2011年10月27日木曜日

人の話を聞くこと2


前のエントリからつづく 

これは考えてみれば、今教えている本務校の学生たちだけの問題ではない。たしかに彼らのほとんどは、AO入試のような学力試験を行わない選抜によって入ってきた。私が一浪して(大して勉強はできるようにならなかったけど)紫のジャージ着てラグビーばかりやってる大学に入ったように、彼らは受験勉強というものをほとんど経験していない。学生たちの学力が相対的に低いというのは仕方が無いが、問題はそういうことではない。

自分自身を省みても、学部時代・大学院時代そして今に至るまで、最も難しいのは、人の話を理解することだと痛感している。授業や学会発表・講演などでも、人が何を言っているのかちゃんと自分に引きつけて理解し、適宜質問をする、というのは本当に難しい。先日の学会でも、日頃親しくしている後輩や友人が発表するというのに、質問者がとくにいなかったので、何とか一つでも質問できないかと頭を捻ってみたが、うまく質問することができず申し訳ないことをしてしまった。

大学院に入った頃は、公開で行われる研究科の修士論文公聴会で、せっかく先輩たちの発表を聞きに行ったのに、ずっと聞いていても、いったいなんの話だかさっぱり理解できなかったのだ。その後も数年間は、公聴会に出ても、みんな難しいことやってるんだなあ、としか思えなかった。ドイツ文学関連の論文だけでなく、専門分野外(私の出身研究科は、学際系なので様々な言語・分野を扱う院生がいた)の話でも、だいたい面白い研究か、そうでもないかくらいがわかるようになったのは、博士課程に進んでずいぶんたってからのことだった。

最近でも、学会やドイツ人の先生による講演会などでは、なかなか内容を全部聞いて理解することは難しい。学会などで、優秀だな、と思う人というのは、発表者の話を聞いて、それに対する的確な批判をするだけでなく、聴衆から見て、別の角度から発表内容をまとめることができるような質問をする人だ。(つまり、「あなたのおっしゃるのは、〜〜これこれこういうことでしょうが云々〜」という質問。それを聞いて聴衆は、「うーんなるほど」となるわけだ)そのような人が持っている「聞く力」とは何なのだろうか。


人の話を聞くこと2


前のエントリからつづく 

これは考えてみれば、今教えている本務校の学生たちだけの問題ではない。たしかに彼らのほとんどは、AO入試のような学力試験を行わない選抜によって入ってきた。私が一浪して(大して勉強はできるようにならなかったけど)紫のジャージ着てラグビーばかりやってる大学に入ったように、彼らは受験勉強というものをほとんど経験していない。学生たちの学力が相対的に低いというのは仕方が無いが、問題はそういうことではない。

自分自身を省みても、学部時代・大学院時代そして今に至るまで、最も難しいのは、人の話を理解することだと痛感している。授業や学会発表・講演などでも、人が何を言っているのかちゃんと自分に引きつけて理解し、適宜質問をする、というのは本当に難しい。先日の学会でも、日頃親しくしている後輩や友人が発表するというのに、質問者がとくにいなかったので、何とか一つでも質問できないかと頭を捻ってみたが、うまく質問することができず申し訳ないことをしてしまった。

大学院に入った頃は、公開で行われる研究科の修士論文公聴会で、せっかく先輩たちの発表を聞きに行ったのに、ずっと聞いていても、いったいなんの話だかさっぱり理解できなかったのだ。その後も数年間は、公聴会に出ても、みんな難しいことやってるんだなあ、としか思えなかった。ドイツ文学関連の論文だけでなく、専門分野外(私の出身研究科は、学際系なので様々な言語・分野を扱う院生がいた)の話でも、だいたい面白い研究か、そうでもないかくらいがわかるようになったのは、博士課程に進んでずいぶんたってからのことだった。

最近でも、学会やドイツ人の先生による講演会などでは、なかなか内容を全部聞いて理解することは難しい。学会などで、優秀だな、と思う人というのは、発表者の話を聞いて、それに対する的確な批判をするだけでなく、聴衆から見て、別の角度から発表内容をまとめることができるような質問をする人だ。(つまり、「あなたのおっしゃるのは、〜〜これこれこういうことでしょうが云々〜」という質問。それを聞いて聴衆は、「うーんなるほど」となるわけだ)そのような人が持っている「聞く力」とは何なのだろうか。


人の話を聞くこと1

長いこと考えていたテーマについて、少しずつまとめていこうと思い、このエントリを書き始めた。思わず長くなってしまったので、いくつかに分けることにしたい。


大学ナビという授業がある。人文学部の全新入生の必修科目で、大講義室(300人くらい入る)でのリレー形式の講義科目だ。私自身は講義担当者ではないが、学生スタッフや教務職員だけでは、資料の配布や学生の誘導などにときどき手が足りないこともあり、運営を手伝いながら、毎週聴講している。


大学の教員というのは不思議な仕事で、 長いこと勉強をしているのに、肝心の授業のやり方については、特に教わったりしない。だからみな、自分が大学に入ってから受けてきた授業を元にして、自分の授業をつくっていくのだろうが、私のように長いこと大学院にいすぎると、もはや学部時代にどんなふうに授業を受けていたのかなんてきれいサッパリ忘れてしまっている。だから、大学ナビのような講義科目で、多くの教員の授業を聞くというのは、自分の勉強として非常に有益なのだ。


専任教員だからといって、だれもが上手な講義ができるわけではない。学生にとって、あまりに難しすぎたり、あるいは非常に聞き取りづらかったりする講義もときどきある。学生はだいたいつまらなそうにしているし、途中退席することも多い。私は面白い講義だけでなく、ダメな講義についても、何がダメなのか毎回ノートにメモを取って分析した。おかげで看護学校や京大での講義科目では、ずいぶん落ち着いて授業ができるようになった。


毎週講義を聞いて、(さらにその講義への感想として書かれた)学生のコメントなどを見ていて、学生にとって、最も難しいのは、自分の意見を述べることではなくて、むしろ人の話を聞くことなのではないかと思うようになった。日本の学生はしばしば、自ら発信できない、表現できないと言われる。しかし、彼らができないのは積極的に発言をするということではない。発言しようにも何も出てこないということ―講義のコメントカードで言えば、白紙ということ―自体が問題なのだ。すなわち、質問をするという以前に、人の話を聞くということが、彼らにとって難しいのである。





