月14日日曜日

勉強しはじめる学生たち


7月に入り、4月から開講したドイツ語のクラスは、11週から12週目を迎える。この時期、なぜかどの大学のクラスでも、学生たちがよく勉強するようになってくる。試験が近いから、欠席が多かった者は、必死で出席点を稼ごうとするし、小テストができなかった者は、なんとか期末テストでは挽回しようとする。それはもちろん当然のことだ。所詮大学での第二外国語などというものは、試験のため、単位のために学ぶものでしかないのだろう。だが、私には、学生たちはべつにテストのためにのみ、にわか勉強をしているわけではないのではないか、と思えるのだ。

4月から5月頃、どの大学でも、学生たちは、ドイツ語の勉強にとまどう。ローマ字読みといわれるものの、ところどころ独特のルールがある発音、名詞の性や定冠詞・不定冠詞の格変化、動詞も人称代名詞ごとに形が変わる。これまで中学高校で勉強してきた英語とは、ずいぶん異なっている。別の言語なのだから当然だし、受験英語とは勉強の仕方や目指すべきものもことなっている。多くの学生たちはここで困惑する。コメントカードを書いてもらったり、小テストの際に感想を聞くと、覚えることが多い、ついていける自信がないなど、否定的・悲観的な意見が多い。それがだんだんと変わってきた。
いったい何が変わったのだろう。

おそらく学生たちは、ドイツ語の分からなさをうけいれられるようになったのかもしれない。ドイツ語の学習では、というより大学での勉強において重要なのは、分からなさをふくめて、あるいは分からなさを抱えながら、勉強を続けていくということだ。何もかも全部分からなければならないのではない。そうではなく、分からないなりに、すこしずつわかっていく必要があるのだ。

これは、初級クラスだけではなく、カフカの講読をやってる中級クラスでも同じ。中級クラスでは、短編小説を読んでいるが、そこでもやはり、語義や解釈の多様性、こうも読めるけど別の読み方もできるというゆらぎのなかで考えながら、読んでいくという作業が必要だ。それも、徐々に出来るようになってきた。前にも書いたが、学生たちが学ぶプロセスを見るのは、私にとっての学び直しでもある。だからなおのこと、彼らの学習が変化していくのを見るのは興味深い。

2013年6月30日日曜日

彦根から京都まで4時間かけて帰った日

先週の授業後、帰宅途中にJR線が止まり、自宅まで帰るのに4時間もかかった。貴重な体験だったので、経過をまとめておきたい。
振替輸送のルート。彦根から近江鉄道に乗り、
八日市を経由して貴生川まで行き草津線で草津へ
出るというルート。ものすごい遠回り。


滋賀県立大は、非常勤で出講している4つの大学の中でもいちばん気に入っている学校だ。学生たちは素直でよく勉強するし、校舎はたいしたことないけど、琵琶湖をはじめ、周辺環境がいい。通勤に2時間ほどかかるが、そのうち1時間半くらいは田園地帯を、人の乗ってない電車でのんびり走るだけなので、帰省したような気分になる。そして帰り道には、彦根や近江鉄道や滋賀の小さな町に寄り道することもできる。いいことづくめだ。

しかし県立大で教えるようになって、最初に危惧したのは、ここまで来る交通手段が一つしかない、という点だった。昨年の新学期が始まったころ、一人の学生が、琵琶湖線の電車の遅延で授業に間に合わなかったと言って、大分遅れてやってきた。私自身は、早めに出勤してお弁当を食べてから3時間目の授業に行くので、遅れに巻き込まれることはなかった。しかし、京都方面から南彦根に来るには、JR琵琶湖線以外の手段はない。だから、この路線がなんらかの理由でストップしてしまえば、学生たちの大半が、そして私も授業に来れなくなってしまう。考えてみても、他に代替の交通手段が思いつかないのだ。

これはよく考えればちょっと危険だ。京都や大阪であれば、路線バスや私鉄等、必ず別の交通機関がある。5月の連休中に龍谷大で授業があったときは、いつも乗ってるJR奈良線の電車が休日ダイヤのため走っておらず、京都駅から急遽地下鉄に乗り換えて別の駅から大学に行ったことがあった。こういうことは龍大に限らず、他の大学の場合でもよくあることだろう。しかし、滋賀県立大の場合はこうはいかない。電車が途中で止まったら、そして復旧の見込みがたたなかったら、それでもうおしまいということにもなりかねない。というより、ほぼそうなってしまうだろう。

というようなことを、教えはじめた当初に心配していたのだが、いつしか通勤に慣れ、自分が大学までいけなくなるとか、逆に帰れなくなるなんてことは考えもしなくなっていた。しかし、事故や災害は忘れた頃にやってくる。

先週の水曜日は台風のような大雨だった。授業を終え、ふだんよりずっと混んでいるバスに乗り込み南彦根駅に着き、17時7分発の普通電車で京都駅へと出発した。彦根からの帰りの電車は、学生たちが乗っているとはいえ、ずいぶん空いている。私は電車に乗るとだいたいいつもすぐに眠ってしまう。15分後、電車は能登川駅に到着した。

