2012年11月20日火曜日

心強い国語辞典

以前からずっと買おうと思っていた国語辞典を安く売っていたので購入した。

今回買ったのは、尚学図書・言語学研究所編、『国語大辞典』新装版、小学館、1991年。
この辞書には、これまでもよくお世話になっていた。院生の研究室、指導教授の研究室、読書会をやってた独文研究室にもあったし、先日支部会の会合で行ったドイツ語中央室にもおいてあった。読書会で訳文を作るときや、論文を書くとき、ほんとうにこういう表現を使って大丈夫か?と日本語の細かい語義や用例を調べる際に、いつも使っていた。

大学の研究室を使わなくなってからは、ネットで検索したり、電子辞書やわりと新し目のの学習国語辞典などを参照したし、それらを使って博論も書いたが、やっぱりあの辞書がないとなあ、といつも気にかかっていた。

国語辞典にかぎらず、辞書というのは新しいほうがいいものと一般的に言われているし、新しい単語や新しい用例が収録されている辞書は便利そうだ。でも、この『国語大辞典』は、その後現在に至るまで改訂されていないし、絶版になっている。おそらく収録語数を変えたりして別の形で刊行されてはいるのだろうが。

学習辞典や広辞苑にくらべるとずいぶん場所を取るし重たいが、いざというときになんでも載ってる辞書があるというのは、とても心強いものだ。


2012年10月20日土曜日

アルバイトの思い出2

前回のエントリからずいぶん時間がたってしまった。


2000年夏、塾講師。大学院に進学し、京都に引っ越した。あえて東京から京都に転居したのは、自分の中で日本=東京と狭く考えてしまっていることに気づいたからだった。京都に移って、言葉だけでなく様々な文化の違いや、単純に市バスが遅いとか本屋の品揃えが悪いとかいう不便さに気づいたが、一番ショックだったのがバイトの時給の安さだった。しかも大学院に進むと、学部の頃よりも当然のことながら忙しくなる。そこで一番効率がよさそうな塾講師をやってみることにした。担当科目は、一番好きな科目ということで国語にした。(あとで気づいたが、中学生レベルを教えるのであれば数学や英語にしておいたほうが仕事が多くてよかったのだ)はじめに高校生・浪人生対象の予備校講師の試験を受けたものの、模擬授業がうまく出来ず不採用。しかたなくもうちょっと待遇が悪い京都市内大手の塾の試験を受け、小中学生の国語を担当することになった。6月頃から伏見の校舎で研修を受け、夏休みから授業をやった。中学生たちは元気でかわいかったが、苦労したのは小学6年生のクラスだった。私自身中学受験とは全く縁のない田舎育ちだったから、勉強ができるわけでもない子たちが、なんで私学に行きたがるのか理解できなかったし、受験勉強が嫌なのに親に逆らえなくて、そのフラストレーションを塾で発散している子供たちを、どう受け止めたらいいのかよくわからなかったのだ。この塾は子供たちはろくでもなかったけど、先生方はとてもおもしろくて有能な人たちばかりで、いまでもよく思い出す。現在の自分の基礎を作った仕事だったと思う。悪くない職場だったけど、別の塾にもっと良い条件で雇ってもらえたので、ちょうど一年たった次の年の夏に辞めた。

2001年夏、塾講師(高校生対象)。M2になるころに、友人のお父さんが経営している個人塾から声がかかって、高校生に国語を教えることになった。伏見までの通勤のために普通自動二輪免許をとって、バイク通勤していたので、大津の塾にいくのも全く苦にならなかった。一学期は高校3年生の国語を教え、夏期講習では高3国語、中3国語のほか、高2英語、高3世界史を教え、秋以降は推薦入試を受けたいというギャル相手に小論文の指導もした。いろいろな科目を教えるという貴重な経験ができたけど、この職場には長くいられなかった。ここの塾は家族経営で、講師も私以外はもともとこの塾のOBOGばかりだった。だから塾長のワンマン体制だったし、とても息苦しい雰囲気だった。ただ集まってくる生徒はみんなとても優秀で、レベルの高い授業をしてもちゃんとついてきてくれてとてもやりがいがあった。受験直前期にはセンター日本史、古文漢文、地理(ほんの少し)なども担当し、遅い時には夜12時過ぎに帰宅ということもあった。こんなことばかりやってたので、当然大学院の勉強は思うようにはかどらず、留年することになる。
翌春に担当することになった高校3年生のクラスは理系志望ばかりで、国語のクラスに参加希望者が激減したため、私も仕事をやめざるを得なくなり、退職。

2002年春〜2005年春、喫茶店(調理・バリスタ)。修士課程3年目に入り、塾講師を続けていくことに自信がなくなってきた。受験勉強の経験に乏しい私は、やはり体を動かす仕事のほうが向いているのではないか、そう思い、当時つきあっていた彼女が学部時代からずっと喫茶店で働いていたので、おれもやってみようと、市内中心部の老舗喫茶店で働き始める。最初はギャルソンをやるつもりだったが、一日目にエプロンを渡され、その後3年間ずっと調理だけをやってきた。そのうちフロアもやらせてもらいたい、最初はそう思っていたが、一年ぐらい経つともともと別に好きでもなかった料理が楽しくてしょうがなくなった。店でうまくできなかったことや、新しいメニューは、家に帰って何度も練習した。この仕事は私の性格にあっていたようで、忙しいし、調理場はいつも暑いしで、全く楽な仕事ではなかったが、博士課程1年目の終わりまで続いた。料理がひと通りできるのはこの仕事のおかげである。

2004年春、図書館非常勤職員。博士課程進学後から、単位取得退学をする2009年春まで5年間続けた。たぶんバイトとしては二番目に長く続けた(一番長いのは堺看護専門学校)仕事だ。仕事内容は、図書館業務全般。本を並べ、貸し出す、閉館時に鍵を閉めるなど。このバイトのお陰で、京大人環総人図書館(旧教養部図書館)を端から端まで徹底的に利用することができた。棚に並んだばかりの新刊書から、購入以来数十年誰も使わなかったであろう、ぱりぱりになった洋書まで、様々な本を、業務の合間に手にとっては読んだ。このバイトのお陰で、私は大量の一次資料を集めるという博士論文で試みた研究方法を確立することができたのだと思う。
有名な折田像の看板。これが原本(?)か

図書館の地下の秘密通路。物置になってた。


2004年夏、ドイツ語講師。博士課程に進学後、すぐに先輩に声をかけられ、ドイツ語講師を派遣する会社に面接にいった。すぐに採用され、夏休みの終りに某電器メーカーの本社でドイツに駐在する予定の社員さんに、一ヶ月間ドイツ語の特訓をすることになった。一ヶ月間月曜から金曜まで一人で担当するのは無理だったので、他の先生と組んで、週に2,3回ほど門真の会社に通ってマンツーマンの授業をした。社員さんは、さすがに一流企業に入る人だけに、すごく頭が良くて説明したことを次々理解してくれた。私よりも8歳くらい年上の人だったが、とても丁寧でいつも優しかった。私が女子だったら、不倫していただろう。夏休みの集中授業のあとは、京都の某進学校に通う男子に、大学受験のためのドイツ語を教えた。彼はべつに帰国子女ではなく、単に英語が嫌いだからドイツ語で受験したい、というちょっと変わった子だった。本人はそこそこがんばっていたが、さすがに医学部を受験するにはまだまだ勉強不足で、けっきょくセンター試験も二次試験も満足の行く結果は挙げられなかったようだ。
その後この会社での仕事は、駐在員さんへのドイツ語講座を一回、駐在員の奥さまへのドイツ語と生活の研修を一回やらせてもらった。最近は英語や他の言語の講師を探して欲しいという依頼ばかりで、ドイツ語の仕事は来ない。