人の話を聞くこと1

長いこと考えていたテーマについて、少しずつまとめていこうと思い、このエントリを書き始めた。思わず長くなってしまったので、いくつかに分けることにしたい。


大学ナビという授業がある。人文学部の全新入生の必修科目で、大講義室(300人くらい入る)でのリレー形式の講義科目だ。私自身は講義担当者ではないが、学生スタッフや教務職員だけでは、資料の配布や学生の誘導などにときどき手が足りないこともあり、運営を手伝いながら、毎週聴講している。


大学の教員というのは不思議な仕事で、 長いこと勉強をしているのに、肝心の授業のやり方については、特に教わったりしない。だからみな、自分が大学に入ってから受けてきた授業を元にして、自分の授業をつくっていくのだろうが、私のように長いこと大学院にいすぎると、もはや学部時代にどんなふうに授業を受けていたのかなんてきれいサッパリ忘れてしまっている。だから、大学ナビのような講義科目で、多くの教員の授業を聞くというのは、自分の勉強として非常に有益なのだ。


専任教員だからといって、だれもが上手な講義ができるわけではない。学生にとって、あまりに難しすぎたり、あるいは非常に聞き取りづらかったりする講義もときどきある。学生はだいたいつまらなそうにしているし、途中退席することも多い。私は面白い講義だけでなく、ダメな講義についても、何がダメなのか毎回ノートにメモを取って分析した。おかげで看護学校や京大での講義科目では、ずいぶん落ち着いて授業ができるようになった。


毎週講義を聞いて、(さらにその講義への感想として書かれた)学生のコメントなどを見ていて、学生にとって、最も難しいのは、自分の意見を述べることではなくて、むしろ人の話を聞くことなのではないかと思うようになった。日本の学生はしばしば、自ら発信できない、表現できないと言われる。しかし、彼らができないのは積極的に発言をするということではない。発言しようにも何も出てこないということ―講義のコメントカードで言えば、白紙ということ―自体が問題なのだ。すなわち、質問をするという以前に、人の話を聞くということが、彼らにとって難しいのである。





2011年10月25日火曜日

看護と倫理1第7回

看護学校付近の家の猫ちゃん
22日の土曜日に、第6回の講義を終えたばかりだが、月曜日には第7回の講義を済ませてきた。7回目は半分を講義内容のまとめ、もう半分が中間テストとなっている。そのため、講義らしい講義ではなかったのだが、前回のコメントまとめとテーマ学習の解題をするので、コメントカードを一日で全部読まなければならなかった。たいてい40人分のコメントを、2日くらいに分けて、すこしずつ読んでいるので、まとめて読むのはかなり大変だった。

授業後1週間なり2週間のあいだがあって、その間に私も学生たちも、じっくり考えをふくらませた上で、次の授業での振り返りを行うから意味があるのだが、今回は中1日しかなかったので、前回の自分の説明をもう一度少し言葉を変えて、繰り返すことしかできなかった。

テストについては、教科書の内容が同じなので、問題も変更のしようがなかったため、昨年作った問題を元に、少しだけ手直しして出題。テストが始まる直前に、レジュメに載せた、教科書のまとめを説明していたので、どの学生もちゃんとできていたようだ。

看護と倫理1はこれで修了。今後は4月から看護と倫理2が開講し、あと9回の講義をすることになる。学生たちとせっかく打ち解けてきたのに、もう終りというのは残念だけど、来年春にまた顔を合わせることになるので、その時を楽しみに待ちたい。
倫理1-7

看護と倫理1第7回

看護学校付近の家の猫ちゃん
22日の土曜日に、第6回の講義を終えたばかりだが、月曜日には第7回の講義を済ませてきた。7回目は半分を講義内容のまとめ、もう半分が中間テストとなっている。そのため、講義らしい講義ではなかったのだが、前回のコメントまとめとテーマ学習の解題をするので、コメントカードを一日で全部読まなければならなかった。たいてい40人分のコメントを、2日くらいに分けて、すこしずつ読んでいるので、まとめて読むのはかなり大変だった。

授業後1週間なり2週間のあいだがあって、その間に私も学生たちも、じっくり考えをふくらませた上で、次の授業での振り返りを行うから意味があるのだが、今回は中1日しかなかったので、前回の自分の説明をもう一度少し言葉を変えて、繰り返すことしかできなかった。

テストについては、教科書の内容が同じなので、問題も変更のしようがなかったため、昨年作った問題を元に、少しだけ手直しして出題。テストが始まる直前に、レジュメに載せた、教科書のまとめを説明していたので、どの学生もちゃんとできていたようだ。

看護と倫理1はこれで修了。今後は4月から看護と倫理2が開講し、あと9回の講義をすることになる。学生たちとせっかく打ち解けてきたのに、もう終りというのは残念だけど、来年春にまた顔を合わせることになるので、その時を楽しみに待ちたい。
倫理1-7

2011年10月24日月曜日

看護と倫理1 第6回

10月23日、時代祭に出くわす。10年以上京都に住んでて初めて見た。
一年生向け看護と倫理は、今日が第6回目。全7回で、7回目はこれまでの授業の振り返りと中間テストなので、実質授業らしい授業は今回が最後。

テーマ学習は、昨年もとりあげた、核廃棄物などの処理と世代間倫理について。正直このテーマを取り上げることにはためらいがあった。もちろん福島での原発事故があったからだ。あのような決定的な事故が起こってしまった今、原子力発電という技術自体の是非を聞くのはもはやナンセンスだ。そうなると、設問全体を作り変えないといけないかもしれない。そんなことを考えていたのだが、時間がなくなってしまったので、原発事故が起ころうと起こるまいと、原子力発電をするうえでの大前提として、核廃棄物をどう処理し管理するかを考える、という設問にした。

後半の世代間倫理と世代内倫理の問題は、この半年何度も考えさせられた。子孫に良い環境を残すことは大切だが、現在における社会的な不平等や不便をそのまま放置することもできない。この問題は当然今後の原発問題についてもあてはまる。原発をやめよう!と決定したあとが大変なのだ。これまで原発で仕事をしてきた人、原発からのお金に頼ってきた自治体などはどうしたらいいのか。そもそも原発が作ってきた電気は、遠く東京や大都市で使うためのものだった。それで都会を離れた安全な場所を求めて、東北の僻地に建設したわけだ。そして今度はまた、原発は危険だからやめよう、という都会からの意見で、原発が廃止されることになるのだろうか。結局のところ原発が置かれている場所の人々は、お金を出し、作られた電気を使う、都会の人々の意見に従うことしかできないのではないか。

そのように考えると、原発に限らず、世代間倫理や環境問題といわれる諸問題には、都市と地方、帝国と植民地という地域的な格差の問題が強く影響しているということが分かる。