ちょっと目を覚まして、あ、能登川か、と思ってまた眠りについたが、電車が動いている感じがしないので、すぐに目が覚めた。耳栓代わりに差していたイヤホンを抜いて、放送に耳を傾けると、事故のため電車を止めているという。これからどうするんだ?と思っているうちに、すぐ電車が動き始めた。さらに5分後、安土駅に着いた。そして再び電車は止まったままになる。今度はどうしたんだ?とまたイヤホンを抜くと、野洲で架線トラブルが起こったため、安土から草津の間は運転を取りやめることになったという。そしてこの電車も、これ以上先には進まず、電車は米原方面に戻るというアナウンスだった。乗客たちが、何もない安土駅で降ろされる。

他の乗客たちは、家の人に迎えを頼んだり、タクシーで電車が動いている草津まで行く相談をしている。京都まではまだまだ遠い。タクシーで草津までといっても、かなり距離がある。ネットで調べたところ、復旧は20時以降になるという。まだ2時間半もある。晴れていればいいものの、雨が激しく降る中、何もない安土駅にとどまるのは、考えられなかった。信長さんの銅像を近くで見てみたかったが、織田信長像だけでは、2時間半も間が持たない。そこで私は、乗ってきた電車に乗り込み、ふたたび彦根まで引き返すことにした。ここで4時間目の授業に出ていた環境学部の男子学生たちと会った。彼らも京都・大阪方面に帰るらしい。彼らはJRが案内しているように、近江鉄道で貴生川まで行って、そこから草津線で草津駅に行き、JR琵琶湖線で帰るという。とりあえず、私も同行することにした。

18時頃:南彦根駅に到着。結局一時間かけて安土までいって帰ってきたことになる。

18時10分頃:彦根駅で下車。JRの指示に従い、近江鉄道に乗り換える。一ヶ月前、ひとりで乗りに来たときは、天気が良くて乗客も少なく楽しかったが、今回は雨が降っている上に、同じように振替輸送で帰る人たちがたくさん乗っていて、まったく旅情を味わう気になれなかった。いっぽう、同行している環境学部の学生たちは、来週の小テストのために、ドイツ語の勉強を始めた。彼らの質問に答えたりしているうちに、電車は少しずつ滋賀の奥地へと進んでいった。

19時ごろ:八日市駅に到着。前回はここで近江八幡行きの路線に乗り換えたが、今回はさらに南の貴生川行きに乗り換える。乗り換えた列車は、通勤通学の滋賀県民たちもたくさん乗っていて、座ることができなかった。

19時30分頃:貴生川行きの近江鉄道にのった、私と学生3人は、立ったまま、天井に張り巡らされていく蜘蛛の巣を見守っていた。近江鉄道の車両は古びていて薄汚く、天井には蜘蛛がせっせと巣を作っていた。車窓から見える滋賀の田舎はまっくらで、手持ち無沙汰な我々は、蜘蛛の巣づくりを観察し、獲物がかかるのを待ち構えていた。

19:45分頃:貴生川駅が近づくにつれ、車両の繋ぎ目から発せられる音が大きくなってきた。線路が悪いのか、車両が悪いのかわからないが、定期的に連結部分ががくんがくんと大きく揺れた。連結器が外れてしまったら、と少し心配になった。復旧予定時刻の8時が近づいていたので、ツイッター等で状況を調べてみると、草津駅のほうも大変なことになっていたことがわかった。

20時頃:貴生川駅に到着。貴生川というところに来たのは初めてだったが、あの信楽高原鉄道に乗り換える駅だった。ここは滋賀の南のほう、なんというか滋賀の奥地なのだ、ということがわかった。私は代替輸送でしかたなくこんな遠いところに来てしまったわけだが、ふだんからこんな何もない田舎駅から電車に乗って大学に来ている学生がいるんだ、と思うとなんだか切なくなった。彼らのためにも、少しでも良い授業をしなければ、と決意を新たにした。

20時半頃:草津線で草津駅に到着。すでに琵琶湖線は復旧していた。復旧直後というわけではなかったが、すごく込んだ電車に乗り込み、京都へ向かった。大阪で仕事の時は、通勤ラッシュ時に新快速に乗るが、それでもこんなには混まないなあ、と不自由な姿勢で、疲れてもうろうとしながら思った。

21時15分頃:彦根を発って4時間あまり、ようやく自宅最寄り駅まで来れた。ふだんなら乗り換え待ちを含めても2時間以内につくのに、まさかこんな長旅をすることになるとは思いもよらなかった。今思うと、これって一種の帰宅難民みたいなものだったのかもしれない。しかしそれでも退屈もせず、楽しく電車の旅ができたのも、同行してくれた学生たちのおかげだ。彼らと蜘蛛の巣を観察したことはきっと忘れないだろう。
楽しげな近江鉄道の路線案内。琵琶湖沿いを走るJR琵琶湖線と異なり、内陸のほう、山のほうへと行くのが
近江鉄道。この路線図を見ても、貴生川がもうだいぶ山のほうだということが分かる。


2013年6月26日水曜日

おすすめの単語集

単語集ではないけど、基本語辞典はもってた
説明はわかりやすいがABC順なので暗記するには不便
よく学生からおすすめの単語集を教えてほしいという要望があるけど、それはどういうことなのか考えてみた。

どういうことなのか?というのは、多くのドイツ語教員たちは、たぶん単語集を使って勉強したりはしなかったのだろうから、何やら妙な感じがするのだ。何で単語集が必要なのか?と思ってしまう。

