2012年3月23日金曜日

京都マラソンに思うこと

3月11日の日曜日に、第1回京都マラソンが開催された。
スタート地点は我が家からも程近い西京極の競技場。桂川から嵐山を経て、
広沢池、きぬかけの路を通って、金閣寺を迂回して上賀茂へ。そこから下鴨、鴨川沿い、
今出川・東大路を行ったりきたりして、岡崎平安神宮前でゴール、というコース。

3年前まではハーフマラソンが開催されていたが、規模を大きくしてリニューアルした
とのことだった。京都シティハーフのスタートは平安神宮で、当時の自宅からほど近かった
ので、3年前に出場した。当時も参加者が多すぎるな、と思ったし、ハーフとしては
参加費がかなり高額だと思った。たぶん5000円〜6000円くらい?ハーフなら相場は
2000〜4000円台までだ。田舎の小規模な大会であれば、4000円くらいのフルマラソンもある。

これだけ参加料を徴収しておいて、運営は赤字になっていたらしいので、こういう大都市で
道を塞ぐのにどれだけお金がかかるのかということが窺える。
それで、フルマラソン化した今回は、被災地への義援金も含めて参加料は15000円。
バカ高い。そして参加者も1万4,000人弱集めている。東京マラソンは3万人くらいが走った
らしいが、1万人を超えるマラソンというのは、そうとう広い会場でないとできない。
スタート地点の西京極陸上競技場では、スタート開始から数分たっても競技場内にすら
入れない人がいたそうだ。西京極駅は、ホームから人が落ちたり、階段で将棋倒しになったりしかねないほどの混雑だったという。

私は自宅から近い広沢池で、トップ選手から30分くらい応援していたが、帰ろうとしているときに、ランナーが路上に溜まっているのを見た。怪我人でも出たかと思ったが、交通整理の係の人が、緊急車両の通過だとか言ってランナーを止めていたのだ。救急車も消防車もまったく近くには見えなかった。それほど近づいてもいない車のために、ランナーが止められるなどということがマラソン大会でありうるのか?と不審に思った。

翌日ランナーズに投稿された大会の完走レポートで、やはりランナーが止められていたのは、緊急車両の通過のためなどではなく、運営側が、道路が混雑しすぎてしまうので交通整理のために行ったことだったと分かった。広沢池の手前で交通整理ということは、山越一条の交差点からの上り坂、および音戸山から下って福王寺の交差点手前の坂、というすぐ後に続く狭い道の区間があるからだろう。もちろん危険を避けるために、交通整理をするのは必要だ。だが、そもそも参加者には、途中で止められることがあるということについて説明がなかったというし、止めなければならないほど狭い道を使ったり、大人数を走らせたりすることが大きな問題ではないだろうか。

そう、簡単に言ってしまえば、京都のちいさな盆地では、フルマラソンのコースをとることは非常に困難なのだ。もちろん数十人が走る駅伝のコースくらいなら、交通規制の負担も小さいのでぜんぜん問題ない。だが、1万人を超える人が数時間にわたって走り続けるような大会で、すくなくとも京都市の中心部を通るコースを作るのは、相当に無理がある。
ランナーズのレポートでも、コースを見直すべきという意見が多かった。

そこで海外では、どのように大都市型マラソンのコースを作っているのか、いくつかのマラソン大会のコースを見てみた。ドイツでは、毎週のように都市型マラソンが開催されている。BMW主催のフランクフルトマラソンは、前半がゲーテハウスやザクセンハウゼンなど旧市街の名所、後半がフランクフルト方面(市内西部)という感じだが、前半15kmのコースがあまりに複雑。おそらく旧市街周辺に大きな道路(バイパスなど)がありそこを封鎖するわけには行かないから、中心街を何度も往復することにしたのだろう。一方おなじBMW主催のベルリンマラソンは、ブランデンブルク門をスタートし、Mitte北部をぐるっと回って、Kreuzberg, Steglitz, Zehlendorfと市内南西部を通って、ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門にゴール、というコース。一度も同じ所を通らずに、しかもベルリン中心部の半分くらいしか通過していないのに、ちゃんと42km取れている。自分で行った時にも、東京よりはるかに大きな町だとわかってたけど、改めてベルリンの大きさに驚かされる。

