2011年12月5日月曜日

ドイツ語学習と映画

学部時代に映画館で見た作品Zugvögel einmal nach Inari
同業者の友人が、授業で、話題になったドイツ映画を学生に見せていると言っていた。


映画を見せる授業というのは、よく話しには聞くけど、これまで自分でやってみようとは一度も思ったことがなかった。教えるべき文法事項はいくらでもあるし―いくら教えてもちゃんと吸収してくれる学生たちなのだし―、学生たちがどんな映画を見たがるのか、彼らにとって身になるような映画が何かも分からなかったからだ。


注文した映画DVD
たしかにドイツ映画にだって面白い作品はたくさんある。日本にも、少ないながらもいい作品が入ってきている。だが、それがドイツ語の授業においてどのように使えるか、ということはちょっと難しい問題だと思っていた。特定のシーンを見せて、そこで言われているセリフから、ドイツ語における会話表現を理解させるというのは、語学学校などでも行われる方法だが、それは初級文法を学んでいる途中の学生たちにはあまりにも難しい。聞きとり能力もまだまだだし、語彙も限られている。そして教える私の方も、学生に見せたい適当な箇所をピンポイントで選ぶことが必要になる。典型的な受動文、典型的な接続法II式、現在完了や過去完了を使った表現などなどを、原文を聞きとって、学生に配布する資料に原文と解説を載せたりして、とやろうとしたら、作業量はかなりのものとなる。ほんとうにそこまでして映画を見せる必要があるのだろうか。


ふと思い立って、Amazonで見たい映画のDVDを数本注文した。届いたDVDを見ながら、これはぜひ学生にも見せたいなあと思った。ちょうど自分が学部生で、ドイツ語が少しずつ分かるようになった頃に見た映画を、10数年ぶりに見なおしたら、何を言ってるのか分からなくてもドイツ語の映画を観る意味はあるんじゃないかと考えが変わってきた。


ドイツ映画では、当然のことながら俳優たちはドイツ語を話す。私の教え子の学生たち(農学部)は、ほとんど日本人教員の授業しか履修していない。彼らは生のドイツ人を見たことがあるだろうか。おそらくスポーツが好きな子ならブンデスリーガの試合を見たりはするだろう。しかしプレーヤーたちが話すドイツ語を聞く機会はほとんどないだろう。(ブンデスリーガの選手たちは国籍も様々だから、ドイツ語が公用語じゃないかもしれないし)もしかしたらかれらは私が授業中にかけるCDのネイティブスピーカーの声―登場人物は20前後の若者なのに、不自然に老け声だ―しか聞いたことがないのかもしれない。


そんな彼らにとって、ドイツ映画を観ることは意味があるだろう。少なくとも、ドイツ人がほんとうにドイツ語を話しているということを理解するだけでも。日本にいて日本語だけの世界で暮らしていると、ドイツ語も勉強のための言葉として学習するし、ドイツ人がドイツ語をいまも話して暮らしているという事実を忘れてしまいそうになる。難解なドイツ語を作ったドイツ人だって、我々と同じ人間だし、実際にドイツ語を使って生活をしているのだ、というまったく当たり前のことを確認するだけでも、映画を観る価値はある。私自身、大学1年生の冬に初めてドイツを訪れた時、だれもが本当にドイツ語を話しているということに大変なショックを受けたものだった。町や駅で響くドイツ語の音声的なイメージを受容したことは、その後の学習に弾みをつけるような体験になった。


彼らが何のためにドイツ語を学ぶのかは、それぞれ違っているだろうが、少なくとも単に勉強のための外国語としてだけでなく、実際に使われている言語として学ぶことももちろん必要だろう。映画を授業に取り入れて、それで文法事項や会話表現を理解させることもできればいいのだろうが、ドイツ語の説明などなしで、映画を観るだけでも、学生たちにとっては意味があるのではないだろうか。

2011年11月17日木曜日

人の話を聞くこと4(終)


聞く力の養成にむけて
 先日の授業は、学生たちに発表をしてもらった。各個人で統一テーマに関連する図書を一冊選び、内容と自分の考えをレジュメにまとめて報告するという形式である。(この発表が、のちに自分でテーマを決め、問を立ててレポートを書くことの足がかりとなる)ただひとりひとりが発表するのではなく、当然質疑応答もあるし、質問や意見をまとめるコメントシートも記入する。
 そこで見えたのは、彼らがそれぞれが提出した、各発表者についてのコメントは非常によく書けているのに、質疑応答がなかなかできないということだ。もちろん彼ら自身、こういう場で討論するということがほぼ初めてだろうから、質問の仕方が分からなかったり、自分の抱いた疑問が質問として妥当なのか自身が持てなかったりという事情もあっただろう。だから質問が出来なかったのは仕方がない。できるようになるのはまだ先の話だ。しかし、発表者へのコメントではみなしっかりと内容を咀嚼し、自分の関心・考えにひきつけた意見が書けていた。これはおそらく、1で書いた大学ナビという授業における、傾聴とノートテイクの訓練によって得られた成果だと考えられる。*
*大学ナビでは毎回教員の講義を聞いてノートを取り、講義の終わりに自分の意見をコメントする。さらに前期は、大学ナビでの講義を初年次演習で振り返り、グループ討論をして内容を報告しあうということも行なっていた。
 私がいまの学生たちにとって必要だと考える「聞く力」とは、何より人の言うことを理解して、自分の問題として考えた上で発言する力である。つまり表現することに向けての聞く力である。とすれば彼らが講義や友人の発表を聞き、ノートをとるまたは自分の意見をコメントとして書きだすことができているというのは、彼らにとっての大きな進歩ではないだろうか。
 聞く力とは、闇雲に傾聴することや、聞いたことをお経のようにアウトプットすることで培われるわけではない。そうではなく、私たちは、聞いたことをアウトプットするまでの段階に「疑問を持つ、自分の知識や経験から理解しようとつとめる、自分なりに内容を消化し、自分の言葉で反応する」という内的なプロセスを作動させているわけだが、聞く力とは、この内的なプロセスにおける豊かさや広がりなのではないだろうか。
 それゆえ、聞く力に恵まれた人―それは2で挙げた質問スキルの高い先生など―とは、幅広い知識とじっくり考えてきた経験を持ち、深く強靭な思考力を持った人ということが考えられる。それならば、聞く力とは、語彙と知識をたくさん吸収することによって高められるのだろうか。少なくとも単に教養や語彙力を付けさせるための講義だけでは不十分である。それらの知識がただ上から降り注ぐように与えられるだけでは大して意味が無い。そうではなく、彼らが学んだこと、聞いたことを、自らの内的なプロセスを通して、そこでの分かった・分からなかった両方の経験を踏まえて、自分の言葉で表現すること、そのことによってのみ、聞く力の土台となる自己の内部を豊かにすることはできないだろうし、人の話を聞くことの本質=聞いたことに応えることも可能になるのだ。加えて、この内的な傾聴と思考のプロセスを鍛えるためには、一人で講義を聞いて、思考し、コメントを書くだけでは不十分だ。自分の抱いた疑問や考えは、なるべくすぐにでも周囲の人と共有することが必要だ。なぜなら人に伝わる言葉を選ぶことや人に伝えるために言葉を尽くすことが、同時に聞く力を支える、自己の中の表現や語彙の豊かさを高めることにもなるからである。それゆえ、講義を聞くだけでなく、考えた上でグループディスカッションやグループ発表を行うことにも大きな意義があるのだと考えられる。
 以上のことをまとめると、聞く力とは、1)傾聴すること、2)内容をよく考え、理解し、自分の考えとつきあわせ、3)他者に聞いたこと、考えたことを伝え、4)他者の話を聞いて再び思考して、5)改めて自分の意見を述べるというサイクルの繰り返しによってより一層高めることができるのだといえよう。そしてそのために、初年次教育ではどのような授業方法が有効かということだが、私は対話を基盤においた授業を構想している。
 一つ目の段階として、グループディスカッション、そしてのちには個人発表と質疑応答というように進んでいくことが考えられよう。一人一人が、授業において提示された題材や問題に関して―「看護と倫理」の場合であれば、各ケーススタディの例題:脳死臓器移植は妥当なのだろうか?など―自分の考えを述べ合い、人の言ったことに触発されて、あるいは自分自身が上手く考えを表現できない、という挫折の経験を踏み台にして、人の意見を聞いてそれに応える、あるいは多くの意見を集約するといったグループディスカッションの経験が、聞く力、そして表現する力を養成する上で大変有効な方法ではないかと考えられる。

