2013年7月31日水曜日

先生の研究


研究者あるいはそれに類する人に初めて接したのはいつだっただろうか。

大学入学以前に、研究という営みを身をもって見せてくれたのは、高校時代2年生と3年生のクラス担任をつとめていた、生物のS先生だった。理系の進学校だった母校(男子校だったこともあり、生徒の半分以上は国立大理系学部を目指すことになっていた)では、理系コースはつうじょう物理と化学を選択し、文系コースが生物をとることになっていた。だから、S先生は生物担当だけど国立文系クラスの担任をつとめていた。

文学部に進んで、外国語と哲学や歴史を勉強しようと思っていた私にとって、身近な先生は一年次の担任だった社会の先生や、一番の得意科目だった現代文の先生だった。彼らとは何かにつけ相談をしたり、おしゃべりをしに行ったりしてたはずだが、担任であるS先生は、どうせ理系の人だし、とちょっと敬遠していたと思う。S先生はいつも穏やかで、やさしかった。そして体が細くて背が高かった。三者面談で初めて先生を見た母は、ナナフシみたい、と言った。私たち生徒もみな、彼の専門分野から連想して、なんとなく昆虫っぽい人だと思っていた。

昆虫に似ているS先生は、私たちにとって、少々とっつきにくい存在だった。いつもおだやかだけど、何を考えてるのかよくわからない。授業も、親切丁寧ではあったが、とくに熱気のこもった授業というわけではなかった。そんな先生が情熱を燃やしていたのが、専門である昆虫の研究である。どのクラスの生徒も、かつて彼が大学院時代に取り組んだ、糞虫の研究の話を聞いていたはずだ。島に住む鹿のふんを食べる虫を長い時間をかけて研究したそうだ。虫の研究は学生時代だけでは終わらない。教員の仕事の合間にも、日々野山で虫を捕まえては、授業の前に、どこで捕まえたどんな虫なのかを説明してくれていた。とはいえ、こっちは文系コースの高校生だ。カブトムシならまだしも、なんだかわからないバッタやアリやスズムシを見せられても困る。わりとみんな冷ややかな反応だったと思う。

高校を卒業して10年以上がすぎ、自分自身もなにやら人に理解されづらいマイナーな研究に取り組んだ末、博士号を取得する所まできて、なんだかS先生を懐かしく思い出している。彼の態度はまさしく、真摯に自らの学問に取り組む研究者そのものだった。その後大学院の同じ研究科で昆虫学を専門とする人と知り合ったので、S先生の話をしてみたら、どうやらその業界ではそれなりの有名人であるらしく、名前を知っていた。あるとき地元に帰って、たまたま書店に寄ってみたら、S先生が高校を退職後に出版した本が置いてあった。優しく物静かな先生には、あの荒っぽい男子校での教員生活は苦痛が多かったかもしれない。しかし、文系クラスで授業の前に熱心に昆虫の話をする彼のことは、生徒のみなの心に刻まれているはずだ。

2013年7月21日日曜日

夏休みは映画を見よう


私はドイツ語を専門的に学ぶ学生を教えていない(いちおう京大のドイツ語IIには文学部生もいるが、どうも独文志望者ではなさそう)ので、あまり学生がドイツ語をしっかりできるようにしなければ、と思うことはない。もちろんできるようになってほしいが、やりたい学生は自分でやるだろうし、工学でも経済学でも、自分の専門についての勉強を最優先するのがいちばんだと思っている。語学などは、勉強の基礎でしかない。

だから、これまで夏休みには、課題などを指示したことは一度もない。みんな思い思いに夏休みをすごせばいい。どうせ夏休みなのだから、暑い暑いといってるあいだに、何もせずに終わってしまうのだ。せいぜい、短期バイトで文字通り汗水たらしてお金を稼いで、ちょっとばかり社会的な成功体験を得ることができるくらいだ。私だって、学生の頃は前期試験が終わったら、ほとんど勉強はしなかったし。