もし京都でもっと安全で快適なマラソンコースを作るとしたらどうしたらいいだろうか?市内中心部を使うことは諦めて、上賀茂から市原を越えて岩倉あたりまで行くコースを考えてみたが、これもやはり実現困難だろう。


2012年3月19日月曜日

人生経験値


35年も生きてくると、達成できたことだけでなく、
当然のことながらまだできていないことがたくさんある。
穂村弘氏が著作のなかで、星取表みたいに列挙していたのがおもしろかったので
ちょっとやってみようと思う。

思いつき次第、少しずつ更新して項目を増やしていく予定。
凡例:◯=経験済み、☓=未経験、△=微妙、◎=大いに

☆人生経験
結婚 ◯
同棲 △(一時的な居候のみ)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
浪人 ◯
留年 ◯
停学 ☓
退学 ◯(単位取得退学)
不登校 △(修士課程で不登校気味に)
皆勤賞 △(精勤ならあったかも)
車にはねられる ☓
バイクで転倒 ◯
線路に落ちる ☓
犬に噛まれる ◯
雪山で滑落 ◯
救助隊に助けられる ◯(怪我してないけど、スキーブーツ破損して滑走不能になったので)
海で溺れる ☓
遭難 ☓
難破 ☓
骨折 ☓
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯


☆資格・仕事系
普通自動車免許 ◯
普通自動二輪 ◯
英検 ◯
調理師 ☓
教員免許 ☓
修士号 ◯
博士号 △(たぶんこれから)
海外学位 ☓
代表取締役 ☓
正社員 ☓
ボーナス ◯
昇給 ◯
卒業式で花束 ◯
雇い止め △(学科が募集停止になった)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)

☆身体的
激ヤセ ◯
インフルエンザ ☓
40度の高熱 ☓
鼻血 ◎
水虫 ◯
成長痛 ☓
痔 ☓
ぎっくり腰 ☓
近眼 ◯
視力矯正手術 ◯
差し歯 ◯
血尿 ◯
出産 ☓
献血 ◯

☆旅
ひとり旅 ◎
野宿 ☓
5つ星 ☓
ドミトリー ◯
テント泊 ◯
ヨーロッパ ◯
ハワイ ☓
沖縄 ◯
北海道 ◯
ウユニ塩湖 ☓
ニューヨーク ☓
中国 △
ロシア △
つくば万博 ◯
花博 ☓
とちぎ博 ☓
愛地球博 ☓
富士山 ☓
比叡山 ◯
足尾銅山 ◯

☆輝かしい経験
ホームラン ◯
ハットトリック ☓
一本勝ち ◯
サービスエース ☓(サーブ苦手)
マラソン完走 ◯
バスケットのシュート ☓(入ったことない)
タイブレーク ☓(テニスの公式戦勝ったことない)
逆上がり ◯
はやぶさ飛び ◯(たぶんできた)
一輪車 ◯(これも30年以上やってない)
テストで100点 ◯

☆食べ物等
しもつかれ ◎
フォアグラ ◯
からすみ ◯
ほや ◯
うに ◯
フランス料理、コース ◯
タイ米 ◯
ドリアン ◯
ドラゴンフルーツ ◯
ざざむし ☓
イナゴ ◯
蜂の子 ☓
甘いしょうゆ ☓
伊勢うどん ◯
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)


こうやって書きだしてみるといろんな項目があっておもしろい。
今回これを書きだしたのは、じつはバスケットボールでシュートが入ったことが一度もないのを、ふと思いだしたからだった。


2012年3月17日土曜日

1982年、500円玉と新幹線(2)