そこで私が、自分にとって身近な、ある種原発的な問題として思いついたのが、巨大ショッピングモールのことだった。実家のとなり町、佐野市にはイオンモールとプレミアムアウトレットモールが隣り合っていて、さらに巨大なコジマ電気も並立して、ある意味世界の中心のような状態である。日曜日にはお店にやってくるたくさんの車が列をなすし、新聞にはそれらショッピングモールの求人がたくさん入ってくる。一見巨大モールのおかげで、となり町や周辺市町村は活気が出て、潤っているかのように見えるが、本当にそうなのか。巨大モールが栄える一方、地元の商店街は瀕死状態だし、周辺市町村に以前からあった、スーパーも閑散としてきている。このままショッピングモールがあり続けたらどうなるのだろうか。あるいはさらに恐ろしいのは、ショッピングモールが、撤退してしまった場合だ。そうなったら、既にすっかり衰退してしまった町はどのように再生することができるのだろうか。

このような問題について学生にも意見を求め、自分自身にとって身近な別の例を考えてもらった。なかなか具体例は出なかったものの、やはり私自身が思ったように、地方から都市に出てきた学生の方が、都会と地方の格差という視点から考えることができていたと思った。

倫理1−6

看護と倫理1 第6回

10月23日、時代祭に出くわす。10年以上京都に住んでて初めて見た。
一年生向け看護と倫理は、今日が第6回目。全7回で、7回目はこれまでの授業の振り返りと中間テストなので、実質授業らしい授業は今回が最後。

テーマ学習は、昨年もとりあげた、核廃棄物などの処理と世代間倫理について。正直このテーマを取り上げることにはためらいがあった。もちろん福島での原発事故があったからだ。あのような決定的な事故が起こってしまった今、原子力発電という技術自体の是非を聞くのはもはやナンセンスだ。そうなると、設問全体を作り変えないといけないかもしれない。そんなことを考えていたのだが、時間がなくなってしまったので、原発事故が起ころうと起こるまいと、原子力発電をするうえでの大前提として、核廃棄物をどう処理し管理するかを考える、という設問にした。

後半の世代間倫理と世代内倫理の問題は、この半年何度も考えさせられた。子孫に良い環境を残すことは大切だが、現在における社会的な不平等や不便をそのまま放置することもできない。この問題は当然今後の原発問題についてもあてはまる。原発をやめよう!と決定したあとが大変なのだ。これまで原発で仕事をしてきた人、原発からのお金に頼ってきた自治体などはどうしたらいいのか。そもそも原発が作ってきた電気は、遠く東京や大都市で使うためのものだった。それで都会を離れた安全な場所を求めて、東北の僻地に建設したわけだ。そして今度はまた、原発は危険だからやめよう、という都会からの意見で、原発が廃止されることになるのだろうか。結局のところ原発が置かれている場所の人々は、お金を出し、作られた電気を使う、都会の人々の意見に従うことしかできないのではないか。

そのように考えると、原発に限らず、世代間倫理や環境問題といわれる諸問題には、都市と地方、帝国と植民地という地域的な格差の問題が強く影響しているということが分かる。

そこで私が、自分にとって身近な、ある種原発的な問題として思いついたのが、巨大ショッピングモールのことだった。実家のとなり町、佐野市にはイオンモールとプレミアムアウトレットモールが隣り合っていて、さらに巨大なコジマ電気も並立して、ある意味世界の中心のような状態である。日曜日にはお店にやってくるたくさんの車が列をなすし、新聞にはそれらショッピングモールの求人がたくさん入ってくる。一見巨大モールのおかげで、となり町や周辺市町村は活気が出て、潤っているかのように見えるが、本当にそうなのか。巨大モールが栄える一方、地元の商店街は瀕死状態だし、周辺市町村に以前からあった、スーパーも閑散としてきている。このままショッピングモールがあり続けたらどうなるのだろうか。あるいはさらに恐ろしいのは、ショッピングモールが、撤退してしまった場合だ。そうなったら、既にすっかり衰退してしまった町はどのように再生することができるのだろうか。

このような問題について学生にも意見を求め、自分自身にとって身近な別の例を考えてもらった。なかなか具体例は出なかったものの、やはり私自身が思ったように、地方から都市に出てきた学生の方が、都会と地方の格差という視点から考えることができていたと思った。

倫理1−6

2011年10月20日木曜日

シュレーバー研究2 光線としての言葉(2005年)

フレックシヒの脳解剖図
私たちは、日々さまざまな言葉に囲まれて暮らしている。インターネット上の記事を読み、漫画を読み、TVを見る、本を読む。自分の言葉を話したり、書いたりもする。私たちが言葉といったとき、それは書かれた文章も人の声も、自分の頭にある考えも、同時に表すことになる。ことばとは、私たちが生活する世界の、あらゆる場所に存在しているのだ。



例えばインターネットに接続したとき、ニュースや掲示板を見ると、様々な人のことばが溢れている。物事を伝える言葉だけでなく、人を攻めたりけなしたりする言葉も多い。極端な言い方をすれば、インターネットの中には悪意が溢れている。

分光器
私がこうしてMacBookを図書館で開いているとき、この画面上に現れてくるおびただしい量の言葉は、一体どこから送られてくるのだろう?そして私の周りで勉強している学生たちが考えている言葉は、いったいどこにあるのだろう。彼らの言葉はどこを通って、彼らの頭の中からノートの上へと筆記されるのだろうか。

もし、私が見ているサイトに表示される言葉の群れや、私の周りの人々の思念が、眼に見えるものであったらどうだろう?私たちの世界はどのように見えるのだろうか?漫画のように吹き出しが人の頭の上にぽこぽこ浮かんでる様子を思い浮かべる人もいるだろう。だが、人間の思考やインターネット上の言説のような高速で行き交う言葉を、漫画のような文字の形で捉えることは非常に困難だろう。だとすれば、もう文字としての形を失って、光の帯のように見えるのかもしれない。

じっさいに人の思考や言葉が光として目に見えるようになってしまったのが、シュレーバーという人物である。シュレーバーは、神からの声を光線として自らの身体に受容する。なぜ、彼は言葉を光線として捉えたのだろうか?その背景には、彼が生きていた時代状況が大きく関与していたと考えられる。この論文、「光線としての言葉あるいは可視化された世界―シュレーバーと自然科学と心霊学―」では、19世紀末ドイツにおいて人々の関心を集めた、大衆向けの自然科学や心霊科学の言説を手がかりに、人の思考が見える化、すなわち光線として捉えられる、というシュレーバーの思考と同時代の人々との接点を探った。
アクサーコフの心霊写真
この論文を書くにあたって、天文学や物理学など自然科学系の本をいくつか読んだし、明治期日本におけるヨーロッパの思想やオカルティズムの輸入、超心理学のはじまりなどについても調べた。まったく関係のない文献も含めて、かなりの数をそろえたが、このような多方面から証拠を集めるという方法は、その後の研究に大いに役立っている。このような方法を見出すきっかけになったのは、社会史・文化史系の研究会での発表だった。文学研究的な作家・作品論に固執していたら到底できなかっただろうと思う。私にさまざまな指摘を下さった先生方や仲間たちに感謝している。