2011年11月15日火曜日

人の話を聞くこと3

前エントリ「人の話を聞くこと2」からつづく

こういうことを考えていたら、ちょうど京都新聞で、国語の授業にリスニングを取り入れる学校が増えているという記事が掲載されていた

国語の授業や学力テストで要点を聞き取る「リスニング」の実践が、京都の小中学校で広がっている。子どもたちが話を集中して聞き、要点を把握する 力が低下している、との危機感が背景にある。本年度から導入が始まった新学習指導要領では「聞く力」の向上が重要視されており、関心を集めそうだ。
八幡市の男山第三中は、始業前の10分間を活用した「メモ力」向上の学習を2年前に始めた。教師が新聞記事を読み上げ、生徒は注意深く聞きながらメモを取った。復興増税の記事では「賛成か反対か。その根拠は」と教師が質問した。
この学習を担当する辻村重子教諭(47)は「最初は読み上げた分をすべて書き取っていたが、慣れると何が重要かを判断できる。ほかの教科でも効率的にメモを取る習慣が付いた」と話す。
京都府教委は2003年度から、京都市教委は06年度から、小中学校で学力テストに国語のリスニングを導入。26日の府の一斉テストでも実施した。「東京 が最もよい。政治や経済の中心なので、多くのことを学びたい」「京都が一番よい。観光について学びたい」。宇治市の南宇治中では、スピーカーから流れる会 話に2年生約80人が耳を傾け、メモを取った。その後、東京、京都を支持する理由の正解を選んだ。
今春から小学校、来春から中学校で実施される新学習指導要領では、全教科で討論などの言語活動が盛り込まれ、これまで以上に「聞く力」の育成を重視している。
なぜ「聞く力」の育成が必要なのか。約15年前からリスニングを取り入れている修学院中(左京区)の礒谷義仁教諭(51)は「黒板の内容を写していても、実は頭に入っていない生徒が増えたため」と説明する。
9月の定期テストでは演歌「津軽海峡・冬景色」を生徒に聞かせ、「どこを旅したのか」「時間帯は」などと質問した。礒谷教諭は「インターネットが普及し、 人に聞かなくても調べられるようになった環境や、自分の興味のないことに無関心な傾向が要因ではないか。学校がコミュニケーション力を育まないといけな い」と強調する。
【 2011年10月31日 12時47分 】

この記事にあるように、確かに学生たちは、人の話を聞いて内容をすぐに理解したり、要点をメモしてまとめたりするのが苦手だ。メモを取る、要点をまとめる、そして議論する。どれも非常に大事な能力だ。できればこういう形で初等中等教育の段階で訓練を積んでおくのもいいだろう。
しかし大学生になってから、こういった聞き取りの勉強をするというのは、ちょっと難しい。というのも、大学での勉強は、技術であるべきではないからだ。
もちろん私自身、初年次教育の実践にたずさわっているので、日々「学ぶ技術」を探求し、教授している。レポートの書き方、ディスカッションやプレゼンの仕方などを教えているけど、ただ技術だけを教えているわけではない。書くことや話すことが、どのように日々の学習や今後の学びにつながるのかということを、なるべく学部での学習内容に引きつけて練習させるよう心がけている。だからどうしても、一方的に教材を投げて、聞き取り問題をやって聞く力をつけなさい、という方法は大学にはなじまないと思う。

ではどうしたらいいのか?改めて聞く力じたいについて考えなければならない。

2011年11月5日土曜日

カール・デュ・プレルの翻訳

シュレーバーという人物がじつに興味深いのは、彼自身がどの様な本を読んで、自分の思想をつくりだしていったのかを、しっかり明記しているという点である。


シュレーバーの『ある神経病者の回想録』第6章、注36には、彼がこれまでに何度も読み、影響を受けた作家とその著作が列挙されている。そこで挙げられているのは、カール・デュ・プレルの『宇宙の発達史』、エルンスト・ヘッケルの『自然創造史』、ヴィルヘルム・マイヤーの雑誌『天と地』、エドゥアルド・フォン・ハルトマンが『現代』誌に発表した論考などである。中でも幾度も言及されているのが、カール・デュ・プレルという人物の著作である。


カール・デュ・プレルは1839年にバイエルンの古都ランツフートで生まれ、哲学および法律を修めた後軍務に就き、1870年代以降は退役して、在野の研究者として活動した。デュ・プレルという名前は今日ではもはやすっかり忘却されてしまっている(日本でも専門の研究者はいないし、学術論文も皆無だ)が、19世紀末にはかなりの影響力を持っていたと考えられる。それは彼の代表的な著作、『心霊主義』がレクラム文庫の一冊として刊行されていたことや、夢研究の大著『神秘哲学』(1885)がフロイトの『夢解釈』において言及されていたことなどからもうかがい知ることができる。


デュ・プレルの関心は宇宙進化論から心霊主義まで幅広く、著作の数も多い。(『氷河の十字架』(1890)という長編小説もある。長くてまだ読めてないが)私としては今後デュ・プレルの心霊研究活動をより詳しく研究していこうと考えている。その第一歩として、彼の代表作であり、シュレーバーにも大きな影響を与えたと考えられる、『心霊主義』の一章「いかにして私は心霊主義者となったか」を訳出した。デュ・プレルの文章は非常に読みにくく、何度読んでも意味が分からない箇所や誤訳もあるかもしれないが、こういう形で一つでも資料を使える形にしておくことが、自分にとっても、この分野に関心をもつ人にとっても意味があるのではないかと考えている。