私自身の勉強法を振り返ると、単語はたぶん教科書に出てきて、わからなかったものをつぎつぎ覚えていったんだと思う。そしていまでも基本的には同じようなやり方を続けている。知らない単語を調べる、何回か出くわす単語を覚える。これの繰り返しでしかない。

学習者向けの単語集は、本屋やAmazonを見れば、何冊か売っている。ABC順だったりしてすごく使いにくいのが多いけど、独検用などは、受験英語のように頻度順や重要度順になっていたりして、多少は使いやすいのだろう。

でも、独検を受けないのであれば、独検用単語集を使う必要はあまりない。ということは、学生たちが求めている単語集は、こういうものではないということだ。

単語集を欲しがる学生というのは、おそらく、教科書に出てくる単語に優先順位をつけて欲しいのだと思う。私は、よく出てくる単語は自ずと覚えるし、覚えられない単語は辞書で引けばいいと思っているので、単語を覚えなさい、とはあまり言っていない。

でも、それではあまりに不親切なので、なるべく間違いやすい単語や覚えておくと便利な単語は、小テストなどでたびたび取り上げるようにしている。教員にできることなんて、そのくらいじゃないだろうか。

この単語が試験に出るよ、と試験に出る単語集をプリントにまとめて配った所で、それは私が作る試験に出る、ということでしかない。どの単語をどれだけ覚えるかは、結局のところ学習者それぞれの目的に応じて違うわけだから。

大学受験を終えたばかりの学生たちは、大学での学習も漠然と、優先順位と勉強するべきことの範囲が決まっていると思っているのかもしれない。それをお客様的なマインドと批判する教員も多い。たしかにそうなのだが、これまで受験のための勉強ばかりしてきたのだから、そういう発想になるのも当然だろうと思う。だから、大学での語学の勉強は、何かしらの目標や達成すべき水準が定まっているわけではなく、それぞれの目的・目標に向かって取り組んでほしい、と最初の授業で伝えるようにしている。

しかし、そういう私のようにふわふわしたことを言ってると、グローバル人材を養成しなければ、という昨今の流れにはついていけなくなってしまうので、ドイツ語教育の世界でも、こういうことを勉強して、ここまで使えるようになって、こういうふうにグローバル人材になれますよ、という到達目標を提示しなければならなくなってきた。

私自身が留学したこともなく、もっぱら本を読むためにドイツ語を勉強してきたせいか、このような、実用のためのドイツ語力養成を大学でやるべきなのか、ということについては懐疑的だ。私が教えている理系の学生たちは、別にドイツ語ができるようになりたくて勉強しているわけではない。でもみんなとても楽しそうに練習している。それはおそらく、実用とは別の面白さがあるからだ。大学で教育をしているからには、この点を大切にしたい。彼らが勉強しているドイツ語は、実用的ではないだろうし、彼らは来年になったらドイツ語を殆ど忘れてしまうだろう。しかし、単語を覚え、文法事項を整理するための努力は、決して無駄にならない。何語を勉強するときにも応用可能だし、別の知識を得る際にも役に立つ。

このように考えている私は、単語を覚えるなら、自分で工夫してやってみよう、と伝えたい。

2013年6月23日日曜日

地蔵ブログを作りました

趣味で始めた地蔵写真がずいぶん増えてきたので、今度は地蔵写真を中心にした、新たなブログを作りました。これまで撮った地蔵や地蔵撮影でのエピソード、それから新たに見つけたお地蔵さんなどをここで紹介していこうと思います。
画面いっぱいに広がる地蔵写真たち

ドイツでマラソン大会に出たこと


2013年の3月に、ドレスデンに一ヶ月滞在できることが決まって、まず思いついたのは、現地でマラソン大会に出よう、ということだった。
ちょうど冬ごろは、日本ではマラソン大会のシーズンだった。私は今年も2月の木津川マラソンにエントリーし、春には小豆島のハーフマラソンに出場するつもりだった(学会発表と重なり、欠場)。以前からドイツでは、どんなふうにマラソン大会がかいされているのか興味があったし、ちょうどシーズン中だし、ということで、ネット上で情報を集め、3月の一ヶ月間で出場できそうな大会を探すことにした。

いくつかのサイトを見ると、日本よりもはるかに開催される大会数が多いことがわかった。そして、さらに驚いたのは、出走の直前、大会当日の朝までエントリーできる大会も多いということだった。
3月に入り、現地で暮らし始めてから、コンディションを整えつつ、出場する大会を決めることにした。
エルベ河畔、ジョギングに最適

そしてここで再び日本との違いに気づく。日本では、マラソン大会はRunnetなどを通じて申し込み、振込、コンビニ決済、カード払いなどの方法で、参加料を支払うことになっている(まれに、オンラインで申し込みできない大会―例:東山三十六峰マウンテンマラソン―もあるが)。しかしドイツでは、カード決済はできず振込または口座引き落としでなければ、オンラインで申し込めないという。そして振込にしても口座引き落としにしても、ドイツに居住し、ドイツの銀行に口座を持っていなければ不可能である。日本のように、銀行口座とは関係なく現金で振り込むということは原則的に行われていない。そうなると、私のような外国人がエントリーするには、ちょくせつ受付会場で申し込み、参加料を払わなければならない。ドイツに来る前は、ベルリン郊外Marienwälderで行われる、baff Natur-Marathonというフルマラソンの大会に出ようと思っていたが、全く土地勘のない田舎町で、会場に時間通りについて、さらに受付をその場でしなければならない、というのはなんだか不安な気がしたため、予定を変更し、滞在先のドレスデン市内で行われる大会に出ることにした。
受付でもらえるサンプルや広告