小学校にあがる前
4歳年下のいとこと
ここからは、2007年秋に書いていた日記から。


日ごろ論文検索に使っているCINIIやMAGAZINEPLUSで検索すると 
500円硬貨について、いくつかの雑誌記事がひっかかった。 
(予想していたことだが、学術論文はまったく見つからなかった。) 
夕方図書館でコピーしたのが、1984年に「朝日ジャーナル」8月31日号に掲載された、 
「日常からの疑問18 シリーズ・こんなものいらない!?500円硬貨」と題された記事である。 

1984年といえばロサンゼルスオリンピックのころ。私が覚えてる一番古いオリンピックだ。 
500円硬貨の登場は82年の4月。ということは登場からすでに一年半も経過したあと 
ということになる。執筆者は朝日ジャーナル記者の宮本貢というひと。 
ちなみにこの雑誌の同じ号には「現代の若者のカリスマ」というグラフ記事で 
村上龍(当時32歳)が取り上げられている。 

この記事での主張を簡単にまとめると、このところ500円玉が出回るようになったが、 
どうにも使いにくくてなるべく早く手放したくてしょうがない、これはけっして作者だけの 
感覚ではなく、わりと世の中に広く共有されているものである、といったところ。 

ではなぜ宮本は、500円玉を忌避するのだろうか。 
主だった理由としては、必要ないということ、重すぎること、札のほうが管理しやすいこと 
などを三和銀行のアンケート結果とともに列挙している。 

この、500円玉が「重い」という印象は現在の私たちにとって違和感を覚えるところではないか。 
たしかに私が初めて父から500円玉をもらったときには、なにか宝物のような、 
優勝のメダルのようなものを手にしたかのような、ずっしりとしたカタマリという印象を 
抱いた。それは私がまだ6歳の幼児だったからかもしれないとも思っていたのだが、 
この記事を見る限りは、大人にとっても500円玉の大きさや重さはなにやら奇妙な 
ものだったのだろう。 

それから500円玉が必要ない、使いにくいという感覚もよくわからない。 
私の場合、500円玉を使う場面といえば、たばこを買うときのことを思い出す。 
いまはやめてしまったけど、喫煙者だったころには、たいていいつも500円玉を 
投入していたはずだ。 
なぜなら、ちょっと前までたばこは200円台後半という中途半端な額だったし、 
1000円札を入れるとおつりが大量に出てきて困ったりもしたからだ。


また、たばこでなくても、ジュースやお茶などを買う際にも、500円玉ならたいていのものが買えるし、10円玉や100円玉を何種類も小銭入れに入れておかなくてもいいので便利だ。 

だが、このような感覚は、500円玉を基準にした物価体系の中に生きているからこそ 
成り立ちうるものだということを忘れてはならない。 
記事から1984年当時の物価水準を想像することは難しいが、調べたところによると 
このころのたばこ一箱の値段は200円前後。(私が見たデータではハイライトの値段が、 
83年から84年にかけて、170円から200円に上がったことになっている。ということは、 
いまのたばこもそうであるように、84年当時でも、200円以下の銘柄だってあったかも 
しれないということだ。) 
コーラやファンタなどは確か消費税導入まではどこでも100円ちょうどだった。 
ということは、たばこにせよ、ジュースにせよ、100円玉を数枚用意しておけば 
ことたりるわけで、なにも重たい500円玉をジャラジャラさせておく必要はないのだ。 

さらに記事の中でも触れられているように、84年の11月に新紙幣(夏目漱石の 
1000円札)が登場することになっていたため、500円玉に対応する自販機の導入が 
遅れていたという事情も関係している。 

それゆえ、記者が述べるように、ちょうどこの時期500円玉は自販機でつかえないし、 
たばこやジュースを買うにはやや額面が大きすぎる、ちょっと使いづらい硬貨として 
認識されていたということなのだろう。 

