2012年8月21日火曜日

灯篭流しと送り火

8月16日には、送り火を家から見た。

京都市内北西に住んでいるので、我が家から「鳥居」が見える。
鳥居の送り火があるのは、嵐山の北、化野念仏寺や愛宕山があるあたり。
この山は低いので、大文字山のように広い範囲から見ることはおそらくできない。
大学院生の頃は毎年吉田キャンパスから送り火を眺めたが、左大文字(立命館あたり)や鳥居は京大からだとだいぶ遠いので、限られた建物からほんのちょっとしか見ることができなかった。昨年は友人と銀閣寺道近辺で大文字を見たので、今年は自宅から見るはじめての鳥居だ。
夕方六時頃、準備をする様子が見えるかもしれないと思い、マンションの廊下に出ると、鳥居の周辺に小さな明かりが灯っていた。

点火するのは8時すぎらしいので、それまでに、灯篭流しをしていた広沢池に歩いて行ってみた。広沢池は毎日のように走りに行く場所で、京都マラソンもこの場所から見たが、灯篭流しにはどこから集まったのか、信じられないほど沢山の人が来ていた。
池のうえには小舟がでていて、船の上からゆっくりとひとつひとつ灯籠を池に浮かべている。色とりどりの灯籠が、ふわふわ水の上に浮かぶ様子は本当に幻想的だった。
8時近くに帰宅して、マンションの自室で点火のときを待っていると、部屋の外が徐々に騒がしくなってきた。他の部屋や他の階の住人たちが集まってきている様子だった。前のアパートでもそうだが、送り火の日にはどのマンションでも、住人やその友達などが、送り火が見える上層階や屋上にみんな集まってくる。その様子を見るのも面白い。

8時半頃、いちばん火勢が強くなっている頃を見計らって、ベランダから写真を何枚もとった。写真だとずいぶん小さくなってしまうが、鳥居は思いのほか近くて、くっきりと見ることができた。






2012年8月20日月曜日

アルバイトの思い出(1)

Facebookなどで学生時代のバイト先の友人をフォローしてたりするんだけど、ふと思い出すと、その学生時代というのがかなり昔のことなんだな、と気づく。人の数倍ながく学校には通っていたが、それでも大学院博士課程を出てからもうすでに4年もたってしまっている。先日博士論文を提出して、ようやく自分の長かった学生時代にも一区切りがつけられそうなので、ここで先日作った研究関係の年表を補完する意味で、これまでやってきたアルバイトについてもまとめておこう。


1995年夏:採点。大宮の予備校に通う浪人生の頃、友人の姉さんが講師を勤めていた宇都宮の塾で採点のバイト。たしか中学生の模擬テストだった。同じ高校から予備校に行ってた悪友たちといっしょに塾に行き、それぞれの得意科目を分担して採点。私は英語を担当したが、数学や社会に比べて採点にやたら時間がかかり、自分だけ損した気分になった。日当をもらって帰ったが、何に使ったか全く覚えていない。

1996年初夏:配膳人。大学で出会った友人の紹介で、市ヶ谷のホテルの宴会場で働くことにした。配膳人というのは時給がとても高い(高校時代から働いていた友人は2000円くらいもらっていたらしい)し、山形の大学に通う兄が同様に披露宴会場でバイトしてたので、自分にもできるだろうと思ったからだ。職場は同年代の学生や、かわいい女の子もいたけど、入った季節が悪すぎた。ビヤガーデンや披露宴など、入って一週間で戦場のような忙しさを体験し、同じ時期に入った友人と謝りに行き、早々に退職。後になってみると、もう少し頑張ってもよかったとは思うが、あの仕事は明らかに田舎の高校を出たばかりのバイト初心者ができるものではなかった。

1996年夏:ハンバーガー屋。高い時給に釣られると痛い目にあうということを学習したので、今度は誰でもできそうな仕事をしようと思い、自宅近くの某ファーストフード店に面接に行く。事務所までは家から5分くらいしかかからなかったので、通勤は楽だったが、仕事はきつかった。私が住んでいた町は学生街で、平日も休日も商店街はひとでいっぱいだったのだ。店長はとても厳しい人で、ベテランのバイトもパートのおばちゃんも容赦なく叱り飛ばされていたし、私は何度も肉の焼き方が下手で、膝蹴りを食らった。一ヶ月半ほど我慢したが、レジ担当の女子たちとは仲良くなれないし、こんなに毎日怒られて時給800円以下というのはあんまりだと思い夏休みの終わり頃に退職。激務と夏バテで、毎日のようにハンバーガーを食べてたのに一気に痩せた。

1996年秋:コンビニ。誰でもできる普通の仕事で、かつあまり忙しくなさそうな職場、ということでバイト雑誌をくまなく眺めて、渋谷の西の外れにあるお屋敷街のコンビニで働くことにした。何度も地図を見てリサーチしたので、たしかにお店の客は少なめなのだが、周囲に買い物できる場所がほとんどないため、たくさん買い物をするお客さんが多かった。おかげで店の規模に比べて品出しがけっこうたいへんだった。夜勤スタッフとして週2回働いていたが、一回の勤務がよる9時からあさ9時までなので、週2でけっこうなお金が得られた。しかし当然のことながら、生活リズムは狂うし、大学の授業に出ることも厳しくなってしまった。1年次は登録した単位の3分の2程度しか取得できなかった。しかしこの店は、店長がバイト学生たちの活動に大変理解のある人で、私は夏休みや春休みの語学研修に行くために、何度も長期休暇をもらうことができた。仕事は楽ではなかったが、結局大学3年の終わりまで続けた。