2012年8月21日火曜日

灯篭流しと送り火

8月16日には、送り火を家から見た。

京都市内北西に住んでいるので、我が家から「鳥居」が見える。
鳥居の送り火があるのは、嵐山の北、化野念仏寺や愛宕山があるあたり。
この山は低いので、大文字山のように広い範囲から見ることはおそらくできない。
大学院生の頃は毎年吉田キャンパスから送り火を眺めたが、左大文字(立命館あたり)や鳥居は京大からだとだいぶ遠いので、限られた建物からほんのちょっとしか見ることができなかった。昨年は友人と銀閣寺道近辺で大文字を見たので、今年は自宅から見るはじめての鳥居だ。
夕方六時頃、準備をする様子が見えるかもしれないと思い、マンションの廊下に出ると、鳥居の周辺に小さな明かりが灯っていた。

点火するのは8時すぎらしいので、それまでに、灯篭流しをしていた広沢池に歩いて行ってみた。広沢池は毎日のように走りに行く場所で、京都マラソンもこの場所から見たが、灯篭流しにはどこから集まったのか、信じられないほど沢山の人が来ていた。
池のうえには小舟がでていて、船の上からゆっくりとひとつひとつ灯籠を池に浮かべている。色とりどりの灯籠が、ふわふわ水の上に浮かぶ様子は本当に幻想的だった。
8時近くに帰宅して、マンションの自室で点火のときを待っていると、部屋の外が徐々に騒がしくなってきた。他の部屋や他の階の住人たちが集まってきている様子だった。前のアパートでもそうだが、送り火の日にはどのマンションでも、住人やその友達などが、送り火が見える上層階や屋上にみんな集まってくる。その様子を見るのも面白い。

8時半頃、いちばん火勢が強くなっている頃を見計らって、ベランダから写真を何枚もとった。写真だとずいぶん小さくなってしまうが、鳥居は思いのほか近くて、くっきりと見ることができた。






2012年8月20日月曜日

アルバイトの思い出(1)

Facebookなどで学生時代のバイト先の友人をフォローしてたりするんだけど、ふと思い出すと、その学生時代というのがかなり昔のことなんだな、と気づく。人の数倍ながく学校には通っていたが、それでも大学院博士課程を出てからもうすでに4年もたってしまっている。先日博士論文を提出して、ようやく自分の長かった学生時代にも一区切りがつけられそうなので、ここで先日作った研究関係の年表を補完する意味で、これまでやってきたアルバイトについてもまとめておこう。


1995年夏:採点。大宮の予備校に通う浪人生の頃、友人の姉さんが講師を勤めていた宇都宮の塾で採点のバイト。たしか中学生の模擬テストだった。同じ高校から予備校に行ってた悪友たちといっしょに塾に行き、それぞれの得意科目を分担して採点。私は英語を担当したが、数学や社会に比べて採点にやたら時間がかかり、自分だけ損した気分になった。日当をもらって帰ったが、何に使ったか全く覚えていない。

1996年初夏:配膳人。大学で出会った友人の紹介で、市ヶ谷のホテルの宴会場で働くことにした。配膳人というのは時給がとても高い(高校時代から働いていた友人は2000円くらいもらっていたらしい)し、山形の大学に通う兄が同様に披露宴会場でバイトしてたので、自分にもできるだろうと思ったからだ。職場は同年代の学生や、かわいい女の子もいたけど、入った季節が悪すぎた。ビヤガーデンや披露宴など、入って一週間で戦場のような忙しさを体験し、同じ時期に入った友人と謝りに行き、早々に退職。後になってみると、もう少し頑張ってもよかったとは思うが、あの仕事は明らかに田舎の高校を出たばかりのバイト初心者ができるものではなかった。

1996年夏:ハンバーガー屋。高い時給に釣られると痛い目にあうということを学習したので、今度は誰でもできそうな仕事をしようと思い、自宅近くの某ファーストフード店に面接に行く。事務所までは家から5分くらいしかかからなかったので、通勤は楽だったが、仕事はきつかった。私が住んでいた町は学生街で、平日も休日も商店街はひとでいっぱいだったのだ。店長はとても厳しい人で、ベテランのバイトもパートのおばちゃんも容赦なく叱り飛ばされていたし、私は何度も肉の焼き方が下手で、膝蹴りを食らった。一ヶ月半ほど我慢したが、レジ担当の女子たちとは仲良くなれないし、こんなに毎日怒られて時給800円以下というのはあんまりだと思い夏休みの終わり頃に退職。激務と夏バテで、毎日のようにハンバーガーを食べてたのに一気に痩せた。

1996年秋:コンビニ。誰でもできる普通の仕事で、かつあまり忙しくなさそうな職場、ということでバイト雑誌をくまなく眺めて、渋谷の西の外れにあるお屋敷街のコンビニで働くことにした。何度も地図を見てリサーチしたので、たしかにお店の客は少なめなのだが、周囲に買い物できる場所がほとんどないため、たくさん買い物をするお客さんが多かった。おかげで店の規模に比べて品出しがけっこうたいへんだった。夜勤スタッフとして週2回働いていたが、一回の勤務がよる9時からあさ9時までなので、週2でけっこうなお金が得られた。しかし当然のことながら、生活リズムは狂うし、大学の授業に出ることも厳しくなってしまった。1年次は登録した単位の3分の2程度しか取得できなかった。しかしこの店は、店長がバイト学生たちの活動に大変理解のある人で、私は夏休みや春休みの語学研修に行くために、何度も長期休暇をもらうことができた。仕事は楽ではなかったが、結局大学3年の終わりまで続けた。

1996年冬:餅つき屋(面接のみ)。海外旅行をしようと決意し、コンビニだけでなくもっと面白そうな仕事をしようと、大学の近所にある餅つき屋に面接に行った。はじめは、餅つきなんて楽しそうな仕事じゃないか、と簡単に考えていたが、餅つき屋の社長(自称親方)はガチガチの体育会系で、すごくおっかなそうな人だった。親方が言うには、餅つきは死ぬ気でやらなければならないから、生理痛だろうが39度の熱だろうが絶対に休ませない、とのことだった。今で言うところのブラック臭に耐えられず、面接の途中で謝って帰った。


1997年ごろ。ときどき帰省して猫をさわったり
栄養のあるものを食べたりしていた。
1997年夏:図書館の整理。コンビニのバイト(2年のときは主に夕方と休日に集中させ、大学の授業にしっかり出ていた)だけでは海外旅行のための資金が稼げないので、夏休みに2ヶ月だけ世田谷区内の某農業大学の図書館で、書庫の整理をした。図書館の仕事といっても、これは本当に引越し屋に近い、肉体労働だった。最初の10日間は、本を分類したり箱に詰めたりといった軽作業だったが、しだいにきつくなり、書庫から本を運び出す作業をしていたころは、一日の勤務で体重が2,3キロ落ちたりした。バイトに集まったのは、慶應・中央・早稲田など都内のわりと頭のよさげな大学の子たちで、お昼や休み時間にみんなとしゃべるのはとても楽しかった。しかし油断しすぎておもいっきり居眠りしていたのを社員さんに見つかってしまい、その場でクビを言い渡されるが、平謝りして許してもらったこともあった。