ずいぶん長くなったのでいったんまとめておこう。 
東北新幹線(1984年開通)とともに私の幼年時代の記憶として刻まれている500円玉の 
印象だが、その重さやスペシャル感というのは、大人社会においては違和感や拒絶感 
として受け入れられていた。そして大人たちが500円玉を手にしたときの、何となく決まり悪い 
思いは、それがモノの価値が大きく変動する時代の入り口にたっていたことを意味している。
それまでの100円玉数枚を中心としていたモノの価値体系は、おそらく82年の500円玉導入、 
および新札の発行、そして89年の消費税のスタートによって決定的に、500円玉を中心とする 
体系へとシフトしていったと考えられよう。 

そしておそらく私たちにとって、現在の物価もいまだ500円硬貨を一つの単位とする 
価値の体系をそのままにとどめているといえるのではないだろうか。  

1982年、500円玉と新幹線(1)

2009年に今の職場に入って、最初に初年次演習の授業でやったプログラムが、「自分史年表」をつくる、というものだった。彼らが生まれた1990年から現在までのさまざまな社会の出来事や、自分にとって重要だった出来事を、新聞や資料で調べながらまとめるという課題だった。

私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
落下傘花火を拾ってきた私。
何歳だったのか分からない。

それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。

ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。


さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。

新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。


2012年3月16日金曜日

私たちはどうやって水を飲んでいたのか

かつてmixiに書いた(2010,7,3)文章がけっこう面白いので、こっちに載せておこうと思う。

夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。 
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。 

ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。 


伏見、御香宮神社。名水をペットボトルに汲む人
ローソンのバックルームはとても狭くて、夜勤の時はイスに座って壁に もたれかかるくらいしか休むすべがなかった。店でもベテランの兄さんは、 狭い狭いバックルーム(というより冷蔵庫裏の通路)に、広げたダンボール を敷いて、むりやりに横になっていた。 

いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。 

夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。 

しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。 

そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。 

和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。 

大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。 

その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが) 

京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。 

いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。 

さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。 

もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。 

ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。 

『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。

2012年3月7日水曜日

大人は消しゴムを使わない

本やコピーにメモを取りながら読むことがある。
メモをとるときは原則的にシャープペンシルで書く。ノートに自分の考えを書くときは、多色ペンを使う。多色ペンは、考えたことを書き足すのに便利だからだ。はじめに黒いインクで思いついたことを書き、つぎに調べて分かったことを青インクで書く。さらに考えてみてわかってきたことを緑、論文にする際に修正するべき点を赤、という具合に(べつに色ごとに用途を分けているわけではないが)書いている。
それで、なぜ本への書き込みは鉛筆かというと、あとで読みなおすときに邪魔だったら消してしまえるようにという配慮だ。なんども繰り返して読む文献は、消したメモもたくさん書きこまれている。

普段消しゴムを使うのは、この、不要なメモを消すときだけだ。だから月に数回程度しか使わない。ペンケースに入っている消しゴムを見てみたが、おそらくこれは10年近く使っているんじゃないだろうか。

このPlusのAIR-INという消しゴムに出会ったのは、たしか中学生3年の頃、関東進学予備校という名前ばかり偉そうなほぼ個人塾に通っていた時期だったはずだ。予備校の先生は基本的に一人だけ、独特の容姿だったため生徒たちにはコジキとか鳥の巣と呼ばれていた。塾長は髪の薄いバブル紳士のような中年で、コジキ先生がいない場合は、ときどき英語を教えてくれた。事務員などいないので、塾に電話がかかってくると先生は授業を中断して通話することになる。それでバブル先生は当時普及し始めた携帯電話を教室に持ち込んでいて、一度だけ先生がトイレに行った隙に、友人たちと携帯電話に触ってみたことがあった。アンテナがびよんびよんしてておかしかったのと、意外な重さでうぉっと声が出かけた。