ノンアルコールビールは、理想的なスポーツ飲料!!
ゼッケン
受付は大会前日に、主催者の一つであるカールシュタットですぐに済ませることができた。参加費を払うと、名前(下の名前)を聞かれた。え?と思いつつ、口頭だと通じにくいだろうと、Goethe Institutの受講証を見せると、すぐにゼッケンを発行してくれた。ゼッケンには番号と、名前が印刷されるのだ。受付が終わると、主催者が用意してくれたおみやげ袋のようなものが手渡される。これは日本の大会と同じだ。宿舎に帰り、中身を確認すると、スポンサー企業のちらしやサンプル、近く行われる他の大会の案内などが入っていた。これも日本と同じ。おもしろかったのは、スポンサーの一つに、ビール会社があり、その会社のノンアルコールビールのパンフが入っていたことだ。アスリートや芸能人のインタビューとともに、当社のノンアルコールビールが、いかにスポーツ飲料として優れているかがアピールされている。ドイツではノンアルコールビールはスポーツ飲料扱いなのだろう。

大会当日は、日本の大会と同じく、出走1時間前ごろに会場入りし、更衣室で着替えや手荷物を預けたりした。スタート地点には、ステージが設けられ、アナウンサーがいろいろ喋ったり音楽をかけたりして、なにやら賑やかな様子だった。
スタートおよびゴールのドレスデン
市庁舎前。ステージ前にひらひらして
いる模型飛行機の翼みたいなのは、
ドイツのノボリ。イベント会場やお店
でよく見る。
当日の気温はたぶん最高で0℃ほど。天気は良かったが、かなり寒い。私は日本のマラソン大会と同じように、長袖のシャツ、半袖のピステ、下は七分丈のウィンドブレーカーという格好。ガタガタ震えていたが、スタートが近づいて人が多くなると、ずいぶん暖かくなった。そして背が高いドイツ人に囲まれて全く周りが見えなくなった。日本の大会と同じく、一番多い年齢層は中高年。隣近所も自分の親くらいのおじさんおばさんばかりなのだが、みんな体が大きい。レースが始まってみて、おじさんおばさんたちがかなり速くて、また驚いた。体が大きい=脚が長いゆえのスピードなのかと思った。このレースは、ドレスデン旧市街の中心部に設けられた一周5kmのコースを2周する。3月はじめにやってきて、何度も見慣れた街の中を走るのは気持ちが良かった。ふだんはトラムにのって通過するメインストリートも、車道を走ると全然違って見える。一周5kmということは、自宅から渡月橋を経て松尾橋までだな、と自分のいつものコースに置き換えて考えていたが、路面が石畳だったため、予想よりもつかれた。ドイツに来てからのジョギングでも、あまり街中を走ることはなかったため、石畳のでこぼこに足を取られそうでこわかった。また、街中の大会のため、応援もにぎやかだった。先日の豪雨で冠水していたエルベ河畔の通りには、ドラム隊が来ていて、どんがらどんがら賑やかな演奏で応援してくれていた。
エルベ河畔の道路

デパートが両側に立つ中心街

川の近くは風が強くて寒かった

とはいえ、本気で走れば10kmなんてあっという間だ。しんどいな、と思い始めた頃には終わってしまう。だいたい50分ほどでゴールした。あとで完走証を受け取ると、タイムと順位が印刷されていた。出場者は1500人くらいなので、まあまあ健闘したといえるかも。それから名前の下にGoethe Insititutと書いてあるのは、受付の際に受講証を提示したからだろう。

ゴール後は、日本と同じように、飲み物がもらえる。大抵の場合はスポーツドリンクなのだが、この大会はスポンサーがビールの会社だから、ノンアルコールビールだった。運動直後には炭酸飲料は飲みにくいが、のどが渇いていたので、まあまあおいしかった。会場を見回すと、ドイツ人たちはノンアルコールビールを飲み干したあとに、近くに出ていた屋台で普通のビールも買って飲んでいた。走った後とはいえ、気温は0℃くらいなので、すぐに着替えた。完走証とともに、メダルももらえた。
スポンサーのKrombacherがノンアルコールビールを配っていた
もう少し滞在期間が長ければ、あるいはもっと満足に練習できる季節であれば(3月中は毎日のように雪が降り、思うように練習できなかった)、他の大会にも出てみたかった。次回はフルマラソンに出場したい。

2013年6月13日木曜日

パン作り熱中時代2


2008年の6月頃、パン作りに熱中していた。
粉を捏ねて食べ物ができる、ということが単純におもしろかったのだろう。当時私は、外でベーグルを食べたことがなかった。ネット上の情報でなんとなく、見た目や味は想像ができていたが、自分で作りながら、どんな味になれば正解なのか、わかっていなかったのだ。後日近所のパン屋でベーグルを買って食べ、思ったよりまずかったと落胆したのを覚えている。この、2回めの製作記録を見ていると、本当に美味しそうで、また作りたくなってきた。