1999年春:メッセンジャー兼事務補佐。4年生になるにあたり、まわりのみんなが就活をしているなか、大学院に進むことを決意する。そこで、会社勤めをしないのなら、会社でバイトをしようと思い、コンビニを辞め、西新宿にある通訳者の派遣や国際会議のコーディネートをする会社で働くことに。普段の仕事は、クライアントである企業や官庁にいって、書類をもらったり・届けたりといったメッセンジャー業務と、社員さんの手伝いだった。この仕事は、暇な時は何もすることがなくてつまらなかったが、用事を言いつけられていろんな所に行けるのが本当に面白かった。外務省、大蔵省、国土省、警察庁など霞が関の役所には毎週行ったし、我孫子や千葉など、時間のかかる場所にいくときは、じっくり本を読めた。この職場で有り難かったのは、部長さんをはじめ、社員の皆さんがバイト学生をとても大事にしてくれたことだった。OLさんたちには、いつもねぎらいの言葉をかけてもらったり、お菓子をいただくことも多かった。院試の直前には、毎朝喫煙所でいっしょになる、隣の部署の部長さんから、面接に向けてのアドバイスを頂いた。3月に退職するときは、プレゼントをもらい、部署の皆さんから拍手で送ってもらった。あの会社の人たちのことは今でもよく思い出すし、ああいう場で働けたことに感謝している。

2000年以降、大学院生になってからのバイトの話は、次回につづく。

2012年8月10日金曜日

博士論文公聴会のてんまつ

頭が良くなるサプリを飲んで
準備をがんばった
8月6日無事に博士論文公聴会が終わった。

私が所属する研究科は、論文公聴会を公開で行なっている。
25部用意した資料は足りず、妻に追加コピーをとってきてもらった。

指導教授、および副査の先生方、質問をしてくれた二人の友人たち、
それぞれにとても有意義な意見をおっしゃってくださった。

書き上げる途中から、もうすっかり飽きてしまっていたこの論文だが、
こうして人の評価を聞くと、まだまだこのテーマに向きあい続けなければいけない
のかな、と改めて思う。



下は、当日配布した資料です。
kouchokai8.6

2012年8月2日木曜日

採点は身を切られる思い

前期の試験がほぼ終わり(正確には明日あと3つ残っているが)、これから採点作業に入る。どこの教員も採点が地獄だの、つらいだのと言っている。たしかに履修者が100人を超えるような科目ばかり担当していたら、採点だけで何日もかかってしまうので地獄だろう。私の場合、人数はたかが知れている。数の問題ではなく、何が辛いのかといえば、自分ができるだろうと思って出題した問題なのに、学生ができないことが辛いのだ。
こういうこと書いてくる学生は毎年いる。
ちゃんと勉強しているのであればまだしも
全く授業に出てない学生だとかえって印象は悪くなる


毎回テストの採点の際には緊張する。あまりにできが悪すぎたり、誰も正解できない問題があったり、あるいはそもそも出題ミスがあったりするのではないかと心配だからだ。ビクビク緊張しながら、一枚一枚採点作業をすすめている。だから100点をとる学生が一人でも出ると、ほっとひと安心する。そう、おれが出した問題はとりあえず間違いではなかった。テスト範囲をもれなく学習していれば、100点を取ることはできるのだ、それが証明されるだけでもだいぶ気持ちが楽になる。

それならば誰もが100点を取れるような簡単な問題にすればいいのかもしれない。だが、それもまた危険だ。せっかく徹底的に勉強してきたのに、こんなつまらん問題しかでないのでは、やった甲斐がない。後期はもっと手を抜いてしまおう、そう考える学生が出てくるのも困るからだ。そして逆にあまりにも難しい問題を出しても、同様に学生たちはやる気を無くしてしまうだろう。

だからできれば、クラスで一番できる数人の学生が100点をとるが、残りの連中は、落第しない程度にそこそこ出来ればいいのではないかと思う。昨日試験をした大学は、全体的に真面目な学生が多いので、ちゃんと勉強してくれば8割〜9割は得点できる問題にしようと思っていたのだけど、学生たちの解答をざっくり見たところでは、けっこう和訳ができていなかった。覚えてなさそうな単語にもっとヒントを入れておけばよかった。バランスの良い問題を作るのはなかなか難しいものだ。

2012年7月31日火曜日

博士論文への道

博士論文の公聴会が8月6日に行われる。もはや論文はとうに提出してしまっているので、いまさらとくに緊張することもない。長大な論文の内容をしっかりプレゼンすることが必要だが、何をどうしたところで叩かれるべき点は叩かれるわけだし。

私の在籍していた研究科では、公聴会が冬と初夏にまとめて行われる。先週は同世代の友人の公聴会を聴きに行ってきた。友人の発表を聞きながら、彼がどのように博士論文を書き上げたのだろうと考えていた。そして、自分自身が彼とほぼ同じ時間を、どのようにすごしてここまできたのかを、思い出そうとしていた。博士号を取得した先輩や友人、妻などまわりのみんなが、留学したり研究員になったりとこの10年余り絶えず研究活動に専心してきたのに対し、私はあまりちゃんと研究をしてきたわけではなかったな、と改めて思った。そこで修士論文を提出してからこの春まで、どんなふうに研究を進めてきたのかを、年代を追って具体的に書きだしてみよう。


2004年春:修士号取得。修士論文では、シュレーバー回想録を丹念に読み込み、回想録がどのように「合理的」に成り立っているのかを、内在的な読解によって解明しようと試みた。だいたいやるべきことはできたし、シュレーバー研究はもうやめてもいいのではないか、と思い(指導教授にもそう言われたし)、新たな研究対象を探そうとしていた。友人から誘われ文化史の研究会で体操について話すことになり、シュレーバー父の体操書から、茨城県民体操やラジオ体操へ至る歴史を調べる。夜行バスで水戸まで行って県立図書館で文献を探した。

2004年初夏:ラテン語、精神分析などの勉強に励む。ラテン語は前期中に挫折。シュレーバーにおける光線というモチーフがどこからきたのかを考え始める。シュレーバーが元ネタとして挙げている本、同時代の文献など、さまざまな分野の資料を集め始める。

2004年秋:心霊主義および進化論的自然史とシュレーバーの関係に着目し、研究発表。イギリスおよび日本における心霊主義の歴史研究が参考になった。

2005年春:シュレーバーの元ネタとしてのカール・デュ・プレルという人物に着目する。デュ・プレルの宇宙進化論のシュレーバーへの影響を言えたらおもしろいのでは、と思ったが、デュ・プレルのテクストが難しくてなかなか読み進めることができず。全国大会で、シュレーバーにおける身体意識と宇宙観について発表する。そこそこ好評。

2005年夏:前年秋に発表した、シュレーバーと自然科学と心霊学を論文に書き直す。研究室の雑誌『文明構造論』が発足。

2005年秋:シュレーバーの世界観におけるカール・デュ・プレルの宇宙論の影響について発表するが、まったく消化不良。この問題はその後5年くらいたってようやく形になってきた。

2005年冬:シュレーバーの父親、D.G.M.シュレーバーのことを調べるうちに、体操や健康法の歴史や身体をめぐる言説の歴史に興味を持つ。研究科内部の発表会(人環フォーラム)で体操書に描かれた身体像と理想的な身体イメージの変化について発表する。デュ・プレルの心霊主義についての資料を探して東大図書館、天理図書館などに行く。

2006年春:冬に行った発表を発展させ、仲間内で企画した公開シンポジウムで、「体操における美」について発表。シュレーバーはしばらく放置して、体操研究に打ち込む。

2006年夏、ポスター発表準備
2006年初夏:リレー講義で体操と舞踊におけるリズムの概念について発表。同じ内容を学会でポスター発表。大雑把な話だったが、さまざまな人から有益な助言をいただけた。

2006年夏休み〜秋:8月は、自分の勉強をちょっと中断して、ドイツ現代文学ゼミナールで、Jan Böttcherの小説„Geld oder Leben”について発表。読むのは大変だったがけっこう面白い作品だった。9月に「文明構造論」にシュレーバーの「脱男性化」についての論考を発表。