予備校の教室の一階には事務用品と画材の店があって、そこで誰か友人が見つけてきたのだ。この消しゴムを見つけたのはたしか同じ中学から来ていたO野くんだったと思う。彼は数学が得意で、難関高校の入試問題を集めた『佐藤の数学』という問題集も教えてくれた。なぜか数学以外の科目のできがいまいちで同じ高校にはいけなかったが、浪人中にはいっしょに予備校に通っていて、たしか東京農工大学に合格したはずだ。O野くんから借りたAIR-IN消しゴムを使って、その軽い消し心地(こういう表現でいいのか?)がすっかり気に入った私は、すぐに教室の下の文具屋に走ったのだ。

あのころ、自分にとって消しゴムは文房具の中心にあったはずだ。なぜ、いつの間に、それはこんなにも周辺に追いやられてしまったのだろうか。大学生になったら、もう消しゴムなど使わなくなったのだろうか。そんなことを考えながら非常勤の授業の合間に大学図書館を訪れると、学生がたくさんいる。たくさんの学生たちが、消しゴムカスにまみれて勉強している。空いている机に文献を広げたところで、机の上が消しクズだらけでげんなりしたことが何度もある。

京大の学生はよく消しゴムを使う。たぶん大多数の図書館で勉強している学生たちは、数学や物理の問題を解いているからだろう(京大の学生はほとんど理系の学部に属している。図書館にいるような子はほぼ工学部・理学部・農学部そして法学部の学生だ)。数学や物理の勉強は、書いた答えを消しては直すが、外国文学の勉強で答えを消したり直したりすることはほとんどないのだろうから。

なぜ、急に消しゴムのことなどを書いているのかといえば、下のような記事を読んだからだ。専業非常勤講師は自宅か大学の図書館にしか居場所がない。非常勤講師控え室は弁当を食べ、コピーを取る場所であって、教材を作ったり自分の勉強をしたりする場所ではない。大学図書館に行けば、消しゴムまみれで数式を解く学生たちの間でなんともきまりの悪い思いをせざるを得ない。もう少し待遇がよくならないかと思う。


<はたらく>低収入で待遇不十分 大学の非常勤講師

「研究室」である自宅の机でパソコンに向かう非常勤講師の男性。仕事関係の出費は自腹が多い=関西地方で
写真
「大学の非常勤講師の窮状を知ってほしい」。こんな声が生活部に届いた。大学教育を支えているのに、生活を満足に支えられない収入に甘んじ、厚生年金をはじめ社会保険にも十分に加入できない。授業中の講義室以外に大学に居場所もなく、常に雇い止めの不安を抱える不安定な立場だという。 (稲田雅文)
「学生も先生が週一度のパート労働者だと思っていないと思います。実情を話すわけにもいかない」。関西地方でフランス語やフランス文学を教える非常勤講師の五十代男性は自嘲気味に話す。
男性は関西の公立と私立の三大学で九十分間の授業をそれぞれ一週間に二コマ、計六コマを受け持っている。報酬は一コマ当たり月二万五千円、一回の授業だと六千円を上回る程度。あとは交通費が出るだけだ。年収は二百万円に届かず、上がる見込みもない。
大学には講師控室があるのみ。じっくり作業できる場所はなく、自宅が「研究室」になっている。いつでも学生の質問に答えたいが、授業後に講義室に残って対応するしかない。
一人暮らしに必要な経費を切り詰めて、研究のため必要なフランス語の本を月一万円ほど買うほか、教材にするためフランスのテレビ放送を視聴する経費もかかっている。働くため欠かせないパソコンやネット接続費用などもすべて自腹だ。
国民年金保険料は納めているものの、国民健康保険料は「毎月払ったら生活できない」。過去に借りた奨学金の返済も求められており、話し合いで月五千円ずつ返済している。
専任教員を目指し、募集があれば何度も応募したが採用されなかった。フランス語教員自体の需要が減っており、いつ雇い止めになるかも不安だ。「フランスの文化を普及させようと思う使命感だけが支え。ボランティア活動と思っています」と男性。「まだ自分はまし。今は大学院の定員が増え、若い世代は非常勤講師の口も少なく、警備員や家庭教師などをしてしのいでいる」と語る。
「大学の授業の半分は非常勤講師が支えている。今の賃金では暮らしていけず、労働時間を授業時間の四倍にみなすべきです」と語るのは、首都圏大学非常勤講師組合の志田昇書記長。教員は一回の授業の準備で三時間程度の時間を費やしているほか、試験の採点時間なども必要だが、労働時間として考慮されていないためだ。
同組合や関西圏大学非常勤講師組合などが実施した二〇〇七年の調査では、事例の男性のような専業の非常勤講師五百七十二人の年収の平均は三百六万円。平均で週九コマ担当している。研究と教育のバランスが取れる適正な数は週五コマとされ、生活のために授業を詰め込んでいる現状が浮かび上がる。
この調査で、専任教員との待遇差も歴然と出ている。常勤の職を得ていて、アルバイトで非常勤講師を担う人の場合、年収の平均は八百七十二万円で、倍以上を稼ぐ。
「一コマ月五万円を」という組合の要求で報酬を上げた大学もある。しかし、深刻なのは、雇われている人が入る被用者保険に入れないことだ。特に厚生年金の場合、現在は一つの職場で週に三十時間程度以上働くことが適用の条件となっているため、複数の大学から報酬を得ている非常勤講師の働き方では、まず加入できない。
志田書記長は「少額の報酬でも事業所に厚生年金の保険料を負担させ、複数の事業所の保険料を合算する仕組みが必要だ」と制度改正を求めている。
東京新聞2012年3月2日より