いかにして心霊主義者

2011年10月27日木曜日

人の話を聞くこと2


前のエントリからつづく 

これは考えてみれば、今教えている本務校の学生たちだけの問題ではない。たしかに彼らのほとんどは、AO入試のような学力試験を行わない選抜によって入ってきた。私が一浪して(大して勉強はできるようにならなかったけど)紫のジャージ着てラグビーばかりやってる大学に入ったように、彼らは受験勉強というものをほとんど経験していない。学生たちの学力が相対的に低いというのは仕方が無いが、問題はそういうことではない。

自分自身を省みても、学部時代・大学院時代そして今に至るまで、最も難しいのは、人の話を理解することだと痛感している。授業や学会発表・講演などでも、人が何を言っているのかちゃんと自分に引きつけて理解し、適宜質問をする、というのは本当に難しい。先日の学会でも、日頃親しくしている後輩や友人が発表するというのに、質問者がとくにいなかったので、何とか一つでも質問できないかと頭を捻ってみたが、うまく質問することができず申し訳ないことをしてしまった。

大学院に入った頃は、公開で行われる研究科の修士論文公聴会で、せっかく先輩たちの発表を聞きに行ったのに、ずっと聞いていても、いったいなんの話だかさっぱり理解できなかったのだ。その後も数年間は、公聴会に出ても、みんな難しいことやってるんだなあ、としか思えなかった。ドイツ文学関連の論文だけでなく、専門分野外(私の出身研究科は、学際系なので様々な言語・分野を扱う院生がいた)の話でも、だいたい面白い研究か、そうでもないかくらいがわかるようになったのは、博士課程に進んでずいぶんたってからのことだった。

最近でも、学会やドイツ人の先生による講演会などでは、なかなか内容を全部聞いて理解することは難しい。学会などで、優秀だな、と思う人というのは、発表者の話を聞いて、それに対する的確な批判をするだけでなく、聴衆から見て、別の角度から発表内容をまとめることができるような質問をする人だ。(つまり、「あなたのおっしゃるのは、〜〜これこれこういうことでしょうが云々〜」という質問。それを聞いて聴衆は、「うーんなるほど」となるわけだ)そのような人が持っている「聞く力」とは何なのだろうか。


人の話を聞くこと1

長いこと考えていたテーマについて、少しずつまとめていこうと思い、このエントリを書き始めた。思わず長くなってしまったので、いくつかに分けることにしたい。


大学ナビという授業がある。人文学部の全新入生の必修科目で、大講義室(300人くらい入る)でのリレー形式の講義科目だ。私自身は講義担当者ではないが、学生スタッフや教務職員だけでは、資料の配布や学生の誘導などにときどき手が足りないこともあり、運営を手伝いながら、毎週聴講している。


大学の教員というのは不思議な仕事で、 長いこと勉強をしているのに、肝心の授業のやり方については、特に教わったりしない。だからみな、自分が大学に入ってから受けてきた授業を元にして、自分の授業をつくっていくのだろうが、私のように長いこと大学院にいすぎると、もはや学部時代にどんなふうに授業を受けていたのかなんてきれいサッパリ忘れてしまっている。だから、大学ナビのような講義科目で、多くの教員の授業を聞くというのは、自分の勉強として非常に有益なのだ。


専任教員だからといって、だれもが上手な講義ができるわけではない。学生にとって、あまりに難しすぎたり、あるいは非常に聞き取りづらかったりする講義もときどきある。学生はだいたいつまらなそうにしているし、途中退席することも多い。私は面白い講義だけでなく、ダメな講義についても、何がダメなのか毎回ノートにメモを取って分析した。おかげで看護学校や京大での講義科目では、ずいぶん落ち着いて授業ができるようになった。


毎週講義を聞いて、(さらにその講義への感想として書かれた)学生のコメントなどを見ていて、学生にとって、最も難しいのは、自分の意見を述べることではなくて、むしろ人の話を聞くことなのではないかと思うようになった。日本の学生はしばしば、自ら発信できない、表現できないと言われる。しかし、彼らができないのは積極的に発言をするということではない。発言しようにも何も出てこないということ―講義のコメントカードで言えば、白紙ということ―自体が問題なのだ。すなわち、質問をするという以前に、人の話を聞くということが、彼らにとって難しいのである。





2011年10月25日火曜日

看護と倫理1第7回

看護学校付近の家の猫ちゃん
22日の土曜日に、第6回の講義を終えたばかりだが、月曜日には第7回の講義を済ませてきた。7回目は半分を講義内容のまとめ、もう半分が中間テストとなっている。そのため、講義らしい講義ではなかったのだが、前回のコメントまとめとテーマ学習の解題をするので、コメントカードを一日で全部読まなければならなかった。たいてい40人分のコメントを、2日くらいに分けて、すこしずつ読んでいるので、まとめて読むのはかなり大変だった。

授業後1週間なり2週間のあいだがあって、その間に私も学生たちも、じっくり考えをふくらませた上で、次の授業での振り返りを行うから意味があるのだが、今回は中1日しかなかったので、前回の自分の説明をもう一度少し言葉を変えて、繰り返すことしかできなかった。

テストについては、教科書の内容が同じなので、問題も変更のしようがなかったため、昨年作った問題を元に、少しだけ手直しして出題。テストが始まる直前に、レジュメに載せた、教科書のまとめを説明していたので、どの学生もちゃんとできていたようだ。

看護と倫理1はこれで修了。今後は4月から看護と倫理2が開講し、あと9回の講義をすることになる。学生たちとせっかく打ち解けてきたのに、もう終りというのは残念だけど、来年春にまた顔を合わせることになるので、その時を楽しみに待ちたい。
倫理1-7

2011年10月24日月曜日

看護と倫理1 第6回

10月23日、時代祭に出くわす。10年以上京都に住んでて初めて見た。
一年生向け看護と倫理は、今日が第6回目。全7回で、7回目はこれまでの授業の振り返りと中間テストなので、実質授業らしい授業は今回が最後。

テーマ学習は、昨年もとりあげた、核廃棄物などの処理と世代間倫理について。正直このテーマを取り上げることにはためらいがあった。もちろん福島での原発事故があったからだ。あのような決定的な事故が起こってしまった今、原子力発電という技術自体の是非を聞くのはもはやナンセンスだ。そうなると、設問全体を作り変えないといけないかもしれない。そんなことを考えていたのだが、時間がなくなってしまったので、原発事故が起ころうと起こるまいと、原子力発電をするうえでの大前提として、核廃棄物をどう処理し管理するかを考える、という設問にした。

後半の世代間倫理と世代内倫理の問題は、この半年何度も考えさせられた。子孫に良い環境を残すことは大切だが、現在における社会的な不平等や不便をそのまま放置することもできない。この問題は当然今後の原発問題についてもあてはまる。原発をやめよう!と決定したあとが大変なのだ。これまで原発で仕事をしてきた人、原発からのお金に頼ってきた自治体などはどうしたらいいのか。そもそも原発が作ってきた電気は、遠く東京や大都市で使うためのものだった。それで都会を離れた安全な場所を求めて、東北の僻地に建設したわけだ。そして今度はまた、原発は危険だからやめよう、という都会からの意見で、原発が廃止されることになるのだろうか。結局のところ原発が置かれている場所の人々は、お金を出し、作られた電気を使う、都会の人々の意見に従うことしかできないのではないか。