2007年冬〜春:カール・デュ・プレルについての最初の論文を書く。『神秘哲学』、『叙情詩の心理学』における、無意識状態の人間の創造力にかんして、フロイトの夢研究と比較した。まだまだ概要程度しか書けなかった。(この春でドクターの3年間が終わったことになるが、単位取得退学のことは全く考えていなかった。あと1,2年がんばれば論文は出来上がるだろうし、それまでは学籍があったほうがいいと思っていた)

2007年夏:春の学会に行った際、世話になっている先生に誘われ、クラインガルテンにかんして共同発表をすることに。シュレーバー父はシュレーバー菜園に名前を残しているが別に庭園造りの理論家ではない。シュレーバーが菜園と児童の遊戯場について述べているテクスト、そしてシュレーバーのフォロワーがそれをどのように受け継いだのかを調べ、無理やりまとめた。

2007年秋:7年間住んだ石原荘が取り壊しのため、浄土寺の銀閣寺ハウスに転居。共同発表は、準備不足でうまく質疑に答えられなかったところも多かった。学会発表の準備と並行して、冬から構想を暖めていた、シュレーバーの言語と世紀転換期文学の言語危機意識についての比較を論文にまとめる。

2008年春:デュ・プレル、ヘッケルの宇宙進化論とシュレーバーの世界観を比較検討しまとめる。この年から精華大学にTAとして出講するようになる。他のバイトもいろいろやってて、だんだん研究室で勉強することは少なくなりはじめる。

2008年夏:シュレーバー研究の新しいネタが無くなり迷走し始める。

2008年冬:ドイツ語の非常勤講師の口を紹介してもらえそうになるが、のちに立ち消えに。かなり落胆する。精華大学助手に応募。公募に通っても通らなくても、もう学籍を抜こうと決意する。単位取得退学をするにあたり、博士論文の見通しについて研究室内で発表。この時に書いた博士論文の概要は、実際の論文のほぼ骨格となった。

2009年春:精華大学嘱託助手に着任。しばらくは必要以上に仕事がしたくて研究はほぼ休止状態。神秘的思考と近代ヨーロッパの思想についてのシンポジウムをすることになり、デュ・プレルの心霊研究と科学の関係について少しずつ勉強をすすめる。

2009年秋:デュ・プレルについて発表。2005年に初めて学会発表でデュ・プレルに言及した時に比べるとだいぶ研究は進んだが、それでもまだ説得力不足。

2010年春:院生仲間たちが徐々に博士号を取得したり、論文を書籍化したりするようになる。焦っていたはずだが、なぜか論文は書かず。何をしていたのかよく覚えていない。たぶん大学の仕事に追われていたのだろう。デュ・プレルについての発表を論文に書きなおしてシンポジウム論集を作るはずが、他の発表者の都合もあり、頓挫。自分の論文も大幅に遅れるどころか全く書けていなかった。

2010年秋:春に書けなかったデュ・プレル論を夏休みの終りに書く。ほとんど学会発表の時の内容と変わらなかった。

2011年春:この年の始めに婚約。妻が春に博士論文を提出。これを見てようやくおれもやらなきゃ、と思い始めた。年度が変わってすぐ指導教授と打ち合わせ。夏までは数回論文の構成について話しあったが、その後執筆の手が完全に止る。

2011年秋:結婚式の準備をしながら、すこしずつ原稿を書く。だが、本当に少しずつしか書けておらず、序章の半分くらいまでしかできていなかった。

2012年春:年が明けても論文執筆は進まず。博士論文全体の半分以上は既発表論文をつなぎ合わせる形だが、途中新たに書き下ろす章もあったので、とにかく書き足さなければならない部分を最優先で作業をすすめる。本格的に毎日ガリガリ書くようになったのは、2月5日に木津川マラソンが終わってから。残り一ヶ月半ほどで、原稿用紙100枚以上を書き足した。3月末になんとか提出。→現在に至る



このようにこれまでの歩みを振り返ってみると、あまりにもムダな時間がかかり過ぎていたのだなあ、と呆れるばかりだ。博士課程に入った頃は学会発表など後回しにして留学でもしておいたほうがよかっただろうし、2008年頃には論文の構想や内容はほとんどできていたのだから、もっと早く書き始めることができただろう。ああすればよかった、こうすればよかったということばかり思い浮かぶ。

ともかく、来週の公聴会で博士論文への道はいちおうゴールということになる。過去のことを振り返ってみて思うのは、一時期興味を持っていたけど、深められなかったことがけっこう残っていなあということ。今後はこれまで読みきれなかった資料を読んだり、欲しかったけど見てない資料を探したりするところから次の研究を始めていければいいのではないかと思っている。

2012年7月17日火曜日

どんなふうに勉強してきたのかなど、忘れてしまった

公募書類を書いたり、授業の準備をしたりしているけど、なんだかあまりうまくいかないので、今考えてることをちょっとまとめておこう。

ここ最近困っているのは、自分の記憶がどんどん薄れていっているということだ。


大学3年ごろ。パーティでドイツの学生と酒を飲んでいた
みたいだが、ちゃんと会話などできていなかったと思う。
私のドイツ語の授業を履修しているのは、ほとんどが大学一年生である。今年の学生なら、1992〜94年ごろの生まれということになる。彼らが生まれて間もないころには、もう私は明治大学の学生になっていたわけだ。

学生たちと話をしていて、いつも「あの頃自分は何をしていたか」ということを思い出す。期末テストや夏休みが近づけば、自分がどのように、大学に入って最初の期末テストを迎え、夏休みを楽しんだのかということを思い起こす。だけど、このごろ気づくのは、こういったちょっと昔のことがなかなか思い出せないということである。健忘症とか失語症とかいうものでは、もちろんない。そうではなくて、ちょっとしたこと、当時は当たり前のように積み重なっていた日々の記憶が薄れてしまっているのだ。

大学1年生の時に、ホテルの配膳人のバイトを始めてあまりの忙しさに一週間で逃げ出したことや、その後コンビニの夜勤をやるようになり、大学の授業に出られるのは週3日のみとなってしまったこと、さらに冬にはもうひとつバイトを増やそうと思って「もちつき屋」に面接に行ったが、あまりのブラック臭に、話を聞くだけで逃げ出したことなどは、しょっちゅう人に話すネタなので、よく覚えている。だが、そういった出来事じゃなくて、ちょっとしたなんでもない日の記憶が、なかなか思い出せない。端的にいえば、自分が1年生のときに、どのようにドイツ語を勉強していたのか、何も覚えていないのだ。

格の概念とか、形容詞の格変化とか、定冠詞・不定冠詞とか、ドイツ語学習のポイントになるような文法事項を扱う時、学生がどのように理解し、どのように知識が定着するのかが気になる。そんなとき、自分がこんなふうに勉強した、こんなふうに理解したということを覚えていれば、もう少し体験的なアドバイスなどができるのではないかと思うのだけど、残念ながら、自分が勉強した時のことはちっとも覚えていないのだ。

ドイツ語の勉強に関して、いくらか記憶に残っているのは、2年生以降のことばかりだ。1年生の冬に、ドイツ・フランスを旅行して、ようやくちゃんと勉強しようという気持ちになってから、計画を立て、日々継続的に勉強するという習慣がやっと身についた。それから大学院入試あたりまで、どのように勉強してきたのかは割とよく覚えている。だが、どのくらい身についていたのかは、甚だ疑問である。当時はしっかり勉強してきたつもりだったのだが、ドイツに短期留学したときは、クラス分けの面接試験で言われたことがほとんど理解できなかったし、文法的な知識についても、ドイツ語を大学で教えるようになったここ数年のうちに、ああなるほどこういうことだったのか、とようやく腑に落ちるようなことも多々あったわけで。