以下、2008年6月10日の日記より

実は日曜の夕方に、もう一回パンを焼いていたのだ。 

日曜3時にエントリを記入してから、夕方5時ごろもう一回やってみようと 
思い立って、夕飯前にこねたり焼いたりの作業をやってたんだ。 
なんでもそうだが、手がおぼえるまで練習しないと 
上手にできるようにはならない。 

これまでにも、オムライスやしもつかれは 
自分が食べるのもいやになるくらい練習をつんできた。 
パンも同じ。とにかく目をつぶっててもできるくらいに 
ならなきゃ、美味しいものは作れない。 

前回の反省点を活かし、発酵の時間や温度にもこだわってみた。 
ふだんパスタを盛るのに使ってた皿に4個並べたのだが、 
途中で、大きく膨らますには、二個ずつに分けたほうがいいかもと思い 
もう一枚皿をだして乗せかえる。 
 

なるべくあたたかいほうが発酵が進むというのは前から知っていた。こねるさいの水も、ぬるま湯を使っていたし。それなら発酵中にも熱があったほうがよさそうだと思い、お湯につけてしぼったタオルを生地の上に載せておいた。 

 
50分くらい経って、タオルを取り除けるとこんな状態。 
前回以上にふっかふかに膨らんでいた。 
やっぱり発酵の段階がかなり重要みたい。 

 
前回写真にとらなかったけど、焼く前にこうやって両面を30秒ずつゆでている。こうすると発酵が止まるのかそれとも内側に熱が通るのか、なんのためにやってるのかはよくわからない。ちなみにこのお湯の中には砂糖やハチミツを溶かしいれるとパンにつやがでるそうだ。 
うちにはハチミツ無いので、砂糖水をわかした。 

 
 
できあがりはこのとおり。 
前回に比べてふっくらした様子なのは見ただけでもおわかりいただけるだろう。 それにしても焼くのが難しい。トースターなのであっという間に黒焦げになる。 焦がさないよう、パンの内側に熱を通すために、表面が焼けたらホイルに包んで蒸し焼きにしているのだが、これでいいのだろうか? 
ネットで調べた情報によれば、もっと小さめに作って こまめにトースター内での配置を動かしたりして満遍なく焼くのがいいとのこと。オーブンだったらそんなめんどうなことしなくてもいいのだろうか。 

前回作ったぶんは、冷凍状態からあたためなおすと皮が硬くて 全体的に失敗した蒸しケーキみたいな食感だったのだが、今回はあたためなおしてもじゅうぶん美味しかった。だけどおれが思う、ベーグルサンドに使うようなベーグルとはまだ違うんじゃないだろうか。
まだまだ納得がいく出来には遠い。 

明日あたりもう一回作ってみたい。

パン作りに熱中していた

妻がパンを作った。本人は失敗したと、落ち込んでいたが、KFCのビスケットみたいにバターの風味が豊かでカリカリしていてなかなか美味しかった。いま自宅には、妻が買ってきた強力粉などが大量にある。せっかくだし、再びパンを作ってみようかな、と思い、かつて別の場所にまとめておいたパン作りの記録を見なおしてみた。これがけっこうおもしろいので、こちらに転載しておきたい。


以下、2008年6月8日の日記より

君のたーめにーパンを焼くー♪
と歌ったのはまさよしだが、
おれは自分が食べるために焼く。

実は先月半ばに一回ベーグル作りにチャレンジしていたのだが、
このときはあえなく失敗。その後なかなか時間が取れなくて
リベンジの機会がなかったのだけど、意を決してやってみた。

ちなみに作り方は、ニコ動から。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1055686
このうp主は料理が上手なだけでなく、手がとてもきれいで大人気。

何度も見直して作り方や注意すべき点を確認。
ふせんにメモをとって、さあ作業開始。 


とにかく材料の正確な分量と、時間配分に気をつけた。

はかりで粉類を計測。強力粉にライ麦を足す。

ここにぬるま湯で溶いたイーストを少しずつ加えて
ぐいぐいこね回す。

小麦粉は、こねあがるまでかなり粘つくので
途中経過の写真が撮れなかった。


手につかないくらい落ち着いてきたら
包丁で4等分して丸め、いったん生地を休ませる。

15分くらい放置した生地を、ふたたびこねてベーグル型に整形。


今度は40~50分くらい放置して、発酵させる。
前回はこの段階で失敗したんだと思う。
充分に時間をかけて、50分後に見てみると、こんな状態に。


こうしてみると思ったほど膨らんでるようには
見えないのだが、手にとって見るとぜんぜん感触が違う。
それまでのねんどみたいな手触りが、ふかふかした、
空気感のようなものを漂わせるようになる。

その後熱湯で軽くゆでて、トースターで焼く。
オーブンがあれば完璧なのだろうが、うちにはトースターしかないので
しばらく空焼きして温まった状態で、10分くらい焼いてみた。