(下のPDFが読みづらい(ウィンドウが上下に狭い)場合はページを再読み込みしてください。) 光線としての

シュレーバー研究2 光線としての言葉(2005年)

フレックシヒの脳解剖図
私たちは、日々さまざまな言葉に囲まれて暮らしている。インターネット上の記事を読み、漫画を読み、TVを見る、本を読む。自分の言葉を話したり、書いたりもする。私たちが言葉といったとき、それは書かれた文章も人の声も、自分の頭にある考えも、同時に表すことになる。ことばとは、私たちが生活する世界の、あらゆる場所に存在しているのだ。



例えばインターネットに接続したとき、ニュースや掲示板を見ると、様々な人のことばが溢れている。物事を伝える言葉だけでなく、人を攻めたりけなしたりする言葉も多い。極端な言い方をすれば、インターネットの中には悪意が溢れている。

分光器
私がこうしてMacBookを図書館で開いているとき、この画面上に現れてくるおびただしい量の言葉は、一体どこから送られてくるのだろう?そして私の周りで勉強している学生たちが考えている言葉は、いったいどこにあるのだろう。彼らの言葉はどこを通って、彼らの頭の中からノートの上へと筆記されるのだろうか。

もし、私が見ているサイトに表示される言葉の群れや、私の周りの人々の思念が、眼に見えるものであったらどうだろう?私たちの世界はどのように見えるのだろうか?漫画のように吹き出しが人の頭の上にぽこぽこ浮かんでる様子を思い浮かべる人もいるだろう。だが、人間の思考やインターネット上の言説のような高速で行き交う言葉を、漫画のような文字の形で捉えることは非常に困難だろう。だとすれば、もう文字としての形を失って、光の帯のように見えるのかもしれない。

じっさいに人の思考や言葉が光として目に見えるようになってしまったのが、シュレーバーという人物である。シュレーバーは、神からの声を光線として自らの身体に受容する。なぜ、彼は言葉を光線として捉えたのだろうか?その背景には、彼が生きていた時代状況が大きく関与していたと考えられる。この論文、「光線としての言葉あるいは可視化された世界―シュレーバーと自然科学と心霊学―」では、19世紀末ドイツにおいて人々の関心を集めた、大衆向けの自然科学や心霊科学の言説を手がかりに、人の思考が見える化、すなわち光線として捉えられる、というシュレーバーの思考と同時代の人々との接点を探った。
アクサーコフの心霊写真
この論文を書くにあたって、天文学や物理学など自然科学系の本をいくつか読んだし、明治期日本におけるヨーロッパの思想やオカルティズムの輸入、超心理学のはじまりなどについても調べた。まったく関係のない文献も含めて、かなりの数をそろえたが、このような多方面から証拠を集めるという方法は、その後の研究に大いに役立っている。このような方法を見出すきっかけになったのは、社会史・文化史系の研究会での発表だった。文学研究的な作家・作品論に固執していたら到底できなかっただろうと思う。私にさまざまな指摘を下さった先生方や仲間たちに感謝している。

(下のPDFが読みづらい(ウィンドウが上下に狭い)場合はページを再読み込みしてください。) 光線としての

ドイツ語第3回 なぜ学生はドイツ語を学ぶのか

ドイツ語第1回目のスライドより
京大1年生のドイツ語は今日が第三回。三時間目のクラスは現在完了。五時間目のクラスは、接続詞を使った副文について。どちらのクラスの学生も、理系の子たちだが、非常に真面目で熱心に勉強している。テストをしますよ、というとものすごい力を発揮するのは、京大生という生き物の本能(活動し始めるやいなや話さずにはいられないという光線の本性と同じようなものだ)だが、テストではないふだんの授業も、みんなちゃんと出席するし、練習もまじめにやる。


いったい彼らはどうしてこんなにちゃんとドイツ語を学ぶのだろうか。もちろん私だって、ドイツ語を教えるのは楽しいので、彼らが楽しめるような授業になるよう、いつも心を砕いている。だから私の授業にちゃんと出席していれば、それなりに楽しく勉強できるし、ドイツ語もそこそこできるようになるだろうとは思っている。だけど、そもそもなんで、彼らがドイツ語を勉強しているのだろうと考えると、わからなくなってくる。


大学の独文科に入ってから、10数年がすぎ、いやなことばかりだったけど、少しずつドイツ語が理解できるようになってきた。私自身は、陸の牢獄である栃木を離れて、広い世界を見たいと思っていたし、中学1年生のとき、新聞で見たベルリンの壁崩壊以来、ドイツという国に興味を持っていたので、ドイツ語を学ぶことにした。だけど、彼ら、農学部の学生たちはどうしてドイツ語を学んでいるのだろう?逆に言えば、将来もっとやる気のない学生たちを前にした時、私はどうやって、彼らのモティヴェーションを高めることができるのだろう?


いまや語学といえば、英語でことたりてしまう時代だが、それなのにどうしてドイツ語を学ぶのだろうか。学ぶことの意義とはなんだろうか。きっかけではなく、日々学習を続けていく中で感じられるような意義。おそらく学生たちの何人かは、純粋に知的な作業として楽しんでいるのだろうと思う。だけど、それ以上になにかドイツ語を学ぶ楽しさはあるのだろうか?先日読んだ学会誌に、ドイツ語教育の専門家である有名な先生が、ドイツ語学習の意義を学生に説明するとき、どうしても無理やり言いくるめるような言い方になってしまうと書いておられた。偉い専門家の先生でも、学生を納得させられるような答えが見つからないのだろうか。


この問題については今後時間をかけてじっくり考えたり、あるいは学生たちにアンケートをとってみたりしたい。

ドイツ語第3回 なぜ学生はドイツ語を学ぶのか

ドイツ語第1回目のスライドより
京大1年生のドイツ語は今日が第三回。三時間目のクラスは現在完了。五時間目のクラスは、接続詞を使った副文について。どちらのクラスの学生も、理系の子たちだが、非常に真面目で熱心に勉強している。テストをしますよ、というとものすごい力を発揮するのは、京大生という生き物の本能(活動し始めるやいなや話さずにはいられないという光線の本性と同じようなものだ)だが、テストではないふだんの授業も、みんなちゃんと出席するし、練習もまじめにやる。