授業で学生たちに宿題の指示をすることはないので、ここで自分なりに宿題の提案をしておきたい。私が夏休みの宿題として考えたのは、映画を見ることだ。なんでもいいから面白いそうな映画のDVDを買って、何回か繰り返し見る。はじめから終わりまで律儀に見通す必要はなく、好きな場面、好きなセリフ、好きな女優さんが出ているところだけでも、何度も見る。不思議なことに映画というのは、よくできていて、いい映画は何回見ても楽しめる。
この夏、すでに数回繰り返して見た『コッホ先生と僕らの革命』
左はドイツで買った現地版。日本語版にはない、メイキングや
カットされたシーンも収録されている。
映画はもちろん日本語の字幕付きでいい。字幕を見ながら、それに応じたドイツ語がどこに出てきたのかが聞き取れるといい。何度か同じ場面、同じセリフを聞いているうちに、字幕に反映されていないドイツ語の単語があったことがわかる。さらに何度も聞いていると、だんだん、セリフがドイツ語の文章になって頭のなかに流れてくるようになる。

学部生の頃、フランスやドイツに出かけたが、旅行会話の本をもっていって、どのように発音するのかをイメージする手がかりになったのが、映画だった。現地で会話をするさい、映画の中のセリフを思い出し、単語は分からずとも、こんなリズムで、こんな音で、挨拶したり注文したりできたらいいのかな、と大雑把なイメージを描いたものだった。今考えると、あのころ楽しく見ていた映画は、語の発音に耳を慣らすためにちょうどよかったのだろう。

現在の私にとっても、映画は素晴らしい教材となっている。現地にいれば、テレビ番組などを長い時間見て、会話のヒントになるような表現を学ぶことができるが、日本でそれを学ぶには、映画が最適だ。同じ映画を何度も見て、見るたびに新たな発見をして、辞書を引いて表現を身につける。日本未公開の映画ももちろん、ドイツ語字幕を見たり、ドラマの場合は字幕がないことが多いので仕方ないが、場合によっては字幕なしでも見る。字幕なしで、ドイツ語をそのまま理解するのはまだ難しいが、それでも何度か繰り返し見るうちに、単語が聞き取れるようになるし、場面やストーリーの意味もよくわかってくる。

初級者には、映画の効用はわからないかもしれないが、とりあえずは勉強など忘れて、ドイツ映画を見て楽しんでほしい。この表現、なんだろう?と疑問を持つことが出来れば、それだけでもドイツ語学習のきっかけになる。

2013年7月14日日曜日

勉強しはじめる学生たち


7月に入り、4月から開講したドイツ語のクラスは、11週から12週目を迎える。この時期、なぜかどの大学のクラスでも、学生たちがよく勉強するようになってくる。試験が近いから、欠席が多かった者は、必死で出席点を稼ごうとするし、小テストができなかった者は、なんとか期末テストでは挽回しようとする。それはもちろん当然のことだ。所詮大学での第二外国語などというものは、試験のため、単位のために学ぶものでしかないのだろう。だが、私には、学生たちはべつにテストのためにのみ、にわか勉強をしているわけではないのではないか、と思えるのだ。

4月から5月頃、どの大学でも、学生たちは、ドイツ語の勉強にとまどう。ローマ字読みといわれるものの、ところどころ独特のルールがある発音、名詞の性や定冠詞・不定冠詞の格変化、動詞も人称代名詞ごとに形が変わる。これまで中学高校で勉強してきた英語とは、ずいぶん異なっている。別の言語なのだから当然だし、受験英語とは勉強の仕方や目指すべきものもことなっている。多くの学生たちはここで困惑する。コメントカードを書いてもらったり、小テストの際に感想を聞くと、覚えることが多い、ついていける自信がないなど、否定的・悲観的な意見が多い。それがだんだんと変わってきた。
いったい何が変わったのだろう。

おそらく学生たちは、ドイツ語の分からなさをうけいれられるようになったのかもしれない。ドイツ語の学習では、というより大学での勉強において重要なのは、分からなさをふくめて、あるいは分からなさを抱えながら、勉強を続けていくということだ。何もかも全部分からなければならないのではない。そうではなく、分からないなりに、すこしずつわかっていく必要があるのだ。

これは、初級クラスだけではなく、カフカの講読をやってる中級クラスでも同じ。中級クラスでは、短編小説を読んでいるが、そこでもやはり、語義や解釈の多様性、こうも読めるけど別の読み方もできるというゆらぎのなかで考えながら、読んでいくという作業が必要だ。それも、徐々に出来るようになってきた。前にも書いたが、学生たちが学ぶプロセスを見るのは、私にとっての学び直しでもある。だからなおのこと、彼らの学習が変化していくのを見るのは興味深い。