1996年冬:餅つき屋(面接のみ)。海外旅行をしようと決意し、コンビニだけでなくもっと面白そうな仕事をしようと、大学の近所にある餅つき屋に面接に行った。はじめは、餅つきなんて楽しそうな仕事じゃないか、と簡単に考えていたが、餅つき屋の社長(自称親方)はガチガチの体育会系で、すごくおっかなそうな人だった。親方が言うには、餅つきは死ぬ気でやらなければならないから、生理痛だろうが39度の熱だろうが絶対に休ませない、とのことだった。今で言うところのブラック臭に耐えられず、面接の途中で謝って帰った。


1997年ごろ。ときどき帰省して猫をさわったり
栄養のあるものを食べたりしていた。
1997年夏:図書館の整理。コンビニのバイト(2年のときは主に夕方と休日に集中させ、大学の授業にしっかり出ていた)だけでは海外旅行のための資金が稼げないので、夏休みに2ヶ月だけ世田谷区内の某農業大学の図書館で、書庫の整理をした。図書館の仕事といっても、これは本当に引越し屋に近い、肉体労働だった。最初の10日間は、本を分類したり箱に詰めたりといった軽作業だったが、しだいにきつくなり、書庫から本を運び出す作業をしていたころは、一日の勤務で体重が2,3キロ落ちたりした。バイトに集まったのは、慶應・中央・早稲田など都内のわりと頭のよさげな大学の子たちで、お昼や休み時間にみんなとしゃべるのはとても楽しかった。しかし油断しすぎておもいっきり居眠りしていたのを社員さんに見つかってしまい、その場でクビを言い渡されるが、平謝りして許してもらったこともあった。

1999年春:メッセンジャー兼事務補佐。4年生になるにあたり、まわりのみんなが就活をしているなか、大学院に進むことを決意する。そこで、会社勤めをしないのなら、会社でバイトをしようと思い、コンビニを辞め、西新宿にある通訳者の派遣や国際会議のコーディネートをする会社で働くことに。普段の仕事は、クライアントである企業や官庁にいって、書類をもらったり・届けたりといったメッセンジャー業務と、社員さんの手伝いだった。この仕事は、暇な時は何もすることがなくてつまらなかったが、用事を言いつけられていろんな所に行けるのが本当に面白かった。外務省、大蔵省、国土省、警察庁など霞が関の役所には毎週行ったし、我孫子や千葉など、時間のかかる場所にいくときは、じっくり本を読めた。この職場で有り難かったのは、部長さんをはじめ、社員の皆さんがバイト学生をとても大事にしてくれたことだった。OLさんたちには、いつもねぎらいの言葉をかけてもらったり、お菓子をいただくことも多かった。院試の直前には、毎朝喫煙所でいっしょになる、隣の部署の部長さんから、面接に向けてのアドバイスを頂いた。3月に退職するときは、プレゼントをもらい、部署の皆さんから拍手で送ってもらった。あの会社の人たちのことは今でもよく思い出すし、ああいう場で働けたことに感謝している。

2000年以降、大学院生になってからのバイトの話は、次回につづく。

2012年8月10日金曜日

博士論文公聴会のてんまつ

頭が良くなるサプリを飲んで
準備をがんばった
8月6日無事に博士論文公聴会が終わった。

私が所属する研究科は、論文公聴会を公開で行なっている。
25部用意した資料は足りず、妻に追加コピーをとってきてもらった。

指導教授、および副査の先生方、質問をしてくれた二人の友人たち、
それぞれにとても有意義な意見をおっしゃってくださった。

書き上げる途中から、もうすっかり飽きてしまっていたこの論文だが、
こうして人の評価を聞くと、まだまだこのテーマに向きあい続けなければいけない
のかな、と改めて思う。



下は、当日配布した資料です。
kouchokai8.6

2012年8月2日木曜日

採点は身を切られる思い

前期の試験がほぼ終わり(正確には明日あと3つ残っているが)、これから採点作業に入る。どこの教員も採点が地獄だの、つらいだのと言っている。たしかに履修者が100人を超えるような科目ばかり担当していたら、採点だけで何日もかかってしまうので地獄だろう。私の場合、人数はたかが知れている。数の問題ではなく、何が辛いのかといえば、自分ができるだろうと思って出題した問題なのに、学生ができないことが辛いのだ。
こういうこと書いてくる学生は毎年いる。
ちゃんと勉強しているのであればまだしも
全く授業に出てない学生だとかえって印象は悪くなる


毎回テストの採点の際には緊張する。あまりにできが悪すぎたり、誰も正解できない問題があったり、あるいはそもそも出題ミスがあったりするのではないかと心配だからだ。ビクビク緊張しながら、一枚一枚採点作業をすすめている。だから100点をとる学生が一人でも出ると、ほっとひと安心する。そう、おれが出した問題はとりあえず間違いではなかった。テスト範囲をもれなく学習していれば、100点を取ることはできるのだ、それが証明されるだけでもだいぶ気持ちが楽になる。

それならば誰もが100点を取れるような簡単な問題にすればいいのかもしれない。だが、それもまた危険だ。せっかく徹底的に勉強してきたのに、こんなつまらん問題しかでないのでは、やった甲斐がない。後期はもっと手を抜いてしまおう、そう考える学生が出てくるのも困るからだ。そして逆にあまりにも難しい問題を出しても、同様に学生たちはやる気を無くしてしまうだろう。

だからできれば、クラスで一番できる数人の学生が100点をとるが、残りの連中は、落第しない程度にそこそこ出来ればいいのではないかと思う。昨日試験をした大学は、全体的に真面目な学生が多いので、ちゃんと勉強してくれば8割〜9割は得点できる問題にしようと思っていたのだけど、学生たちの解答をざっくり見たところでは、けっこう和訳ができていなかった。覚えてなさそうな単語にもっとヒントを入れておけばよかった。バランスの良い問題を作るのはなかなか難しいものだ。