2012年3月6日火曜日

毎年春は何をしていたか?

毎日毎日机に向かって、かつてまとめた原稿をひっくり返したり、コピペしたり、書きなおしたりしながら論文を書き進めている。こういう日々を送りながら思うのは、かつてこの文章を書いていた頃、自分は何をしていたのか?ということだ。

もちろんもう35年も生きていると、かつてのことを振り返るのは半ば日々の習慣みたいなものだが、とりわけ年度末の3月に入ると、去年は、おととしは、と過去の自分を振り返りたくなる。

大学院に入ってから、教員となった今でも、年始に授業が終われば、あとはわりと自由な時間である。雑務に追われたり、会議があったり、課題を出せない子のケアをしたり、次年度の新入生のための行事があったりしたが、それでも学期中よりはずっと暇な時期だ。もちろん「暇な」時期にはだらだら過ごしていていいわけではない。研究を進めなければならない。そこで、去年の春は、一体どんなことをしていたのだろうと考え始めるわけである。

かつてのアパートでの自転車分解作業。ワンルーム
にしては広い台所は、自転車いじりにちょうどよかった。
2011年3月:太秦の新居が決まり、新生活の準備をしていた。2月末のマラソン大会以後、足の調子が悪くなったので、自転車のカスタムにはまり、3月後半はコンポーネント(変速機・駆動系)を全交換したりしていた。3月上旬には、論文を書き進めようと、資料探しを再開し、3月11日には大阪府立中央図書館に行って、カール・デュ・プレルの1869年に発表された論文のコピーをとっていた。

2010年3月:現在の職場に就職して1年が過ぎ、2年目に向けた仕事に励んでいた。職場から出張旅費が出るので、地元の研究発表会や、山形大学での講演会にも出かけていた。沖縄に初めて出かけて、初マラソンを走ったのも、この年の3月初めのことだった。たぶん春休みのあいだじゅう沖縄土産をすこしずつ食べて、南国気分に浸りきっていたと思う。論文を書くつもりだったと思うが、ほとんど何もしていなかった。あ、あとお見合いをしたのもこの年の3月だった。早まって結婚しなくてよかった。