そのように考えると、原発に限らず、世代間倫理や環境問題といわれる諸問題には、都市と地方、帝国と植民地という地域的な格差の問題が強く影響しているということが分かる。

そこで私が、自分にとって身近な、ある種原発的な問題として思いついたのが、巨大ショッピングモールのことだった。実家のとなり町、佐野市にはイオンモールとプレミアムアウトレットモールが隣り合っていて、さらに巨大なコジマ電気も並立して、ある意味世界の中心のような状態である。日曜日にはお店にやってくるたくさんの車が列をなすし、新聞にはそれらショッピングモールの求人がたくさん入ってくる。一見巨大モールのおかげで、となり町や周辺市町村は活気が出て、潤っているかのように見えるが、本当にそうなのか。巨大モールが栄える一方、地元の商店街は瀕死状態だし、周辺市町村に以前からあった、スーパーも閑散としてきている。このままショッピングモールがあり続けたらどうなるのだろうか。あるいはさらに恐ろしいのは、ショッピングモールが、撤退してしまった場合だ。そうなったら、既にすっかり衰退してしまった町はどのように再生することができるのだろうか。

このような問題について学生にも意見を求め、自分自身にとって身近な別の例を考えてもらった。なかなか具体例は出なかったものの、やはり私自身が思ったように、地方から都市に出てきた学生の方が、都会と地方の格差という視点から考えることができていたと思った。

倫理1−6

2011年10月20日木曜日

シュレーバー研究2 光線としての言葉(2005年)

フレックシヒの脳解剖図
私たちは、日々さまざまな言葉に囲まれて暮らしている。インターネット上の記事を読み、漫画を読み、TVを見る、本を読む。自分の言葉を話したり、書いたりもする。私たちが言葉といったとき、それは書かれた文章も人の声も、自分の頭にある考えも、同時に表すことになる。ことばとは、私たちが生活する世界の、あらゆる場所に存在しているのだ。



例えばインターネットに接続したとき、ニュースや掲示板を見ると、様々な人のことばが溢れている。物事を伝える言葉だけでなく、人を攻めたりけなしたりする言葉も多い。極端な言い方をすれば、インターネットの中には悪意が溢れている。

分光器
私がこうしてMacBookを図書館で開いているとき、この画面上に現れてくるおびただしい量の言葉は、一体どこから送られてくるのだろう?そして私の周りで勉強している学生たちが考えている言葉は、いったいどこにあるのだろう。彼らの言葉はどこを通って、彼らの頭の中からノートの上へと筆記されるのだろうか。

もし、私が見ているサイトに表示される言葉の群れや、私の周りの人々の思念が、眼に見えるものであったらどうだろう?私たちの世界はどのように見えるのだろうか?漫画のように吹き出しが人の頭の上にぽこぽこ浮かんでる様子を思い浮かべる人もいるだろう。だが、人間の思考やインターネット上の言説のような高速で行き交う言葉を、漫画のような文字の形で捉えることは非常に困難だろう。だとすれば、もう文字としての形を失って、光の帯のように見えるのかもしれない。

じっさいに人の思考や言葉が光として目に見えるようになってしまったのが、シュレーバーという人物である。シュレーバーは、神からの声を光線として自らの身体に受容する。なぜ、彼は言葉を光線として捉えたのだろうか?その背景には、彼が生きていた時代状況が大きく関与していたと考えられる。この論文、「光線としての言葉あるいは可視化された世界―シュレーバーと自然科学と心霊学―」では、19世紀末ドイツにおいて人々の関心を集めた、大衆向けの自然科学や心霊科学の言説を手がかりに、人の思考が見える化、すなわち光線として捉えられる、というシュレーバーの思考と同時代の人々との接点を探った。
アクサーコフの心霊写真
この論文を書くにあたって、天文学や物理学など自然科学系の本をいくつか読んだし、明治期日本におけるヨーロッパの思想やオカルティズムの輸入、超心理学のはじまりなどについても調べた。まったく関係のない文献も含めて、かなりの数をそろえたが、このような多方面から証拠を集めるという方法は、その後の研究に大いに役立っている。このような方法を見出すきっかけになったのは、社会史・文化史系の研究会での発表だった。文学研究的な作家・作品論に固執していたら到底できなかっただろうと思う。私にさまざまな指摘を下さった先生方や仲間たちに感謝している。

(下のPDFが読みづらい(ウィンドウが上下に狭い)場合はページを再読み込みしてください。) 光線としての

ドイツ語第3回 なぜ学生はドイツ語を学ぶのか

ドイツ語第1回目のスライドより
京大1年生のドイツ語は今日が第三回。三時間目のクラスは現在完了。五時間目のクラスは、接続詞を使った副文について。どちらのクラスの学生も、理系の子たちだが、非常に真面目で熱心に勉強している。テストをしますよ、というとものすごい力を発揮するのは、京大生という生き物の本能(活動し始めるやいなや話さずにはいられないという光線の本性と同じようなものだ)だが、テストではないふだんの授業も、みんなちゃんと出席するし、練習もまじめにやる。


いったい彼らはどうしてこんなにちゃんとドイツ語を学ぶのだろうか。もちろん私だって、ドイツ語を教えるのは楽しいので、彼らが楽しめるような授業になるよう、いつも心を砕いている。だから私の授業にちゃんと出席していれば、それなりに楽しく勉強できるし、ドイツ語もそこそこできるようになるだろうとは思っている。だけど、そもそもなんで、彼らがドイツ語を勉強しているのだろうと考えると、わからなくなってくる。


大学の独文科に入ってから、10数年がすぎ、いやなことばかりだったけど、少しずつドイツ語が理解できるようになってきた。私自身は、陸の牢獄である栃木を離れて、広い世界を見たいと思っていたし、中学1年生のとき、新聞で見たベルリンの壁崩壊以来、ドイツという国に興味を持っていたので、ドイツ語を学ぶことにした。だけど、彼ら、農学部の学生たちはどうしてドイツ語を学んでいるのだろう?逆に言えば、将来もっとやる気のない学生たちを前にした時、私はどうやって、彼らのモティヴェーションを高めることができるのだろう?


いまや語学といえば、英語でことたりてしまう時代だが、それなのにどうしてドイツ語を学ぶのだろうか。学ぶことの意義とはなんだろうか。きっかけではなく、日々学習を続けていく中で感じられるような意義。おそらく学生たちの何人かは、純粋に知的な作業として楽しんでいるのだろうと思う。だけど、それ以上になにかドイツ語を学ぶ楽しさはあるのだろうか?先日読んだ学会誌に、ドイツ語教育の専門家である有名な先生が、ドイツ語学習の意義を学生に説明するとき、どうしても無理やり言いくるめるような言い方になってしまうと書いておられた。偉い専門家の先生でも、学生を納得させられるような答えが見つからないのだろうか。


この問題については今後時間をかけてじっくり考えたり、あるいは学生たちにアンケートをとってみたりしたい。

何かになるということ考

1999年秋、下高井戸の美並荘から引っ越しした日
勤め先の大学が、各業界で活躍する(クリエイティブな仕事をしている)卒業生へのインタビューをサイトに掲載している。彼ら卒業生が、自分のやりたいことや夢を実現できているというのはとても素晴らしいことだし、それが在学生や入学希望者に希望を与えるのかもしれない。だけど、なんだか違和感を覚えてしまう。


あのようなインタビューは、どこの大学でも「卒業生の声」とか「先輩からのメッセージ」のような形で掲載されているのだから、本務校が変だ、というわけではない。(別に職場を批判しているわけではありません。気にしないでくださいエラい人たち!)だが、現実問題、広告代理店とか雑誌の編集者とか、有名企業だとかいった仕事につけるのは、卒業生の100人に一人くらいでしかない。では残りの99人は何になるのだろうか?何にもなっていないのだろうか?