できあがりはこの通り。
写真だと焼きすぎ、焦げすぎに見えるんだが
実際はこんなに黒くない。

表面がてかてかしてて、ライ麦の香りがただよっていてとてもおいしそう。とりあえず一個を半切りにして、バターとマーマレードを塗って食べてみた。 けっこううまい。やっぱりバターよりはクリームチーズのほうがあいそうだ。 夕方に大国屋で買ってこよう。

パン作りってめんどくさそうな印象だけど、仕組みと要領を理解できればわりと簡単にできるんじゃないかと思う。できれば周りの友人たちに配ったりもしたいので次回は大量生産を目指したい。

2013年5月22日水曜日

近江鉄道に乗ってみた


水曜日は滋賀県立大学で授業。

すっかり日が長くなったおかげで、4時限目を終えて京都に戻ってきてもまだ明るい。帰りの電車で車窓から見える田園風景がとても素晴らしくて、毎週寄り道もしないで真っ直ぐ帰るのがなんだかもったいないように思っていた。

今日は急いでやらなければならないこともない(週末の学会はあるけど)し、先週の体調不良も治ったし、ちょっと寄り道して、彦根駅から出ている私鉄近江鉄道に乗ってみることにした。

近江鉄道の路線は、米原から貴生川の本線、高宮から多賀大社前の多賀線、近江八幡から八日市への八日市線、と三種類ある。

簡単に位置関係を説明すれば、琵琶湖沿岸から東にいくとJR、さらに東に近江鉄道線が通っている。琵琶湖も安土城もない、滋賀の中でもより地味な滋賀を通っている路線と云ってよかろう。今回は県立大からバスで彦根駅に移動し、彦根駅から本線で八日市駅、八日市駅で乗り換えて近江八幡駅まで行って、そこから東海道線で京都に戻るというルート。普段通りの通勤路で帰るより、約1時間の遠回りになる。

彦根駅前。ひこにゃんと井伊直政像(右のほう)
彦根に通い始めて2年目だが、彦根市中心部を通ることはこれまで一度、大雨の日しかなかった。今日いい天気のもとで、市内を眺めたが、城下町の古い建物だけじゃなく、昭和っぽい商店街や百貨店が残っていて、しかもまだそこそこ活気があることに驚いた。栃木市も宇都宮市もとうに中心部はガラガラになってしまっているのに。観光資源があるだけでなく、京都からもけっこう近いから、それほど寂れていないのだろうか。

彦根駅でJRの改札より東に行くと、近江鉄道の駅がある。自動改札ではなく、駅員さんがきっぷにスタンプを押してくれた。こういうの何年ぶりだろうか。高校時代に乗った両毛線を思い出した。
近江鉄道彦根駅の改札。自動ではない!
近江鉄道
駅を出発した列車は、田んぼの中を走っていく。太陽が眩しくて、田んぼがキラキラ光っていた。ちょうどiPhoneから、この前買ったドイツのバンドTonbandgerätの”Raus hier"が流れていた。サビの雰囲気と目の前の田んぼがシンクロして、『世界の車窓から』みたいだった。他の乗客たちはもちろん日本人だけど、目の前に広がってる山や田んぼはなんだか他所の国みたいに見えた。まあ、もちろん本当は滋賀の車窓なんだけど。

アニメの聖地豊郷。当然看板はアニメ絵。
途中で停車する、豊郷や愛知川、五個荘といった駅は、どこもこじんまりとしていて、古くてきれいだった。小さな木造の駅舎の前には、小さな古い建物ばかりの駅前が広がっている。ふだん見慣れたJR琵琶湖線の広くて画一的に開発された駅前とは全く文化が違う、という印象だ。近江鉄道が走る、「より地味な滋賀」には、JR沿線が失ってしまった、かつての滋賀がそのまま残っているのかもしれない。

八日市駅案内板を吊るす代わりにネットが張ってある。
乗換駅の八日市は、このへんの中心都市だ。しかし小さい町だ。ホームの上から、駅員さんが立っている改札越しに、やや広い待合室とまっすぐ伸びる駅前通りが見えた。町の古さ加減や小ささ、そして乗換駅なのにあまり人がいないところなんかが、故郷の栃木市のようだった。かつての栃木駅もこんなふうに人が立ってる改札があって、古い駅舎があって、駅前があった。故郷を離れて10年の間に、いっきに駅前は拡張され、かわりに人がいなくなった。

八日市駅
八日市から近江八幡へ向かう列車は、ほぼ満席くらいの乗車率だった。田んぼしかなさそうな小さな駅から、高校生やサラリーマンが乗ってくる。こんな田舎にも、当然のことながら、それぞれの暮らしがある。なんだか、不思議な感じがした。もう日が暮れかけていたが、どの駅も魅力的で、できれば降りて周囲を散策したいくらいだった。

もう少し風景を楽しみたいなあ、と思っているうちに近江八幡に着いた。この街はもう都会だ。駅前には映画館を備えた大きなショッピングモールやタワーマンションが立っている。JRに乗り換えて、新快速に乗り込むとまたいつもの通勤時間に戻っていく。そしてあっという間に京都に着いてしまう。いつもの通勤経路からちょっと外れるだけでこれだけ素敵な田舎があることがうれしかった。近いうちにまた行ってみよう。
魅力的な太郎坊宮前駅

2013年5月11日土曜日

どの校舎?どの教室?