2009年3月:この年の2月半ばに、今の職場に採用されることが決まった。うれしくてしばらくは酒浸りで過ごした。仕事がどうなるかにかかわらず、この年度いっぱいで大学院を退学するつもりだったので、1月末に学割料金で教習所に入り、2月・3月は空いた時間をほとんど教習所で過ごした。二輪免許を持っていたので学科教習は受けなくてもよかったが、車に乗るだけでもけっこう時間がかかるものだと思った。多くの人は、教習所で精神的につらい思いをするというが、それはいつもできないことを習うからだ。はじめから、「今はできないが、来週にはきっとできるようになる」と思っていれば、指導員さんに何を言われようと、運転がヘタだろうとまったく気にすることはない。10年近く前に通っていたバイクの教習で、このことに気づいていたから、車に乗るのは難しいとは思ったが、苦ではなかった。結局4月の仕事始めまでに免許は取れず、4月半ばの卒業検定までは、大学の仕事とかけもちだった。

2008年3月:この年は、2月末しめきりの論文を書いていた。今使っているiMacを買ったのが、2008年の夏だから、あのとき書いた論文は、先代のVAIOで書いた最後の論文だったということになる。2月いっぱい論文書きにせいを出して、3月は、友人たちとの研究会が行う、公開シンポジウムに向けて準備を進めていた。フロイトの『夢解釈』とカール・デュ・プレルの夢理論を比較する、という発表をしたが、内容はいまひとつ。

2007年3月:この年も春休みに論文を書いていた。2005年から読み始めたカール・デュ・プレルの文献を使って、デュ・プレルの無意識と創作についての理論をまとめた論文を書いた。内容的にはまだまだほとんど何も言っていないような論文でしかないが、前例のない研究ができてそれなりに満足していた。まさかその後5年経ってもまだデュ・プレルの文章に苦しめられているとはこの当時は予想だにしていなかっただろう。論文をかきながら、気晴らしとして楽天市場で注文した、きのこ栽培セットを育てるのが楽しかった。4月初めには、しいたけが全盛期を迎え、桜の開花よりもしいたけの収穫に興奮したものだ。

こうして書きだすと毎年それなりに充実した春を過ごしていたことがわかる。今年は博士論文を提出する。そして今いる職場を退職する。(任期切れ)だから、というわけではないだろうが、ここ数年の区切りというかまとめができれば、と思っている。

2012年3月5日月曜日

文献表づくり2

論文を少しずつ、かつ急ピッチで書き続けている。
そして気がすすまないときは、文献表作りに励んでいる。
作り始めたときはかなり面倒な作業だと思っていたが、だんだんエクセルのデータが増えるに従い、あんまり文献表の頁ばかり増えるのもまずいのではないかと思えてきた。
手元に友人や先輩や妻の博士論文があるので、いくつか紐解いてみた。どの論文にも共通しているのは、欧文・和文の区別、一次文献と二次文献の区別などの要素である。それはまあ、当然だが、大量の文献を使っている論文だと、分野ごと(〜関係、第〜章に関連する文献などのように)に分けたものや、著者名のアルファベット順に小見出しを付けて分けたりするケースもある。私の場合そこまでする必要はたぶんなさそうだ。


文献表だけでなく、できれば用語についての解説や、索引も入れたい。シュレーバーの「回想録」に出てくる用語は非常に独特で、本文中にある程度説明はするが、どこかでまとめて読めるようにまとめるのもいいんじゃないかと思ったからだ。(というより、修士論文公聴会の資料にシュレーバー用語集を入れたら、副査の先生から、これは論文の巻末につけるべきだったのでは、と言われたので)。索引をつけるとすれば、索引に挙げるべき語を選ばなくてはならない。これはけっこう時間と手間がかかる。論文の提出には間に合わないかもしれない。


文献表にせよ、索引にせよ、論文の中身とはあまり関係がないようにも思える。だけど、自分でも他人の論文や著作を読むときには、まず注と文献表を―単行本の場合は索引も―見るのが習慣になっている。だから自分の論文でも、こういう瑣末な部分に拘ってしまう。脚注に細かい事実や発見を盛り込むのも楽しい。


こんなことをやってるうちに、また一週間位あっという間に過ぎてしまう。しめきりはもうすぐそこまで来ている。