私が昨年卒業制作を手伝った女子学生は、正社員としての就職はせず、非正規雇用で販売員の仕事をしている。彼女は何にもなっていない、ということになるのだろうか?


大学で仕事をするようになってから、何かになるということについてよく考えるようになった。それは、自分が学生たちを見ながら、この子たちはどんな大人になっていくのだろうか、と思うことがしばしばあったからだ。この子たちは、10年後何をしているのだろうか、自分よりもずっと充実した人生を過ごしてくれればいいなあ、といつも思うのだ。だが、将来彼らは何になるのだろうか?と考えたとき、はたと疑問が湧いてきた。そもそも、何かになるとはどういうことなのか?自分自身も35歳になったけど、何かになれたのだろうか?


大学を出て(学部を卒業して)、10年以上が過ぎたが、これまで自分が何かになっていると思ったことは殆どなかった。それはもちろん、何か=仕事だと思っていたから、アルバイトをして研究を続ける大学院生は、「何か」になったことにはならないと思っていたのだ。数年前に今の仕事を見つけて、私はたしかに大学から給料をもらって生活できるようになったので、大学教員にはなれたのかもしれない。とはいえ、やっていることは院生時代とほとんど変わっていない。日々生活の糧を得るための仕事をして、余った時間に読書をして論文を書いたり、マラソンをしたりする。それだけだ。それだけで、けっこう充実している。


私に関して言えば、大学を出て10年ちょっとが過ぎて、大学教員という「何か」になったというわけではない。学問を続け、お金をかけないで楽しく暮らす方法を考え、なんとなく今のような「生活」をつくりあげてきただけだ。


私が最初に感じた違和とは何だったのだろう。おそらく、優秀でクリエイティブな職業についた、100人に一人の奇跡のような、先輩の体験談を、「学生たちの将来像」のモデルとして掲げることに対してだろう。たしかに優秀な彼らの勉強法や就活必勝法から学ぶことはあるだろう。大学としても良い宣伝になる。だけど、学生たちの大多数はそのような就職をしない。そうではなく、大きくない会社に勤めたり、実家で自営業をしたり、デキ婚したり、子供がどんどん増えたり、非正規雇用を転々としたりしながら、彼らなりの生き方をつくっていくはずだ。多くの学生たちにとって、大人になるとはどういうことだろう?社会に出るとはどういうことだろう?という疑問を今の生活にひきつけて考えていくためのヒントは、むしろ輝かしい勝者たる先輩たちではなくて、平凡な仕事をしながらでも、充実した日々を過ごしているたくさんの「ふつうの」卒業生たちの声なのではないだろうか。少なくとも自分が学生だったら、研究者として第一線で活躍してバリバリ活躍している先輩だけでなく(よりむしろ)、研究者にはならなかったけど、それなりに楽しく充実した暮らしを営んでいる先輩の声も聞いてみたいと思ったはずだ。「ふつうの」とか「なんでもない」とか言われる人たちの生き方にも、当然私たちが学ぶことは多いのだから。

シュレーバー研究1言葉をめぐるたたかい(2004年)

学部4年生の春(1999年)に、出たばかりの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の邦訳を夢中で読んで、卒論の指導教授に、こういう研究がしたい、と話したら、ちょうど先生も『Aufschreibesystem 1800-1900』を持っていて、ぜひ読んでみるよう勧めてくださったことをよく覚えている。卒論では、とくにキットラーの文献を使うことはなかったが、それから数年が過ぎて、いつの間にか"Aufschreibesystem"そのもの(すなわち元ネタであるシュレーバー『回想録』の用語、「筆記制度」)について考えることになるとは、奇妙なめぐり合わせである。
話は変わるが、これまで発表してきた論文の多くが、京大のレポジトリに登録されているので、このブログでも直接ファイルをアップして、多くの人に利用できるようにしておきたい。論文ファイルに加えて、内容の簡単な紹介も付け加えておく。

論文「言葉をめぐるたたかい―シュレーバーと雑音の世界―」は、京都大学大学院独文学研究室の雑誌『研究報告』第18号に掲載された。
そもそもこの論文に書かれている内容は、2004年春に提出した修士論文のうちの一章を元にしている。修士論文は全体で5章からなり、長さも400字詰め換算で300枚程度と、かなり長かったのだが、他の4章よりも自分としてはこの論文の元になった、第三章がもっとも気に入っていたし、書いていて楽しかった。だから内容を若干訂正して、一本の論文として投稿した。

この論文で主題となっているのは、シュレーバーにおける言葉と雑音の関係である。シュレーバーは、神との神経接続によって、ひっきりなしに神や魂たちの声を聴き続けなければならなくなってしまった。この外的なノイズと、それに対抗するために講じる、音楽を奏でたり詩を暗唱したりという行為から、シュレーバーにおける言葉(=意味を持った音声)と無意味な雑音との関係を考察している。シュレーバーは音楽を奏でるだけでなく、ジンフォニオンや自動ハーモニカのような自動演奏楽器も利用するのだが、音楽再生装置を使用することにより、意味を持った音楽と言葉の世界を離れ、雑音のカオスへと取り込まれることになる。シュレーバーは無意味な雑音(録音された音楽におけるノイズや、機械の動作音、鳥の鳴き声など)にも、人間の言葉を聞きとってしまう。そこに彼の病があるのだが、考えてみれば私達の世界にも、ノイズは溢れている。私たちが目にするインターネット上の言説や、テレビのコマーシャルもノイズだ。膨大な量のことばが、日々私達の周りを飛び交っているが、どうして私たちは、それらのノイズ的言説を、自分自身に向けられたものとして受けとめることがないのだろうか。いや、そうではない。無視しているつもりでも、私たちの言葉は、そのようなノイズによって侵食されている。自分が考えもしなかったことが、急に思いついたり、ふとテレビや新聞で見た出来事に、思考をかき乱されたりすることがあるだろう。シュレーバーの病であった、神経接続は、私達にとってもけっして他人ごとではない。私たちの思考や発する言葉は、つねに、どこかで誰かが言っていることだし、それ自体が発せられた瞬間に、ノイズと一体化して、私たちを取り巻く音や言葉の環境を構成するのではないだろうか。
↓以下のPDFファイルは、見づらい場合は再読み込み(リロード)すると、大きくて見やすいウィンドウが開くと思います。

言葉をめぐるたたかい

2011年10月17日月曜日

金沢。取り急ぎ写真のみ

独文学会で金沢大学に行ってきた。
金沢大学角間キャンパス。敷地内に谷がある。ずいぶん人里離れたところで驚く。京大吉田キャンパスですら、夜は犯罪が起こる。学会懇親会が終わったあと、キャンパスが真っ暗でとても恐ろしかった。学生たちが心配。

市内で見つけた停止のみの信号。
近江町市場のイベント、19日はウィンナー掴み取り!!