おぼろげな記憶をたどって、昔の自分のドイツ語学習を振り返ろうとしたけど、あまり今の授業の役に立ちそうなことは思い出せなかった。せいぜい「形容詞は挫折のポイント」とか「夏休みが終わると何もかも忘れる」とか、まったくただの一般論でしかないではないか。

というわけで私はたぶん日々学生たちに教えながら、自分自身が学び直しているのだろうと思う。

2012年7月16日月曜日

どうしたらドイツ語ができるようになるのか

毎週いくつかの大学でドイツ語の初級を教えている。毎週授業のたびに、どうやったら学生たちはドイツ語ができるようになるのだろうと考えさせられる。

学力的に、よくできる子から、あんまり勉強自体が好きじゃない子までさまざまな学生がいる。あまりできない学生たちの様子を見ていると、ああ、自分も学部一年目はこんなもんだったなあ、と懐かしく思えてくることも多い。そういう学生たちが、少しずつドイツ語の発音を覚え、人称変化や格変化に慣れていくのを見ると、なるほど、そういうふうに徐々に身についていくのだなあと感心する。

教えているのは私なのだから、私の教え方さえしっかりしていれば、学生たちがどのくらいのペースで、どのくらいまで学力が伸びるのかは把握できるはずだ。たしかにそうかもしれない。だが、そう都合よく行くわけがない。学生たちはドイツ語を専攻しているわけではない。みんな自分の専門の勉強がある。英語もやるし、就活のための勉強もしているはずだ。だから、いくらこちらがあれこれ考えて計画をねっても、覚えておいて、と言ったことを全部次の週までに覚える学生などまずいない。

個々の学生の学習態度や学習習慣の問題ではなく、そもそも私自身が、どうやったらドイツ語ができるようになるのかよくわからないのだ。19歳で大学に入って、15年くらい勉強して、いちおう大学生に授業が出来る程度にはできるようになったけれど、それは15年かかってやっと、ということだ。毎回授業のたびに、たかだか1年か2年しかドイツ語を学ばない学生たちにどう教えたらいいのだろうと悩んできた。私自身は、どうしても勉強したい子はそのうちできるようになるのだから、そのための種をまいておくくらいで十分だろうと思っている。だけど、自分と同じように学生も10年以上ドイツ語を勉強し続けるわけではない。やはり、限られた時間の中で最大限の成果はあげるべきだ。だが、どうやって?

この問題が難しいのは、簡単にいえば、到達目標が定まっていないからだ。英語と同じように使いこなせるレベルをめざすのであれば、私の授業、私の教え方ではまったく不十分だ。しばしば第二外国語は、学んだところであんまり読み書きや会話ができるほど上達しないから意味が無いと言われる。大学4年間では、途中で留学して集中的に学んだりしない限り、たしかに難しいだろう。だが、だからといって無意味とは言いたくない。一年間ドイツ語の授業に出て、ゆっくりペースで現在完了形あたりまでしか勉強しなかったとしても、そこで学ぶのは、必ずしもドイツ語の単語や文法といった知識だけではない。英語の学習にも役立つような、言語観だったり、あるいは語学以外にも応用可能な、ものごとを体系的に俯瞰する視点だったりするのではないだろうか。

話が少しそれてしまったが、「どうしたらドイツ語ができるようになるか」そして「どのくらいの期間で、どのようなことを学習すべきか」という問題は、「何のためにドイツ語を学ぶか」という問題とも密接に関連しているということがわかってきた。

2012年6月18日月曜日

どんな教科書がいいのか?―備忘録として―

週に何コマもドイツ語を教えるようになって、いろいろな教科書のいいところ悪いところが徐々に見えてきた。もちろん学期が始まる前に、教科書を選ぶ段階でも、そうとう悩んでいるし、大量のサンプルに目を通している。この教科書を使えば、こういう授業ができる、こういう練習ができる、といった具合に、自分の授業のシミュレーションもしている。それでも授業は、実際に蓋を開けてみないとどうなるかわからない。
京都大学では各教員(専任も非常勤も)が自由に教科書を選んで構わない(こういう大学は珍しい方だと最近知った)のだが、自分が前年度中に、こういう学生が来てこういう授業をしようという目星をつけていても、じっさいに学期が始まらないと、担当する学部もクラスの人数も、学生たちの雰囲気も分からないのだ。

現在、ちょうど友人たちと教科書づくりを進めているので、新たな教科書に何を載せればいいのかを考えるためにも、既存の教科書の良い所・悪い所を分析して整理しておきたいと思うようになった。そこで、これまでに授業で使った教科書について、その印象や問題点などをまとめておく。


1)総合教材―会話・文法・作文・聞き取りなど―
・イメージするドイツ語(朝日出版社):使いやすい。週1時間授業のクラスにはちょうどいい。Dialogの例文はさほどむずかしくないし、毎回パートナー練習ができるようになっている点も使いやすい。難点は、付属CDのネイティブによる発音が早すぎること。あと、文法的な知識の定着を図るために、練習問題などを適宜補う必要もある。
問題点としては、コミュニケーション中心の構成となっているため、格の概念や、定冠詞・不定冠詞が出てくるのがやや遅いことが挙げられる。会話練習の課題文や練習問題などの補助教材を作る際に注意が必要。

・ぼくらの未来(朝日出版社):かなり使いにくい。DialogがDVDになっているのはいいが、いかんせん内容が難しすぎる。現地の若者の自然な会話を再現しているのかもしれないが、初めてドイツ語に触れる学生を対象にした教材としては、内容的にわかりにくい。文法事項もまとめてどっさり出てくる。授業では一ヶ月で一課ずつくらいのペースで、教科書はあまりつかわず、練習問題や会話文の教材を使ってフォローしている。


・開けごま(郁文堂):非常勤1年目に使用。仕事の依頼が来てから、3日以内に教科書を決定しなければならなかったため、指導教授に相談。先生が使っている教科書をそのまま使うことにした。授業が始まってすぐ気づいたが、とても使いにくい教科書だった。構成は、各課とも、文章・文法事項の説明・練習問題・応用問題となっていたが、冒頭の文章がやや難しかったり、文法事項の出てくる順番にかなりクセがあったりして、教える際に困った。現在は同じ著者により、改訂版が出されている。そちらはもう少し使いやすくなってるみたい。


・アプファールト(三修社):挿絵がポップで非常に可愛らしかったので、それにつられて昨年の授業で使用。教授用資料が充実している。各頁の練習を授業でどのように進めたらいいのか等作り手側の提案が収録されている。全体的に内容が豊かで使いやすいのだが、前置詞、形容詞、比較級・最上級などの項目が「付録」の扱いになっているため、後期に少し困った。週1コマずつで、一年時に初級文法を終えないクラスには向いている。



・ウニ・プラッツ(同学社):実習用の教科書として今年使用している。文法的な解説は少なく、会話練習、パートナー練習が豊富。穴埋めの文法問題や作文、短文の読解問題も含まれているので、さまざまな練習ができる。使いやすいが、やや内容が易しい。また、章ごとのDialogがすこし短すぎる。会話表現の教科書にもかかわらず、挨拶の表現の頁が設けられていないのも欠点。会話・文法・作文といろいろな要素が偏りなく詰め込まれているので、実習用の教材としてはよくできている。足りない部分は文法書や問題集で補えばOK。


・ドイツ語の時間―読解編―〈読めると楽しい!〉(朝日出版社):文章の読解力の養成を目指した教科書。2年生のクラスで使用している。読解テクストだけでなく、文法問題やオリジナル戯曲なども収録されている。出版社から送られてくる大量の補助教材を使えば、何時間でも授業ができそう。