大学という場所には、たくさんの建物がある。

学生たちや教員たちは、毎日講義を受けたり、ゼミに参加したりする。だからどの大学でも時間割には、何時間目はどの授業で、何校舎(何号館)の何教室と、決められている。

私たちは、それぞれの教室に出かけていくのだが、ここで問題になるのが、建物の呼称である。キャンパスマップから目的の建物を探すわけだが、これがけっこう難しい。呼称のルールは各大学ごとにさまざま。1号館、2号館と番号が振られているところもあれば、○○館と熟語っぽい名前や人名をつける大学もある。今回は、私がかつて通った大学や、現在出講している大学を例に、どういう名称がついているのか紹介したい。はじめに結論を書いてしまうけど、結局のところ、どの大学もみんなわかりにくいし、最初の一ヶ月くらいはぜったいに迷う。しかしながら、そのわかりにくさ、迷わせかたは、大学ごとに様々で、じつに興味深い。

明治大学
明治大学リバティタワーエントランスにある怖い絵
1,2年生が通う杉並区の和泉校舎は、第一校舎を筆頭に第四校舎まで番号がついていて、さらにメディア棟(これができたのは最近)、リエゾン棟(在学中はAV教室棟といってた)などがある。私たち文学部生の授業はたいてい少教室が多い第三校舎か、文学科の共通授業などなら第一校舎でやっていた。また、3,4年生が学ぶ駿河台校舎の場合は、現在はリバティタワーという23階建てのビルになってて、ほとんどの授業はここでやっているので、移動はビルのフロア間だけである。私が3年の前期には、まだビルができあがっていなかったので、6号館、11号館、12号館、10号館などの建物で授業を受けていた。6号館は特に古くて、しかも急な坂道に立っているので、構造が複雑だったのをよく覚えている。この建物は夏休み中に取り壊され、リバティタワーの一階部分になった。おそらくここ以外は現存しているみたいだが、10号館も他の校舎と坂で隔てられていて、移動がけっこうたいへんだった。全体的に見ると、学生数の多さのわりに、校舎の分け方は単純で、わかりやすい方ではないかと思う。

京都大学 時計台がある本部構内の場合、文学部校舎、教育学部校舎、法経済学部本館、法経済学部東館、工学部1号館...と学部ごとに分けられているのでわかりやすい。ただ、この校舎の大部分を占める工学部の建物群は数が多くて把握しづらいし、現在は桂キャンパスに移転してしまってる学科もあるため、工学部がいなくなった建物は、総合研究○号館のような中身のわかりにくい名称に変更されている。
 一方、大学院人間・環境学研究科や総合人間学部がある、吉田南構内のほうは、さらにわかりにくい。総合人間学部棟、吉田南1号館、吉田南総合館(さらに北棟・東棟・南棟・西棟に分かれている)、といった具合に名前が振られている。1号館があって、となりが総合館というのがまずわかりにくいが、問題は総合館というのがかつて(2004年以前)は、A号館と呼ばれており、2号館はD号館、3号館はF号館、4号館はE号館と呼ばれていて、かつての呼称と順番がバラバラになってしまっている点である。多くの教員、ODなどはかつての呼称しか把握していない。また、総合館および旧A号館は、増築を繰り返して大きくなった建物なので(古くはA、B、C号館といったらしい)、建物名だけでなく、北棟、西棟など、どの棟なのかもわかっていないと教室にたどり着けない。さらに、シラバスや共通教育の便覧などを見ると教室番号が書いてあるが、その番号の振り方もひどい。吉田南1号館は、共101、1共23など、吉田南総合館北棟は、共北36、私が日ごろ授業を行なっているのは西棟の共西22といった具合である。慣れないと共=1号館、共+方向=総合館というルールがわからず、教室が見つからない。なんかもう説明するのもしんどくなってきたので、次の大学へ。

 滋賀県立大学 非常勤先で最も気に入っている大学だ。公立だけに、こじんまりしていて、田舎なので建物以外の敷地が広い。小さい大学だが、凝った作りになっていて、そのせいでちょっとわかりにくい。学部ごとにゾーンがあって、共通教育や事務はA棟、A0〜A5まで、環境科学部はB、B1〜B8棟といった具合に分かれている。マップを見ると小さい建物がいくつも続いていて複雑だ。私は2年間通っているが、同じA3棟の教室なので、各学部の校舎についてはよくわからない。

 近畿大学 最寄り駅から、ごはん屋さんばかりの学生街を抜けると、10階建て以上のビルが林立する長瀬キャンパスが広がっている。入り口にある門のような18号館、向かいにある本館、それぞれの建物にはわかりやすく番号がついていて、入り口に大きな看板を掲げてあるけど、分かりにくく感じるのは、何より番号が多すぎるからだ。長瀬キャンパスだけで、39号館(薬学部)まである。マップで確認すると、1号館とか2号館とか、若い番号の建物がない。おそらく古い建物のあとに、新しい建物ができたら、元の番号は消滅してしまうというルールがあるのだろうか。私が教えているのは、道路を挟んで東側にあるEキャンパス(eastのことだろう)だが、こっちはまたルールが違って、文芸学部のA館、経済のB館、総合社会学部のG館というように、アルファベットがついている。本部キャンパス、Eキャンパス双方にいえることだが、ひとつひとつの建物がかなり大きいので、全体的な配置がつかみにくいのも、この大学のわかりにくさの一因といえる。