いったい彼らはどうしてこんなにちゃんとドイツ語を学ぶのだろうか。もちろん私だって、ドイツ語を教えるのは楽しいので、彼らが楽しめるような授業になるよう、いつも心を砕いている。だから私の授業にちゃんと出席していれば、それなりに楽しく勉強できるし、ドイツ語もそこそこできるようになるだろうとは思っている。だけど、そもそもなんで、彼らがドイツ語を勉強しているのだろうと考えると、わからなくなってくる。


大学の独文科に入ってから、10数年がすぎ、いやなことばかりだったけど、少しずつドイツ語が理解できるようになってきた。私自身は、陸の牢獄である栃木を離れて、広い世界を見たいと思っていたし、中学1年生のとき、新聞で見たベルリンの壁崩壊以来、ドイツという国に興味を持っていたので、ドイツ語を学ぶことにした。だけど、彼ら、農学部の学生たちはどうしてドイツ語を学んでいるのだろう?逆に言えば、将来もっとやる気のない学生たちを前にした時、私はどうやって、彼らのモティヴェーションを高めることができるのだろう?


いまや語学といえば、英語でことたりてしまう時代だが、それなのにどうしてドイツ語を学ぶのだろうか。学ぶことの意義とはなんだろうか。きっかけではなく、日々学習を続けていく中で感じられるような意義。おそらく学生たちの何人かは、純粋に知的な作業として楽しんでいるのだろうと思う。だけど、それ以上になにかドイツ語を学ぶ楽しさはあるのだろうか?先日読んだ学会誌に、ドイツ語教育の専門家である有名な先生が、ドイツ語学習の意義を学生に説明するとき、どうしても無理やり言いくるめるような言い方になってしまうと書いておられた。偉い専門家の先生でも、学生を納得させられるような答えが見つからないのだろうか。


この問題については今後時間をかけてじっくり考えたり、あるいは学生たちにアンケートをとってみたりしたい。

何かになるということ考

1999年秋、下高井戸の美並荘から引っ越しした日
勤め先の大学が、各業界で活躍する(クリエイティブな仕事をしている)卒業生へのインタビューをサイトに掲載している。彼ら卒業生が、自分のやりたいことや夢を実現できているというのはとても素晴らしいことだし、それが在学生や入学希望者に希望を与えるのかもしれない。だけど、なんだか違和感を覚えてしまう。


あのようなインタビューは、どこの大学でも「卒業生の声」とか「先輩からのメッセージ」のような形で掲載されているのだから、本務校が変だ、というわけではない。(別に職場を批判しているわけではありません。気にしないでくださいエラい人たち!)だが、現実問題、広告代理店とか雑誌の編集者とか、有名企業だとかいった仕事につけるのは、卒業生の100人に一人くらいでしかない。では残りの99人は何になるのだろうか?何にもなっていないのだろうか?


私が昨年卒業制作を手伝った女子学生は、正社員としての就職はせず、非正規雇用で販売員の仕事をしている。彼女は何にもなっていない、ということになるのだろうか?


大学で仕事をするようになってから、何かになるということについてよく考えるようになった。それは、自分が学生たちを見ながら、この子たちはどんな大人になっていくのだろうか、と思うことがしばしばあったからだ。この子たちは、10年後何をしているのだろうか、自分よりもずっと充実した人生を過ごしてくれればいいなあ、といつも思うのだ。だが、将来彼らは何になるのだろうか?と考えたとき、はたと疑問が湧いてきた。そもそも、何かになるとはどういうことなのか?自分自身も35歳になったけど、何かになれたのだろうか?


大学を出て(学部を卒業して)、10年以上が過ぎたが、これまで自分が何かになっていると思ったことは殆どなかった。それはもちろん、何か=仕事だと思っていたから、アルバイトをして研究を続ける大学院生は、「何か」になったことにはならないと思っていたのだ。数年前に今の仕事を見つけて、私はたしかに大学から給料をもらって生活できるようになったので、大学教員にはなれたのかもしれない。とはいえ、やっていることは院生時代とほとんど変わっていない。日々生活の糧を得るための仕事をして、余った時間に読書をして論文を書いたり、マラソンをしたりする。それだけだ。それだけで、けっこう充実している。


私に関して言えば、大学を出て10年ちょっとが過ぎて、大学教員という「何か」になったというわけではない。学問を続け、お金をかけないで楽しく暮らす方法を考え、なんとなく今のような「生活」をつくりあげてきただけだ。


私が最初に感じた違和とは何だったのだろう。おそらく、優秀でクリエイティブな職業についた、100人に一人の奇跡のような、先輩の体験談を、「学生たちの将来像」のモデルとして掲げることに対してだろう。たしかに優秀な彼らの勉強法や就活必勝法から学ぶことはあるだろう。大学としても良い宣伝になる。だけど、学生たちの大多数はそのような就職をしない。そうではなく、大きくない会社に勤めたり、実家で自営業をしたり、デキ婚したり、子供がどんどん増えたり、非正規雇用を転々としたりしながら、彼らなりの生き方をつくっていくはずだ。多くの学生たちにとって、大人になるとはどういうことだろう?社会に出るとはどういうことだろう?という疑問を今の生活にひきつけて考えていくためのヒントは、むしろ輝かしい勝者たる先輩たちではなくて、平凡な仕事をしながらでも、充実した日々を過ごしているたくさんの「ふつうの」卒業生たちの声なのではないだろうか。少なくとも自分が学生だったら、研究者として第一線で活躍してバリバリ活躍している先輩だけでなく(よりむしろ)、研究者にはならなかったけど、それなりに楽しく充実した暮らしを営んでいる先輩の声も聞いてみたいと思ったはずだ。「ふつうの」とか「なんでもない」とか言われる人たちの生き方にも、当然私たちが学ぶことは多いのだから。

何かになるということ考

1999年秋、下高井戸の美並荘から引っ越しした日
勤め先の大学が、各業界で活躍する(クリエイティブな仕事をしている)卒業生へのインタビューをサイトに掲載している。彼ら卒業生が、自分のやりたいことや夢を実現できているというのはとても素晴らしいことだし、それが在学生や入学希望者に希望を与えるのかもしれない。だけど、なんだか違和感を覚えてしまう。


あのようなインタビューは、どこの大学でも「卒業生の声」とか「先輩からのメッセージ」のような形で掲載されているのだから、本務校が変だ、というわけではない。(別に職場を批判しているわけではありません。気にしないでくださいエラい人たち!)だが、現実問題、広告代理店とか雑誌の編集者とか、有名企業だとかいった仕事につけるのは、卒業生の100人に一人くらいでしかない。では残りの99人は何になるのだろうか?何にもなっていないのだろうか?