2011年10月13日木曜日

レーシック手術の思い出


近鉄新田辺駅前、一休さんの像

術後一年が過ぎたので、レーシック手術を受けた当時のことやその後の経過についてまとめておきたい。

今の職場に就職した時、少ないながらもボーナスが貰えるということで、最初に思いついたのが、レーシック手術を受けることだった。もちろん本来であれば、奨学金という借金の返済に充てるとか、両親に温泉旅行をプレゼントするとか、将来に備えて蓄えるだとか、ちゃんとした使いみちを考えるべきだったのだろうが、当時の私にとっては、ドライアイと頭痛が日常生活の中でいちばんしんどいことだったのだ。結局最初の夏ボーナスは、発売されたばかりのMacBook Proを衝動買いして吹っ飛んでしまった。そこで昨年夏に、こんどこそということで、ボーナスを使って手術をうけることにした。


手術を受けたいと思っていても、なかなか踏み切れなかった理由の一つに、―もちろん手術の安全性とか料金体系とか、さんざん悩んだことはたしかだがいまは措いておく―、手術を受ける前にしばらく裸眼で過ごさなければならないということがあった。日頃外出するときはハードレンズをつけていたし、ジョギングや自転車が趣味なので、どうしてもメガネをかけてすごすというのはイヤだった。しかしながら、8月初めに京都の奥のほうに自転車で行ったときに、目にゴミが入って、痛みに悶絶したあげくレンズを落として無くしかけたことで、もう手術を受けるほかはない、と決意を固めた。お盆過ぎから8月末まで、メガネ着用で過ごし、9月初旬に安淵眼科で診察を受けることにした。


診察を受けに行った日は、かなり日差しの強い暑い日だった。一時間ほど待って、診察を受け、瞳孔が開く目薬をさされたりした。この目薬のせいで、帰りは視界がまぶしすぎて、なかばムスカみたいな状態で目を押さえてふらふらしつつ帰宅した。


一度目の診察の際に、手術の予約をするのだが、ちょうどすぐ翌日に受けられることになった。事前に調べてみたところでは、1〜2週間またされるかもしれない、ということだったので、看護学校や大学の新学期が始まってしまうことを心配していたのだが、早く受けられるならそれに越したことはないということで、検査の翌日に手術ということになった。

手術の当日は緊張などほとんどなかった。というのもちょうど〆切が迫っている原稿に追われていたから、それどころではなかったのだ。それ以上に、こんな時期に手術を受けてしまったら、原稿の仕上げやら校正やらの作業が滞ってしまうのではないかということが心配でしょうがなかった。

京田辺の医院についたのは手術の一時間以上前だった。待合室は検査の時と同様にたくさんの人がいた。ひとりずつ診察室に呼ばれ、30分後くらいに保護メガネをつけて出てくる。つぎからつぎへとレーシック手術を受けていたのだ。待合室においてあったモーニングを全て読み終わる頃、ようやく順番が回ってきて、診察室に通された。ここで何種類かの目薬や麻酔薬を刺された。目を閉じてソファに座っていると、だんだん薬が効いているのか目の周りがもやもやとしてくる。ちょうど抜歯の際の麻酔のようだった。10分ほど待って、手術室に入り、手術台に座らされた。看護師さんが手際よく目の周りにあれこれ処置を施す。目が閉じないようにまぶたを固定され、あれよあれよという間に頭が固定された。先生が目に光を当てながら、「動かないでね、動かないでねー」と連呼しつつ、眼球に何らかの器具をあてる。すると視界が一瞬暗くなり、つぎに水の中にいるみたいに見えた。おそらくこのとき角膜が切開されたのだろう。その後つよい光線が当てられ、ちょっと焦げ臭い臭がして、ふたたびさっき切開した角膜を先生がへらのようなものでぺたぺたくっつけた。これで片目が完了。つぎに同じ手順でもう一方の目にも処置が施された。その間私は、看護師さんが手渡したゴムボールをぎゅっと握りしめていた。痛くはなかったが、やはり恐ろしかった。眼球が切開された瞬間のことは今思い出してもぞくぞくする。その日病院を出ると、既に暗くなり始めていた。防護メガネ越しにも、視力が良くなったことはわかったが、まだ視界が安定していないし、家に帰ると少しずつ麻酔が切れて目がちくちくと痛んできた。精神的にダメージを負った感じがして、その晩は早く眠った。

手術翌日の自分撮り。目が腫れている。しかし本当は
防護メガネが合ってなくて目よりも頭が痛かった。
 手術翌日から一週間目くらいは、眼球にソフトレンズが張り付いているような違和感が残って、エアコンの風が直接当たるときなどに、不安を覚えたが、とにかく視力は飛躍的に上がった。一眼レフのカメラで撮った写真の鮮やかさに驚くように、私は自分の肉眼で見える景色に驚いた。これまで生活していた世界が、こんなに細部まできっちり見えるということに感動していた。

一週間が過ぎ、ふつうにシャワーを浴びたり運動したりできるようになった。もうこの頃には手術前と同じように眼球を動かすことができた。目薬も病院で言われたとおりに点眼していたので、何も心配はなかったのだが、手術から3週間後に、左目が真っ赤に腫れ上がった。最初はドライアイかと思い、もらった目薬を多めに注していたのだが、一晩たったら頭痛もしてきたので、眼科に駆け込んだ。レーシック手術による感染症を危惧したが、ウィルス性結膜炎だということがわかった。病名がわかって少し安心したが、結膜炎はけっこう厄介で、左目の腫れがひくのに一週間かかったと思ったら、さらに右目も腫れてしまい、治るのに二週間くらいかかった。

しかしその後は特にトラブルもなく、12月の3ヶ月後検査でも、右1.5,左1.2という視力だった。それからさらに半年以上過ぎた現在でも、たぶん両目の視力はほとんど変わっていないと思う。私自身は、手術をうけてほんとうによかったと思ってるし、手術のおかげで生活の幅が広がったと痛感している。とはいえレーシック手術によるトラブルは多いし、何年も過ぎた後に現れる症状などは、まだ予想がつかない。だからなかなか他人にすすめるわけにはいかないのだろうが、少なくとも私は何年か後にふたたび視力が下がってしまうとしても、手術を受けたことは後悔しないだろうと思う。

2011年10月10日月曜日

看護と倫理1第5回

全7回の授業で、今回が5回目。毎回準備がものすごく大変なので、とにかく残り回数が少なくなることがうれしい。


今回は、教科書で基本的人権について解説。その後テーマ学習として、情報と倫理について事例を上げてディスカッション。レジュメを見ていただけば分かるだろうが、前回の自由と自由主義の話は思いの外、うまく伝わっていなかったように思う。授業時間中は、それなりにいい話し合いができて、うまくいったかなあ、と思うのだが、コメントカードを見ると残念な結果に終わる、ということはよくある。今回はどうなのだろうか。たぶん授業準備で一番時間がかかるのは、コメントカードへの返答とプリントにまとめて、補足説明を考える作業だ。毎回それだけで数時間かかってしまう。学生にとっても、自分にとっても必要な作業なのだろうが、仕事の負担としてはなかなか大きいものだ。