2)初級文法―文法の解説、穴埋め問題、作文など―

・身につくドイツ文法ver.2(郁文堂):非常に使いやすい。解説の詳しさ、練習問題の難易度のバランスがいい。発展練習には、パートナー練習とドイツ語作文の問題がある。文法のクラスは講義形式で単調になりがちだが、パートナー練習で楽しい雰囲気を作ったり、作文を宿題にすることで家庭での自学自習をさせることができる。昨年に続き今年も2クラスで使っている。



・ドイツ語の時間〈話すための文法〉(朝日出版社):『身につくドイツ文法』とともに、人気・定評のある教科書。説明がわかりやすく、練習問題の量もそこそこ多いので使いやすそうだが、『身につく〜』に比べて、練習問題が易しめ。京大で使用するのであれば、もう少し骨のある問題を補う必要がある。

・岩崎・平尾・初歩ドイツ文法(同学社):学部時代から愛用している『必携ドイツ文法総まとめ』の著者による文法の教科書。解説が詳しく、これだけ分量があれば、授業で話す内容にこまることもあるまい、と思い一年目に採用。実際に使ってみると、文法事項の説明がかなり細かい、練習問題がかなり難しい、などの問題点に気づいた。もう少し私に知識や技量があれば、この教科書を有効に活かすことができたのかもしれない。

・面白いぞドイツ語文法(朝日出版社):自分の授業では使用していないが、評判がよかったので取り寄せてみた。著者は京大のドイツ語学先生なので、文法的な説明が非常に細かい。練習問題も難しめ。しかし教科書としての構成はシンプルなので、うまく取捨選択すればどのレベルの学生に対しても使いやすいのでは。巻末の文法補足は、ちょっと詳しい説明、より詳しい説明と2段階に分けられており、「より詳しい説明」のほうは、ドイツ語学者向けとでも言えるような内容。じっくり読むとこれまで知らなかったことに気付かされることもある。

2012年5月8日火曜日

就活する学生たちについて

今年から出講している大学では、2年生以上のクラスを担当しているのだが、集まった学生たちは半分くらいが4年生である。

4年生にもなって初級外国語の授業に出るなど、普通の大学ならば相当なダメ学生なんじゃないかと思われるが、ここでは外国語の取得単位数がやたら多いため、殆どの学生が、3年生になっても第二外国語の授業を履修しなければならないそうだ。しかも、たいていの大学の場合、一年時に選んだ第二外国語は何が何でも単位を取らなければならず、第二外国語が取れなかったために卒業もできなくなってしまったという話をかつてはよく聞いたものだが、私のクラスの学生たちは、ほとんど中国語や韓国語の初級を履修したあと、同じ言語を中級までやるのではなく、ドイツ語に流れてきたのだ。

だから、大学新入生に初級ドイツ語を教えるのとは少し勝手が違ってくる。希望にあふれ、好奇心に満ちた1年生たちに比べて、発音や挨拶のような初歩の初歩を教える際には、彼らの表情にはやはり、すでに通ってきた道、という冷めた雰囲気が漂っている。

この大学の学生たちは、よくも悪くも普通の子たちだ。勉強ができるわけでもなく、友だちと遊び呆けたり、カロリーの高いものをたくさん食べたりしている。かつてつとめていた大学では、オタクと元いじめられっ子が大半を占めており、ギャルやヤンキー系の学生たちは肩身が狭そうだったが、ここの学生たちはちょうど真逆。活発で元気が良くて楽しそうだ。

私のクラスは男子ばかりで、悪そうな奴らはだいたい友だちみたいな子たちと、就活中でスーツ姿の子たちが大半を占めている。そして「悪そうな〜」組とスーツ組が隔週で出席しているような状況だ。今週はスーツ組が何人か出席していて、授業のあとに就活中でこれまで欠席していたことを報告しにきた。

4年にもなって出なきゃならない授業がたくさんあるという状況自体がダメダメなのだが、そんなことはおくびにも出さず、「がんばれよ」、「きっといい会社に入れるよ」と励ましの言葉をかけた自分は、教師として甘いな、と思う反面、就活中の彼らがうらやましくもあった。彼らはまだまだ内定を取れないだろうが、授業に出る暇もないほど、毎週のように選考会や面接に行けるのだ。入れる、入れないはともかく、日本中の何百もの会社の入社試験を受ける資格があるのだ。それだけでも、すごいことだ。私も求職中で、毎日教員公募情報を見ているが、たぶん年間にエントリーできる求人は10から15くらいしかないだろう。分野によっては、もっと少いこともあるだろう。

それに比べれば、毎回落とされるにしても、求人があるだけいいじゃないかと思ってしまう。どうしても横並びで、同級生みんなと同じように就活をするため、早く内定がとれなければ、自分だけがダメなんじゃないかと思ってしまうのだろうが、視野を広げて、卒業式までにどこか入れれば、くらいの気持ちでがんばってほしい。前にも書いたが、就職すること自体が、何かになることではないのだ。それはせいぜい、何かになるための手段でしかないのだから。

2012年4月12日木曜日

学生たちはいつまでも若い

いつの間にか新学期がスタートしていて、昨日は滋賀県立大学で第一回目の授業があった。
おととし、自転車で琵琶湖一周をした時に湖岸道路から校舎を眺めたことがあったが、電車で行くのは今回が初めて。彦根市内なので、新快速であっという間だな、と思いきや、南彦根は鈍行しか停まらない。 

京都駅から鈍行列車に乗り込むと、何故かやたら混んでいる。

大阪方面行きなら、混むのも仕方ないが、なんでこんなに学生ふうの若者ばかり乗っているのだろうと、つり革につかまりながら考えていた。山科の薬科大と橘、石山の滋賀大、瀬田の滋賀医大と龍大と、各駅ごとの大学を思い出しながら席があくのを待っていたら、やはり瀬田でたくさん降り、さらに南草津でほとんどの若者が降りていった。南草津ってなんだ?と思い検索したら立命館があるのだとわかった。 

草津から先はもうガラガラ。ほとんど人の動きのない車内で、小一時間を過ごした。あいにく雨だったが、景色を眺めるとなんだか栃木の風景のようで、懐かしかった。 

南彦根からは市バスで移動。15分くらいで県立大についた。家からはだいたい2時間弱。近大よりは遠いが堺看護と同じくらいか。 

初回ということで、ドイツ語の専任教員に案内してもらったり、学生の様子を聞いたりした。大学がまだ新しいので校舎はきれいだが、学生数は少ないのでこじんまりしていた。 

私が担当するドイツ語は3時間目、4時間目とも、1年生向けの授業。初回なので、自己紹介、学生へのアンケート、ドイツ語についての説明などをやった。学生へのアンケートは、ドイツ語や他の外国語の既習歴を聞くことが目的だが、出身地や大学でやってみたいことなどの項目を入れることで、学生それぞれの個性が見えて面白い。今回は出身校も書いてもらったが、北野、洛北、膳所など名門校出身の子が多いことに驚いた。県立大の偏差値がどのくらいかは知らないが、学生の知的レベルは高いのかもしれない。実際に話しをしていても、みんなよく聞いてくれるし話すことへの反応もとてもいい。とくに3時間目のクラスは女子ばかり(8割くらい?)で、ドイツ語のクラスじゃないみたいだった。 

近大のときには用意できなかったが、今回はドイツ語とドイツ語圏文化を紹介する 
スライドを見せたので、学生たちもドイツ語に対するイメージがふくらんだかもしれない。 
そのなかで、自分の子供時代の大きな出来事として、ベルリンの壁について話した。 