私が昨年卒業制作を手伝った女子学生は、正社員としての就職はせず、非正規雇用で販売員の仕事をしている。彼女は何にもなっていない、ということになるのだろうか?


大学で仕事をするようになってから、何かになるということについてよく考えるようになった。それは、自分が学生たちを見ながら、この子たちはどんな大人になっていくのだろうか、と思うことがしばしばあったからだ。この子たちは、10年後何をしているのだろうか、自分よりもずっと充実した人生を過ごしてくれればいいなあ、といつも思うのだ。だが、将来彼らは何になるのだろうか?と考えたとき、はたと疑問が湧いてきた。そもそも、何かになるとはどういうことなのか?自分自身も35歳になったけど、何かになれたのだろうか?


大学を出て(学部を卒業して)、10年以上が過ぎたが、これまで自分が何かになっていると思ったことは殆どなかった。それはもちろん、何か=仕事だと思っていたから、アルバイトをして研究を続ける大学院生は、「何か」になったことにはならないと思っていたのだ。数年前に今の仕事を見つけて、私はたしかに大学から給料をもらって生活できるようになったので、大学教員にはなれたのかもしれない。とはいえ、やっていることは院生時代とほとんど変わっていない。日々生活の糧を得るための仕事をして、余った時間に読書をして論文を書いたり、マラソンをしたりする。それだけだ。それだけで、けっこう充実している。


私に関して言えば、大学を出て10年ちょっとが過ぎて、大学教員という「何か」になったというわけではない。学問を続け、お金をかけないで楽しく暮らす方法を考え、なんとなく今のような「生活」をつくりあげてきただけだ。


私が最初に感じた違和とは何だったのだろう。おそらく、優秀でクリエイティブな職業についた、100人に一人の奇跡のような、先輩の体験談を、「学生たちの将来像」のモデルとして掲げることに対してだろう。たしかに優秀な彼らの勉強法や就活必勝法から学ぶことはあるだろう。大学としても良い宣伝になる。だけど、学生たちの大多数はそのような就職をしない。そうではなく、大きくない会社に勤めたり、実家で自営業をしたり、デキ婚したり、子供がどんどん増えたり、非正規雇用を転々としたりしながら、彼らなりの生き方をつくっていくはずだ。多くの学生たちにとって、大人になるとはどういうことだろう?社会に出るとはどういうことだろう?という疑問を今の生活にひきつけて考えていくためのヒントは、むしろ輝かしい勝者たる先輩たちではなくて、平凡な仕事をしながらでも、充実した日々を過ごしているたくさんの「ふつうの」卒業生たちの声なのではないだろうか。少なくとも自分が学生だったら、研究者として第一線で活躍してバリバリ活躍している先輩だけでなく(よりむしろ)、研究者にはならなかったけど、それなりに楽しく充実した暮らしを営んでいる先輩の声も聞いてみたいと思ったはずだ。「ふつうの」とか「なんでもない」とか言われる人たちの生き方にも、当然私たちが学ぶことは多いのだから。

シュレーバー研究1言葉をめぐるたたかい(2004年)

学部4年生の春(1999年)に、出たばかりの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の邦訳を夢中で読んで、卒論の指導教授に、こういう研究がしたい、と話したら、ちょうど先生も『Aufschreibesystem 1800-1900』を持っていて、ぜひ読んでみるよう勧めてくださったことをよく覚えている。卒論では、とくにキットラーの文献を使うことはなかったが、それから数年が過ぎて、いつの間にか"Aufschreibesystem"そのもの(すなわち元ネタであるシュレーバー『回想録』の用語、「筆記制度」)について考えることになるとは、奇妙なめぐり合わせである。
話は変わるが、これまで発表してきた論文の多くが、京大のレポジトリに登録されているので、このブログでも直接ファイルをアップして、多くの人に利用できるようにしておきたい。論文ファイルに加えて、内容の簡単な紹介も付け加えておく。

論文「言葉をめぐるたたかい―シュレーバーと雑音の世界―」は、京都大学大学院独文学研究室の雑誌『研究報告』第18号に掲載された。
そもそもこの論文に書かれている内容は、2004年春に提出した修士論文のうちの一章を元にしている。修士論文は全体で5章からなり、長さも400字詰め換算で300枚程度と、かなり長かったのだが、他の4章よりも自分としてはこの論文の元になった、第三章がもっとも気に入っていたし、書いていて楽しかった。だから内容を若干訂正して、一本の論文として投稿した。

この論文で主題となっているのは、シュレーバーにおける言葉と雑音の関係である。シュレーバーは、神との神経接続によって、ひっきりなしに神や魂たちの声を聴き続けなければならなくなってしまった。この外的なノイズと、それに対抗するために講じる、音楽を奏でたり詩を暗唱したりという行為から、シュレーバーにおける言葉(=意味を持った音声)と無意味な雑音との関係を考察している。シュレーバーは音楽を奏でるだけでなく、ジンフォニオンや自動ハーモニカのような自動演奏楽器も利用するのだが、音楽再生装置を使用することにより、意味を持った音楽と言葉の世界を離れ、雑音のカオスへと取り込まれることになる。シュレーバーは無意味な雑音(録音された音楽におけるノイズや、機械の動作音、鳥の鳴き声など)にも、人間の言葉を聞きとってしまう。そこに彼の病があるのだが、考えてみれば私達の世界にも、ノイズは溢れている。私たちが目にするインターネット上の言説や、テレビのコマーシャルもノイズだ。膨大な量のことばが、日々私達の周りを飛び交っているが、どうして私たちは、それらのノイズ的言説を、自分自身に向けられたものとして受けとめることがないのだろうか。いや、そうではない。無視しているつもりでも、私たちの言葉は、そのようなノイズによって侵食されている。自分が考えもしなかったことが、急に思いついたり、ふとテレビや新聞で見た出来事に、思考をかき乱されたりすることがあるだろう。シュレーバーの病であった、神経接続は、私達にとってもけっして他人ごとではない。私たちの思考や発する言葉は、つねに、どこかで誰かが言っていることだし、それ自体が発せられた瞬間に、ノイズと一体化して、私たちを取り巻く音や言葉の環境を構成するのではないだろうか。
↓以下のPDFファイルは、見づらい場合は再読み込み(リロード)すると、大きくて見やすいウィンドウが開くと思います。