倫理1−5

2011年10月9日日曜日

泉大津だんじり祭


9月の岸和田に続いて、今週末は泉大津のだんじり祭を見てきた。岸和田に比べて規模は小さいが、町の人たちのエネルギーは変わらず。だんじりを近くで眺められるのもよかった。

2011年10月7日金曜日

夢遊の人々

ロマン的なるもの研究会(2010年4月24日)で、ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』について発表した際のレジュメを掲載します。ブロッホのこの作品は、かつて夢中になって読んだ本なのです。この読書会は、メンバーが自由に課題図書を決めて発表する形式です。私はおもに、ドイツ文学の気になる作品を取り上げています。2007年はメーテルリンク『死後の生存』―ドイツじゃないけど―、2009年にはトーマス・マン『ブッデンブローク家』について発表しました。


文庫本で上下二巻にもなる長大な作品なので、内容を把握するだけでもけっこう手間がかかりました。一度じっくり読んだつもりが、改めて読むとさっぱりわからない箇所があったり。今回は全体のながれと、幾つかのキーワードごとに、この小説のポイントになる部分をまとめたり、人物相関図を作ってみたりしました。特に時間をかけてがんばったのが、第三部の人物相関図です。本当はもう少し内容に踏み込んだ発表ができたらいいのですが、それは次の課題として考えておきたいと思いました。

夢遊の人々レジュメ

久多の松上げ

昨日は樒原のことをかいたので、今日は同じ京都の奥地、久多のことを紹介したい。
久多(くた)は、左京区北端の集落。国道367号線で、八瀬・大原を抜け、一度滋賀県大津市の葛川集落を通って、ふたたび京都市に入り、川沿いに小さな集落が見えてくる。それが久多である。

久多では、毎年8月23日あたりに松上げという祭りが行われる。10mくらいの柱の上に、杉の葉を束ねたもの(傘)が載せられ、それをめがけて下から紐のついた松明をぐるぐる回して放り投げる。杉の束に火がついて、柱が炎に包まれて終わり、というのがお祭りの流れだ。今年は生憎の雨で、杉の葉に火がつきにくく、一時間たっても炎が上がることはなく、結局最後は柱を解体して、焚き火で燃やすことになってしまったが、それでも幻想的で美しい祭りだと思った。

2011年10月6日木曜日

樒原



樒原というのは、右京区の北西端にある小さな集落。しきみがはらと読む。嵐山から清滝方面へ進んで、八丁峠から保津峡に抜け、さらにそこから山を登って、水尾の集落と神明峠を越えるとようやくたどりつける。山間の狭い平地に家が密集していて、谷へとつづく斜面には、棚田が広がっている。この日(7月半ばごろ)は自転車で行ったが、車を使っても市内からは1時間近くかかるのだろう。とても不便な場所だ。しかしながら、こんな小さな集落におそらく数百年も前から、ずっと人が暮らしてきたのだということに驚かされる。

2011年10月5日水曜日

ベルンで考えたこと

写真を貼ったりしないと、ブログのデザイン的になんだか寂しい雰囲気になってしまうと思ったので、これまで旅行に出かけた場所のこと、特に気に入った街のことなどを書こうと思う。


写真はスイス・ベルンの旧市街にある時計塔。ベルン市旧市街は世界遺産に登録されている。昨年末にフランスを訪れた際に、これまでドイツ語圏だけどスイスには行ったことがなかったので、行くことにした。なぜベルンに行こうと思ったのかは、よく覚えていない。おそらくウィキペディア等で写真を目にして、心惹かれたのだろう。あとはパウル・クレー、アドルフ・ヴェルフリ、ヴァルター・ベンヤミンなど関心のある人物にゆかりのある町だからだろうか。


2010年〜11年の年末年始は、欧州がとんでもない寒さで、パリも13年前に訪れた時とはまったく異なる寒さだった。ドイツでは、列車がストップするほどの積雪だったらしい。"Winter, Weihnachten, Wahnsinn!!!" という見出しをスポーツ新聞で見た。スイスに入国した2011年1月1日は、もうだいぶ寒波は和らいでいて、いちおう日本でも東北地方で経験したことがあるくらいの寒さだった。


それまでフランス語ばかりのパリにいたので、ドイツ語が町の至る所に書いてあるベルンの町は、とにかくさまざまな情報が視覚的に理解できるのでありがたかった。ドイツ語会話はぜんぜん得意ではないが、とりあえず旅行くらいで困ることはなかろうという自負はあった。しかし驚いたことにスイスでは私のドイツ語はちっとも通じなかった。ベルンでの一日目は少しショックだったのだが、ホテルで女将さんが、他のお客さんと電話で話しているのを聞いて、ハッとした。彼女が話している言葉が、さっぱり理解できなかったのだ。言葉の端々に出てくる前置詞や分離動詞の前綴りなどで、おそらくドイツ語だとはわかるのだが、少なくとも私が知っているドイツ語ではない。これがスイスドイツ語なのか。東京外大が開発した会話教材を見て、いちおうどんなものかは知っていたが、実際に耳にするのは初めてだった。電話が終わると、女将さんは私の方ににっこり笑って、即座に「わかりやすいドイツ語」で話しかけた。当然のことながら、彼女たちスイスの人は、標準ドイツ語と自分たちのスイスドイツ語とを、きっちり使い分けているのだ。


ベルンにいて、最初に奇異な感じがしたのは、美術館や博物館、ホテルやデパートなどに行っても、こちらが口を開かない限り、係や店員が あいさつをすることはないのだ。彼らは来客の挨拶によって、言語のスイッチを切り替えているのだ。女将さんの電話を見て、最初に抱いた奇異な感じが何だか理解できた。そして、彼らに私のドイツ語があまり通じない理由も推測できた。おそらく彼らの多くは、英語・仏語・独語・伊語そしてスイス語などで会話することができるのだろう。だが、そうやって多言語を使い分けるがゆえに、それぞれの言語を聞き取る際の、幅というかストライクゾーンというか、つまりドイツ語として受容できる範囲が、ドイツのドイツ語話者よりも狭いのではないだろうか。ドイツ人は外国人労働者や旅行者の下手なドイツ語を聞き慣れている。しかしスイスの人々はそこまで各言語に通じているわけではないのかもしれない。未だに推測の範囲をでないが、そんなことをベルンで考えた。

スイスにおける方言については、今後ももっと詳しく勉強したいと思っている。

看護と倫理1第4回

前回のテーマ学習では、動物と人間の関係について様々な意見が寄せられました。なかでも重要だな、と思ったのが、死刑囚を人体実験の被験者にすればいい、という意見。これについてはどうしても賛成することができないので、どうしていけないのかを、刑罰の意味にまでさかのぼって説明しました。