逆に学生たちにとってはどんなことが子供時代の出来事として記憶されてるのか聞いてみたところ何人かの学生は2001年の同時多発テロを挙げてくれた。また、記憶の中で最初のオリンピックは、2004年のアテネ大会だと言っていた子もいた。今年の新入生は現役なら93年か94年生まれ。彼らにとっては、2001年が最も古い記憶なのだ。思わず遠い目をしてしまった。93年、94年といえば、私はちょうど高校生で、毎日陸の牢獄栃木で、男漬けの高校生活を送っていた時期だ。あの頃からもう18年も経ってしまったのだ。 

私は毎年年をとるが、学生たちはいつまでも若い。毎年18歳のままだ。 
彼らにとっての自我の原点は、だんだん私の現代に近づいてくる。 
数年前、大学で教え始めた時期には、古い記憶といえば神戸の震災だったのに。 

教員という仕事をしていると誰もが感じることだろうが、とくに私のような語学教師は 
1年生ばかり相手にしているので、なおのこと学生との歳の差を思い知る。 


それはともかく、子供時代の社会的な出来事の記憶については、もっといろんな人に聞いてみたいと思っている。学生たちにとって、バブル景気やベルリンの壁が、遠い過去の話で教科書の中のエピソードでしかないように、私自身にとってもオイルショックや学園紛争はあまりに遠い過去の出来事のように思える。あたり前のことだが、あらゆる出来事について、それを経験した年齢の違いや地域の違いが、受け止め方やその後の考え方に大きな違いをもたらすからだ。それは私たち夫婦においても、年齢はひとつしか違わないのに、育った場所がだいぶ離れているせいで、子供の頃の記憶に隔たりがあったりする。 

大学1年生の調べ学習みたいだが、人が世の中の出来事をどう記憶しているのか、というのは最近の私にとっておもしろいテーマとなっている。 

2012年3月23日金曜日

京都マラソンに思うこと

3月11日の日曜日に、第1回京都マラソンが開催された。
スタート地点は我が家からも程近い西京極の競技場。桂川から嵐山を経て、
広沢池、きぬかけの路を通って、金閣寺を迂回して上賀茂へ。そこから下鴨、鴨川沿い、
今出川・東大路を行ったりきたりして、岡崎平安神宮前でゴール、というコース。

3年前まではハーフマラソンが開催されていたが、規模を大きくしてリニューアルした
とのことだった。京都シティハーフのスタートは平安神宮で、当時の自宅からほど近かった
ので、3年前に出場した。当時も参加者が多すぎるな、と思ったし、ハーフとしては
参加費がかなり高額だと思った。たぶん5000円〜6000円くらい?ハーフなら相場は
2000〜4000円台までだ。田舎の小規模な大会であれば、4000円くらいのフルマラソンもある。

これだけ参加料を徴収しておいて、運営は赤字になっていたらしいので、こういう大都市で
道を塞ぐのにどれだけお金がかかるのかということが窺える。
それで、フルマラソン化した今回は、被災地への義援金も含めて参加料は15000円。
バカ高い。そして参加者も1万4,000人弱集めている。東京マラソンは3万人くらいが走った
らしいが、1万人を超えるマラソンというのは、そうとう広い会場でないとできない。
スタート地点の西京極陸上競技場では、スタート開始から数分たっても競技場内にすら
入れない人がいたそうだ。西京極駅は、ホームから人が落ちたり、階段で将棋倒しになったりしかねないほどの混雑だったという。

私は自宅から近い広沢池で、トップ選手から30分くらい応援していたが、帰ろうとしているときに、ランナーが路上に溜まっているのを見た。怪我人でも出たかと思ったが、交通整理の係の人が、緊急車両の通過だとか言ってランナーを止めていたのだ。救急車も消防車もまったく近くには見えなかった。それほど近づいてもいない車のために、ランナーが止められるなどということがマラソン大会でありうるのか?と不審に思った。

翌日ランナーズに投稿された大会の完走レポートで、やはりランナーが止められていたのは、緊急車両の通過のためなどではなく、運営側が、道路が混雑しすぎてしまうので交通整理のために行ったことだったと分かった。広沢池の手前で交通整理ということは、山越一条の交差点からの上り坂、および音戸山から下って福王寺の交差点手前の坂、というすぐ後に続く狭い道の区間があるからだろう。もちろん危険を避けるために、交通整理をするのは必要だ。だが、そもそも参加者には、途中で止められることがあるということについて説明がなかったというし、止めなければならないほど狭い道を使ったり、大人数を走らせたりすることが大きな問題ではないだろうか。

そう、簡単に言ってしまえば、京都のちいさな盆地では、フルマラソンのコースをとることは非常に困難なのだ。もちろん数十人が走る駅伝のコースくらいなら、交通規制の負担も小さいのでぜんぜん問題ない。だが、1万人を超える人が数時間にわたって走り続けるような大会で、すくなくとも京都市の中心部を通るコースを作るのは、相当に無理がある。
ランナーズのレポートでも、コースを見直すべきという意見が多かった。

そこで海外では、どのように大都市型マラソンのコースを作っているのか、いくつかのマラソン大会のコースを見てみた。ドイツでは、毎週のように都市型マラソンが開催されている。BMW主催のフランクフルトマラソンは、前半がゲーテハウスやザクセンハウゼンなど旧市街の名所、後半がフランクフルト方面(市内西部)という感じだが、前半15kmのコースがあまりに複雑。おそらく旧市街周辺に大きな道路(バイパスなど)がありそこを封鎖するわけには行かないから、中心街を何度も往復することにしたのだろう。一方おなじBMW主催のベルリンマラソンは、ブランデンブルク門をスタートし、Mitte北部をぐるっと回って、Kreuzberg, Steglitz, Zehlendorfと市内南西部を通って、ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門にゴール、というコース。一度も同じ所を通らずに、しかもベルリン中心部の半分くらいしか通過していないのに、ちゃんと42km取れている。自分で行った時にも、東京よりはるかに大きな町だとわかってたけど、改めてベルリンの大きさに驚かされる。

もし京都でもっと安全で快適なマラソンコースを作るとしたらどうしたらいいだろうか?市内中心部を使うことは諦めて、上賀茂から市原を越えて岩倉あたりまで行くコースを考えてみたが、これもやはり実現困難だろう。


2012年3月19日月曜日

人生経験値


35年も生きてくると、達成できたことだけでなく、
当然のことながらまだできていないことがたくさんある。
穂村弘氏が著作のなかで、星取表みたいに列挙していたのがおもしろかったので
ちょっとやってみようと思う。

思いつき次第、少しずつ更新して項目を増やしていく予定。
凡例:◯=経験済み、☓=未経験、△=微妙、◎=大いに

☆人生経験
結婚 ◯
同棲 △(一時的な居候のみ)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
浪人 ◯
留年 ◯
停学 ☓
退学 ◯(単位取得退学)
不登校 △(修士課程で不登校気味に)
皆勤賞 △(精勤ならあったかも)
車にはねられる ☓
バイクで転倒 ◯
線路に落ちる ☓
犬に噛まれる ◯
雪山で滑落 ◯
救助隊に助けられる ◯(怪我してないけど、スキーブーツ破損して滑走不能になったので)
海で溺れる ☓
遭難 ☓
難破 ☓
骨折 ☓
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯


☆資格・仕事系
普通自動車免許 ◯
普通自動二輪 ◯
英検 ◯
調理師 ☓
教員免許 ☓
修士号 ◯
博士号 △(たぶんこれから)
海外学位 ☓
代表取締役 ☓
正社員 ☓
ボーナス ◯
昇給 ◯
卒業式で花束 ◯
雇い止め △(学科が募集停止になった)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)