言葉をめぐるたたかい

シュレーバー研究1言葉をめぐるたたかい(2004年)

学部4年生の春(1999年)に、出たばかりの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の邦訳を夢中で読んで、卒論の指導教授に、こういう研究がしたい、と話したら、ちょうど先生も『Aufschreibesystem 1800-1900』を持っていて、ぜひ読んでみるよう勧めてくださったことをよく覚えている。卒論では、とくにキットラーの文献を使うことはなかったが、それから数年が過ぎて、いつの間にか"Aufschreibesystem"そのもの(すなわち元ネタであるシュレーバー『回想録』の用語、「筆記制度」)について考えることになるとは、奇妙なめぐり合わせである。
話は変わるが、これまで発表してきた論文の多くが、京大のレポジトリに登録されているので、このブログでも直接ファイルをアップして、多くの人に利用できるようにしておきたい。論文ファイルに加えて、内容の簡単な紹介も付け加えておく。

論文「言葉をめぐるたたかい―シュレーバーと雑音の世界―」は、京都大学大学院独文学研究室の雑誌『研究報告』第18号に掲載された。
そもそもこの論文に書かれている内容は、2004年春に提出した修士論文のうちの一章を元にしている。修士論文は全体で5章からなり、長さも400字詰め換算で300枚程度と、かなり長かったのだが、他の4章よりも自分としてはこの論文の元になった、第三章がもっとも気に入っていたし、書いていて楽しかった。だから内容を若干訂正して、一本の論文として投稿した。

この論文で主題となっているのは、シュレーバーにおける言葉と雑音の関係である。シュレーバーは、神との神経接続によって、ひっきりなしに神や魂たちの声を聴き続けなければならなくなってしまった。この外的なノイズと、それに対抗するために講じる、音楽を奏でたり詩を暗唱したりという行為から、シュレーバーにおける言葉(=意味を持った音声)と無意味な雑音との関係を考察している。シュレーバーは音楽を奏でるだけでなく、ジンフォニオンや自動ハーモニカのような自動演奏楽器も利用するのだが、音楽再生装置を使用することにより、意味を持った音楽と言葉の世界を離れ、雑音のカオスへと取り込まれることになる。シュレーバーは無意味な雑音(録音された音楽におけるノイズや、機械の動作音、鳥の鳴き声など)にも、人間の言葉を聞きとってしまう。そこに彼の病があるのだが、考えてみれば私達の世界にも、ノイズは溢れている。私たちが目にするインターネット上の言説や、テレビのコマーシャルもノイズだ。膨大な量のことばが、日々私達の周りを飛び交っているが、どうして私たちは、それらのノイズ的言説を、自分自身に向けられたものとして受けとめることがないのだろうか。いや、そうではない。無視しているつもりでも、私たちの言葉は、そのようなノイズによって侵食されている。自分が考えもしなかったことが、急に思いついたり、ふとテレビや新聞で見た出来事に、思考をかき乱されたりすることがあるだろう。シュレーバーの病であった、神経接続は、私達にとってもけっして他人ごとではない。私たちの思考や発する言葉は、つねに、どこかで誰かが言っていることだし、それ自体が発せられた瞬間に、ノイズと一体化して、私たちを取り巻く音や言葉の環境を構成するのではないだろうか。
↓以下のPDFファイルは、見づらい場合は再読み込み(リロード)すると、大きくて見やすいウィンドウが開くと思います。

言葉をめぐるたたかい

2011年10月17日月曜日

金沢。取り急ぎ写真のみ

独文学会で金沢大学に行ってきた。
金沢大学角間キャンパス。敷地内に谷がある。ずいぶん人里離れたところで驚く。京大吉田キャンパスですら、夜は犯罪が起こる。学会懇親会が終わったあと、キャンパスが真っ暗でとても恐ろしかった。学生たちが心配。

市内で見つけた停止のみの信号。
近江町市場のイベント、19日はウィンナー掴み取り!!

金沢。取り急ぎ写真のみ

独文学会で金沢大学に行ってきた。
金沢大学角間キャンパス。敷地内に谷がある。ずいぶん人里離れたところで驚く。京大吉田キャンパスですら、夜は犯罪が起こる。学会懇親会が終わったあと、キャンパスが真っ暗でとても恐ろしかった。学生たちが心配。

市内で見つけた停止のみの信号。
近江町市場のイベント、19日はウィンナー掴み取り!!

2011年10月13日木曜日

レーシック手術の思い出


近鉄新田辺駅前、一休さんの像

術後一年が過ぎたので、レーシック手術を受けた当時のことやその後の経過についてまとめておきたい。

今の職場に就職した時、少ないながらもボーナスが貰えるということで、最初に思いついたのが、レーシック手術を受けることだった。もちろん本来であれば、奨学金という借金の返済に充てるとか、両親に温泉旅行をプレゼントするとか、将来に備えて蓄えるだとか、ちゃんとした使いみちを考えるべきだったのだろうが、当時の私にとっては、ドライアイと頭痛が日常生活の中でいちばんしんどいことだったのだ。結局最初の夏ボーナスは、発売されたばかりのMacBook Proを衝動買いして吹っ飛んでしまった。そこで昨年夏に、こんどこそということで、ボーナスを使って手術をうけることにした。


手術を受けたいと思っていても、なかなか踏み切れなかった理由の一つに、―もちろん手術の安全性とか料金体系とか、さんざん悩んだことはたしかだがいまは措いておく―、手術を受ける前にしばらく裸眼で過ごさなければならないということがあった。日頃外出するときはハードレンズをつけていたし、ジョギングや自転車が趣味なので、どうしてもメガネをかけてすごすというのはイヤだった。しかしながら、8月初めに京都の奥のほうに自転車で行ったときに、目にゴミが入って、痛みに悶絶したあげくレンズを落として無くしかけたことで、もう手術を受けるほかはない、と決意を固めた。お盆過ぎから8月末まで、メガネ着用で過ごし、9月初旬に安淵眼科で診察を受けることにした。


診察を受けに行った日は、かなり日差しの強い暑い日だった。一時間ほど待って、診察を受け、瞳孔が開く目薬をさされたりした。この目薬のせいで、帰りは視界がまぶしすぎて、なかばムスカみたいな状態で目を押さえてふらふらしつつ帰宅した。