 龍谷大学 1号館、2号館と番号が振られているが、ときどき紫英館、顕真館(法要とかやってる、お寺っぽい建物)など漢字熟語系の名称も交じる。大学の規模にくらべて、建物の数が少ないので、わりとわかりやすいのだが、1〜8号館まであるのに、なぜか21号館、22号館と番号が飛んでいるのかよくわからない。また、ふだん行く場所ではないので気にしてなかったが、キャンパスマップを見ると、紫英館、紫朋館、紫光館、紫陽館など、スクールカラーの紫にちなんだ熟語名もいくつかある。すべての校舎がこのルールで紫○○館と名付けられていなくて本当によかったと思う。

 京都精華大学 山を切り開いた谷沿いに立っているので、ただでさえ建物の位置関係を理解するのが難しい。そのうえ、清風館、黎明館、春秋館など、漢字熟語系の名前がつけられているので、入学後1ヶ月は迷い続けること必死である。学食にもわざわざ悠々館などと名前をつけているのがまた困る。さらに、シラバスや時間割には、清風館101教室ならC101、黎明館001ならL001、春秋館ならS…といった具合にアルファベットで表記されるので、熟語名とアルファベットの対応も覚えなければならない。教員として務めている方としても、新入生に案内をするときは、分かりにくくて申し訳ない、という気持ちにならずにはいられなかった(もちろん私が悪いわけじゃないが)。
 私の勤務校ではないけど、立命館大学、京都造形芸術大学なども同様に、○○館という漢字熟語の名前になっているそうだ。

以上のように私が学んだ大学および勤務してきた各大学の、建物の呼び方についてまとめてみたが、本当にどの大学も分かりにくくて書いて説明するのが難しかった。分かりにくくなる一つの要因として考えられるのが、多くの大学は学部を改組したり増やしたりするたび、校舎を増改築するので、それで呼称のルールが変更されたり、連番だったのが、番号が飛んだりするのだろう。もう5月になるが、どの大学でも新入生たちはまだ迷い続けているだろうし、教員たちも自分の教室がどの建物の何番教室なのか正確に把握していないことだろう。彼らが早く落ち着いた日々を過ごせるようになることを願いたい。

2013年5月7日火曜日

ドイツ人の名前


先日出た教科書(川村和宏・竹内拓史・押領司史生・松崎裕人・熊谷哲哉、『携帯&スマホでドイツ語』郁文堂―まだ試行版―)に書いたコラムでもとりあげたけど、ドイツ人の名前は、意外と学生たちに知られていないので、毎年春には名前クイズというのをやっている。

日頃ドイツ文学や映画に親しんでいる我々にとっては、Sabineが女性の名前だというのはすぐわかるけど、高校を出たての大学一年生にとっては男性か女性かわからないというのだ。考えてみればそうだ。彼らの周りには、ドイツ人なんてそうめったにいないし、知ってるドイツ人はせいぜいペーターやハイジやおじいさんくらいだろう。

高校生までに彼らが知るドイツ人の名前、たとえば世界史の教科書にでてくる、ルートヴィヒとかフリードリヒとかヴィルヘルムなんていう名前は、じっさいのところもう100年以上も前の古い名前だ。わりと近現代の偉人の名前、たとえばフランツ(カフカ)、ヘルマン(ヘッセ)、ヴァルター(ベンヤミン)、マルティン(ハイデガー)なんていうのも、やはりもう名付けられることは殆どない名前だ。

ドイツ人の名前にも、日本人の名前と同様、流行り廃りがある。教科書的な、あるいは文学史に載ってるような名前は、ずいぶん昔のはやりである。beliebte-vornamen.deというサイトを見ると、毎年ごとの人気ランキングが掲載されている。2012年に人気の名前は、男子はBenn, Luca, Paul, Lukas, Finn, Jonas, Leon, Luis, Maximilianなどが上位。女子はMia,Emma, Hannah, Lea, Sophia, Anna, Lena, Leonie, Linaなどが上位に入っている。これらの名前からわかるように、今の人気は、呼びやすくてドイツ語っぽくない(国際的に通用しそうな)名前だ。

beliebte-Vornamen.deで驚かされるのは、名前の人気を時代ごとにグラフ化していることだ。たとえば、男子一番人気のBenだったら、1987年に初めて上位200位に入って以来、2000年代まで上昇を続けて、2010年代以降はトップの座にあることが分かる。このグラフで興味深いのは、ドイツ語の名前にはかつて流行った名前がふたたび名付けられるということだ。たとえば2012年上位のMarieという名前は、19世紀末にはトップ10にあったが、その後1950年代から70年代あたりに人気が低迷したものの、90年代なかば以降
授業で使った名前クイズ
はふたたび上位に復帰している。こういう現象は他にもたくさん見られる。

さらに、よくわからないのが、名前の地域ごとの流行だ。たとえばMarioという名前は、70年代ごろまで人気だったというが、地図を見ると極端にDDR(旧東ドイツ)で多く名付けられていることが分かる。たしかにトーマス・ブルッスィヒのDDR小説『太陽通り』にもマーリオという友人が出てきていた。あの当時の東ドイツに、何か子供をマーリオと名付ける理由があったのだろうか?