☆身体的
激ヤセ ◯
インフルエンザ ☓
40度の高熱 ☓
鼻血 ◎
水虫 ◯
成長痛 ☓
痔 ☓
ぎっくり腰 ☓
近眼 ◯
視力矯正手術 ◯
差し歯 ◯
血尿 ◯
出産 ☓
献血 ◯

☆旅
ひとり旅 ◎
野宿 ☓
5つ星 ☓
ドミトリー ◯
テント泊 ◯
ヨーロッパ ◯
ハワイ ☓
沖縄 ◯
北海道 ◯
ウユニ塩湖 ☓
ニューヨーク ☓
中国 △
ロシア △
つくば万博 ◯
花博 ☓
とちぎ博 ☓
愛地球博 ☓
富士山 ☓
比叡山 ◯
足尾銅山 ◯

☆輝かしい経験
ホームラン ◯
ハットトリック ☓
一本勝ち ◯
サービスエース ☓(サーブ苦手)
マラソン完走 ◯
バスケットのシュート ☓(入ったことない)
タイブレーク ☓(テニスの公式戦勝ったことない)
逆上がり ◯
はやぶさ飛び ◯(たぶんできた)
一輪車 ◯(これも30年以上やってない)
テストで100点 ◯

☆食べ物等
しもつかれ ◎
フォアグラ ◯
からすみ ◯
ほや ◯
うに ◯
フランス料理、コース ◯
タイ米 ◯
ドリアン ◯
ドラゴンフルーツ ◯
ざざむし ☓
イナゴ ◯
蜂の子 ☓
甘いしょうゆ ☓
伊勢うどん ◯
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)


こうやって書きだしてみるといろんな項目があっておもしろい。
今回これを書きだしたのは、じつはバスケットボールでシュートが入ったことが一度もないのを、ふと思いだしたからだった。


2012年3月17日土曜日

1982年、500円玉と新幹線(2)

小学校にあがる前
4歳年下のいとこと
ここからは、2007年秋に書いていた日記から。


日ごろ論文検索に使っているCINIIやMAGAZINEPLUSで検索すると 
500円硬貨について、いくつかの雑誌記事がひっかかった。 
(予想していたことだが、学術論文はまったく見つからなかった。) 
夕方図書館でコピーしたのが、1984年に「朝日ジャーナル」8月31日号に掲載された、 
「日常からの疑問18 シリーズ・こんなものいらない!?500円硬貨」と題された記事である。 

1984年といえばロサンゼルスオリンピックのころ。私が覚えてる一番古いオリンピックだ。 
500円硬貨の登場は82年の4月。ということは登場からすでに一年半も経過したあと 
ということになる。執筆者は朝日ジャーナル記者の宮本貢というひと。 
ちなみにこの雑誌の同じ号には「現代の若者のカリスマ」というグラフ記事で 
村上龍(当時32歳)が取り上げられている。 

この記事での主張を簡単にまとめると、このところ500円玉が出回るようになったが、 
どうにも使いにくくてなるべく早く手放したくてしょうがない、これはけっして作者だけの 
感覚ではなく、わりと世の中に広く共有されているものである、といったところ。 

ではなぜ宮本は、500円玉を忌避するのだろうか。 
主だった理由としては、必要ないということ、重すぎること、札のほうが管理しやすいこと 
などを三和銀行のアンケート結果とともに列挙している。 

この、500円玉が「重い」という印象は現在の私たちにとって違和感を覚えるところではないか。 
たしかに私が初めて父から500円玉をもらったときには、なにか宝物のような、 
優勝のメダルのようなものを手にしたかのような、ずっしりとしたカタマリという印象を 
抱いた。それは私がまだ6歳の幼児だったからかもしれないとも思っていたのだが、 
この記事を見る限りは、大人にとっても500円玉の大きさや重さはなにやら奇妙な 
ものだったのだろう。 

それから500円玉が必要ない、使いにくいという感覚もよくわからない。 
私の場合、500円玉を使う場面といえば、たばこを買うときのことを思い出す。 
いまはやめてしまったけど、喫煙者だったころには、たいていいつも500円玉を 
投入していたはずだ。 
なぜなら、ちょっと前までたばこは200円台後半という中途半端な額だったし、 
1000円札を入れるとおつりが大量に出てきて困ったりもしたからだ。


また、たばこでなくても、ジュースやお茶などを買う際にも、500円玉ならたいていのものが買えるし、10円玉や100円玉を何種類も小銭入れに入れておかなくてもいいので便利だ。 

だが、このような感覚は、500円玉を基準にした物価体系の中に生きているからこそ 
成り立ちうるものだということを忘れてはならない。 
記事から1984年当時の物価水準を想像することは難しいが、調べたところによると 
このころのたばこ一箱の値段は200円前後。(私が見たデータではハイライトの値段が、 
83年から84年にかけて、170円から200円に上がったことになっている。ということは、 
いまのたばこもそうであるように、84年当時でも、200円以下の銘柄だってあったかも 
しれないということだ。) 
コーラやファンタなどは確か消費税導入まではどこでも100円ちょうどだった。 
ということは、たばこにせよ、ジュースにせよ、100円玉を数枚用意しておけば 
ことたりるわけで、なにも重たい500円玉をジャラジャラさせておく必要はないのだ。 

さらに記事の中でも触れられているように、84年の11月に新紙幣(夏目漱石の 
1000円札)が登場することになっていたため、500円玉に対応する自販機の導入が 
遅れていたという事情も関係している。 

それゆえ、記者が述べるように、ちょうどこの時期500円玉は自販機でつかえないし、 
たばこやジュースを買うにはやや額面が大きすぎる、ちょっと使いづらい硬貨として 
認識されていたということなのだろう。 

ずいぶん長くなったのでいったんまとめておこう。 
東北新幹線(1984年開通)とともに私の幼年時代の記憶として刻まれている500円玉の 
印象だが、その重さやスペシャル感というのは、大人社会においては違和感や拒絶感 
として受け入れられていた。そして大人たちが500円玉を手にしたときの、何となく決まり悪い 
思いは、それがモノの価値が大きく変動する時代の入り口にたっていたことを意味している。
それまでの100円玉数枚を中心としていたモノの価値体系は、おそらく82年の500円玉導入、 
および新札の発行、そして89年の消費税のスタートによって決定的に、500円玉を中心とする 
体系へとシフトしていったと考えられよう。 

そしておそらく私たちにとって、現在の物価もいまだ500円硬貨を一つの単位とする 
価値の体系をそのままにとどめているといえるのではないだろうか。  

1982年、500円玉と新幹線(1)

2009年に今の職場に入って、最初に初年次演習の授業でやったプログラムが、「自分史年表」をつくる、というものだった。彼らが生まれた1990年から現在までのさまざまな社会の出来事や、自分にとって重要だった出来事を、新聞や資料で調べながらまとめるという課題だった。

私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
落下傘花火を拾ってきた私。
何歳だったのか分からない。

それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。

ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。


さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。

新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。


2012年3月16日金曜日

私たちはどうやって水を飲んでいたのか

かつてmixiに書いた(2010,7,3)文章がけっこう面白いので、こっちに載せておこうと思う。

夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。 
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。 

ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。 


伏見、御香宮神社。名水をペットボトルに汲む人
ローソンのバックルームはとても狭くて、夜勤の時はイスに座って壁に もたれかかるくらいしか休むすべがなかった。店でもベテランの兄さんは、 狭い狭いバックルーム(というより冷蔵庫裏の通路)に、広げたダンボール を敷いて、むりやりに横になっていた。 

いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。 

夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。 

しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。 

そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。 

和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。 

大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。 

その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが) 

京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。 

いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。 

さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。 

もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。 

ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。 

『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。