今回のテーマは、自由と自由主義です。サンデル先生の本からディスカッションのネタを拝借しました。お金の話なので、自由のはなしとの連続性がわかりにくいかな、と思ってまとめの時間にかなり説明を補いました。

倫理1-4

2011年10月4日火曜日

看護と倫理1第3回

看護と倫理三回目の授業資料です。

前回とりあげたエンハンスメントというテーマは、ピストリウス選手のハイテク義足のような現代的、あるいはさらに未来の問題のように思いがちですが、実はかなり古くからこのような議論や問題提起は繰り返されています。

看護と倫理とは関係なく、自分が専門的に勉強してきた、19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパ文化においても、人間とは何か、技術と人間、人間はどこまで発達できるか、どのように新しい人間となるのか、といった問題は多くの知識人、市民の関心を集めていました。

たとえば先日のエントリで言及したデュ・プレルは、人間は死んでしまえば物質的な身体は失ってしまうが、 物質ではない霊的な存在である「アストラル体」となって、死後の世界―決して生の世界と分断されているわけではない―でさらなる発展を遂げると考えていました。デュ・プレルにおけるさらなる発展のイメージは、彼が生きた時代のテクノロジーへの希望が色濃く反映されているのではないかと考えられます。


授業時に学生からもらったコメントでは、性別適合手術はエンハンスメントなのか?治療なのか?という問いもありました。これも非常に興味深い問題です。とりあえず知っていることや調べられることを集めて、治療とは何かという話を補足しておきました。
第3回目のテーマ学習は、動物実験と動物の権利を取り上げました。動物実験の実情を説明すると、動物かわいそう、実験やめよう、という感情的な反応ばかりになってしまうので、動物の権利を考えるということは、逆に何が人間なのかを考えることにつながるという話をして、前回のテーマとの連続性を強調しておきました。

倫理1-3

看護と倫理1第2回

第2回目は、1回目に集めたコメントカードから、代表的な意見や興味深い意見を集めて、「前回のコメントまとめ」として提示し、前回の振り返りから始めました。
それから教科書のまとめ、さらに今回のテーマ学習であるエンハンスメントについて、ちょうど世界陸上で活躍していた、ピストリウス選手の義足を例に、みんなに話しあってもらいました。(授業日は2011年9月10日です)





倫理1-2  

看護と倫理1第1回

堺看護専門学校での授業、看護と倫理のレジュメを掲載します。
看護と倫理は、1年生で7回、2年生で9回の講義となっています。
この回は全体を通じての第一回目となるので、倫理的な問題をどう考えるかという問題提起として、自分にとっては一番こだわりがある脳死臓器移植をどう考えるかという問いについて、みんなに意見を出し、クラス内で意見交換をしてもらいました。



倫理1-1

2011年10月3日月曜日

カール・デュ・プレルにおける科学技術と心霊研究


 カール・デュ・プレルについての発表要旨、および発表当日に配布したレジュメです。


 カール・デュ・プレル18391899は、世紀転換期ドイツにおいて、哲学者そして心霊現象の研究者として活躍した人物である。近年Pytlik2005Kaiser2008など、デュ・プレルの生涯と思想についての研究が進められ、多くの書籍が復刊されつつある。思想家としてのデュ・プレルの大きな特徴は、心霊研究だけでなく、文学や哲学から宇宙進化論にまで至る関心領域の広さである。
 デュ・プレルと、後の時代を代表し、今日もよく知られるシュタイナーやベサントといったオカルティストとの相違は、その自然科学的方法論に対する態度にあるといえる。後者が個人の経験を出発点とした、ある種の物語的な神秘主義的世界観を展開したのに対し、デュ・プレルの方法論は大きく異なっている。ずさんな面は大いにあったが、彼が依拠したのはあくまで実験と観察であった。人間の目だけでなく、カメラや電気的な装置をつかった、催眠や夢遊状態、そして交霊術の実験は、デュ・プレルの他、ドイツでは物理学者ツェルナーや精神医学者シュレンク=ノッツィング、そしてイギリスではマイヤーズやクルックスのような自然科学者たちによって行われてきた。実験的にオカルト現象を解明しようとした人々は、そこから何を見いだそうとしたのか。魂や精神活動の物理的な把握、あるいは霊魂の実在を確かめること、などが考えられるが、デュ・プレルにおける中心的な問題は、進化を続ける宇宙の中での人間の発展可能性という点であった。  
 デュ・プレルは、最も影響を受けた思想としてダーウィンの進化論、ショーペンハウアーおよびエドゥアルト・フォン・ハルトマンの哲学、そしてエルンスト・カップの技術の哲学を挙げている。カップの技術の哲学とは、器官投射説として知られている。すなわち人間のつくる道具は、身体の代用、延長として発生し、さらに身体を補強し発展させるものとなるという考えである。デュ・プレルにおける心霊研究への関心と、技術の哲学とは、人間の発展可能性という点において結びつく。デュ・プレルは、催眠術や動物磁気による(または宗教的奇跡としての)空中浮揚現象について言及し、カップの器官投射説を引きながら、将来における人間の飛行可能性を夢想している。
 本発表では、これまでほとんど論じられることのなかった思想家であるデュ・プレルをとりあげ、彼の哲学的・心理学的探求と宇宙進化論や技術の哲学を参照した人間の発展可能性という問題意識について、同時代の思想との関連を明らかにする。

日本独文学会秋季研究発表会2009年10月。予稿集より。
当日配布したレジュメは以下。

デュ・プレル発表レジュメ
デュ・プレルスライド

フレンチ食べてきた

京都大学時計台下のレストランラトゥールで、フランス料理のコースを食べてきた。
写真はメインの牛肉ステーキの京野菜添え。万願寺とうがらしがおいしかった。

フランス料理を食べに行くと、牛肉がよく出てくる。昨年末にフランス・スイス・ドイツを二週間くらい旅行したが、パリでは何度も固くて食べにくい牛肉を食べた。まずくはないんだが、固いし量が多いのでなかなか食べ終わらず、完食すると胃が重くなる。大晦日には、―たぶん牛肉以外のものが原因だと思うんだけど―かなりひどい吐き気と腹痛で寝込んで、それ以来、砂肝のコンフィと牛肉にはなんかちょっと苦手意識を持つようになってしまった。だけど、昨晩出てきた和牛はとても柔らかくて食べやすかった。こういう料理を食べると安心する。

2011年10月2日日曜日

ロボット野口

夏休みに栃木の実家に帰省した際に、車の運転の練習も兼ねて、会津に行ってきました。福島といえば、いまは被災地のイメージがあまりに強いのですが、私にとっての福島は何より会津若松であり、磐梯山であり、猪苗代湖です。
猪苗代湖畔の野口記念館には、野口英世の生家がそのまま移築されています。英世が落ちた囲炉裏も、そのとき母親が洗濯をしていた井戸も(いろりから井戸のあいだがけっこう近い)、当時の農具も展示してあります。
記念館の展示室には、野口英世の著作や持ち物があるのですが、フロアの一角に、機械じかけの野口人形がいました。ボタンを押すと、手や顔を動かしていきいきとしゃべります。