一度目の診察の際に、手術の予約をするのだが、ちょうどすぐ翌日に受けられることになった。事前に調べてみたところでは、1〜2週間またされるかもしれない、ということだったので、看護学校や大学の新学期が始まってしまうことを心配していたのだが、早く受けられるならそれに越したことはないということで、検査の翌日に手術ということになった。

手術の当日は緊張などほとんどなかった。というのもちょうど〆切が迫っている原稿に追われていたから、それどころではなかったのだ。それ以上に、こんな時期に手術を受けてしまったら、原稿の仕上げやら校正やらの作業が滞ってしまうのではないかということが心配でしょうがなかった。

京田辺の医院についたのは手術の一時間以上前だった。待合室は検査の時と同様にたくさんの人がいた。ひとりずつ診察室に呼ばれ、30分後くらいに保護メガネをつけて出てくる。つぎからつぎへとレーシック手術を受けていたのだ。待合室においてあったモーニングを全て読み終わる頃、ようやく順番が回ってきて、診察室に通された。ここで何種類かの目薬や麻酔薬を刺された。目を閉じてソファに座っていると、だんだん薬が効いているのか目の周りがもやもやとしてくる。ちょうど抜歯の際の麻酔のようだった。10分ほど待って、手術室に入り、手術台に座らされた。看護師さんが手際よく目の周りにあれこれ処置を施す。目が閉じないようにまぶたを固定され、あれよあれよという間に頭が固定された。先生が目に光を当てながら、「動かないでね、動かないでねー」と連呼しつつ、眼球に何らかの器具をあてる。すると視界が一瞬暗くなり、つぎに水の中にいるみたいに見えた。おそらくこのとき角膜が切開されたのだろう。その後つよい光線が当てられ、ちょっと焦げ臭い臭がして、ふたたびさっき切開した角膜を先生がへらのようなものでぺたぺたくっつけた。これで片目が完了。つぎに同じ手順でもう一方の目にも処置が施された。その間私は、看護師さんが手渡したゴムボールをぎゅっと握りしめていた。痛くはなかったが、やはり恐ろしかった。眼球が切開された瞬間のことは今思い出してもぞくぞくする。その日病院を出ると、既に暗くなり始めていた。防護メガネ越しにも、視力が良くなったことはわかったが、まだ視界が安定していないし、家に帰ると少しずつ麻酔が切れて目がちくちくと痛んできた。精神的にダメージを負った感じがして、その晩は早く眠った。

手術翌日の自分撮り。目が腫れている。しかし本当は
防護メガネが合ってなくて目よりも頭が痛かった。
 手術翌日から一週間目くらいは、眼球にソフトレンズが張り付いているような違和感が残って、エアコンの風が直接当たるときなどに、不安を覚えたが、とにかく視力は飛躍的に上がった。一眼レフのカメラで撮った写真の鮮やかさに驚くように、私は自分の肉眼で見える景色に驚いた。これまで生活していた世界が、こんなに細部まできっちり見えるということに感動していた。

一週間が過ぎ、ふつうにシャワーを浴びたり運動したりできるようになった。もうこの頃には手術前と同じように眼球を動かすことができた。目薬も病院で言われたとおりに点眼していたので、何も心配はなかったのだが、手術から3週間後に、左目が真っ赤に腫れ上がった。最初はドライアイかと思い、もらった目薬を多めに注していたのだが、一晩たったら頭痛もしてきたので、眼科に駆け込んだ。レーシック手術による感染症を危惧したが、ウィルス性結膜炎だということがわかった。病名がわかって少し安心したが、結膜炎はけっこう厄介で、左目の腫れがひくのに一週間かかったと思ったら、さらに右目も腫れてしまい、治るのに二週間くらいかかった。

しかしその後は特にトラブルもなく、12月の3ヶ月後検査でも、右1.5,左1.2という視力だった。それからさらに半年以上過ぎた現在でも、たぶん両目の視力はほとんど変わっていないと思う。私自身は、手術をうけてほんとうによかったと思ってるし、手術のおかげで生活の幅が広がったと痛感している。とはいえレーシック手術によるトラブルは多いし、何年も過ぎた後に現れる症状などは、まだ予想がつかない。だからなかなか他人にすすめるわけにはいかないのだろうが、少なくとも私は何年か後にふたたび視力が下がってしまうとしても、手術を受けたことは後悔しないだろうと思う。

レーシック手術の思い出


近鉄新田辺駅前、一休さんの像

術後一年が過ぎたので、レーシック手術を受けた当時のことやその後の経過についてまとめておきたい。

今の職場に就職した時、少ないながらもボーナスが貰えるということで、最初に思いついたのが、レーシック手術を受けることだった。もちろん本来であれば、奨学金という借金の返済に充てるとか、両親に温泉旅行をプレゼントするとか、将来に備えて蓄えるだとか、ちゃんとした使いみちを考えるべきだったのだろうが、当時の私にとっては、ドライアイと頭痛が日常生活の中でいちばんしんどいことだったのだ。結局最初の夏ボーナスは、発売されたばかりのMacBook Proを衝動買いして吹っ飛んでしまった。そこで昨年夏に、こんどこそということで、ボーナスを使って手術をうけることにした。


手術を受けたいと思っていても、なかなか踏み切れなかった理由の一つに、―もちろん手術の安全性とか料金体系とか、さんざん悩んだことはたしかだがいまは措いておく―、手術を受ける前にしばらく裸眼で過ごさなければならないということがあった。日頃外出するときはハードレンズをつけていたし、ジョギングや自転車が趣味なので、どうしてもメガネをかけてすごすというのはイヤだった。しかしながら、8月初めに京都の奥のほうに自転車で行ったときに、目にゴミが入って、痛みに悶絶したあげくレンズを落として無くしかけたことで、もう手術を受けるほかはない、と決意を固めた。お盆過ぎから8月末まで、メガネ着用で過ごし、9月初旬に安淵眼科で診察を受けることにした。


診察を受けに行った日は、かなり日差しの強い暑い日だった。一時間ほど待って、診察を受け、瞳孔が開く目薬をさされたりした。この目薬のせいで、帰りは視界がまぶしすぎて、なかばムスカみたいな状態で目を押さえてふらふらしつつ帰宅した。


一度目の診察の際に、手術の予約をするのだが、ちょうどすぐ翌日に受けられることになった。事前に調べてみたところでは、1〜2週間またされるかもしれない、ということだったので、看護学校や大学の新学期が始まってしまうことを心配していたのだが、早く受けられるならそれに越したことはないということで、検査の翌日に手術ということになった。

手術の当日は緊張などほとんどなかった。というのもちょうど〆切が迫っている原稿に追われていたから、それどころではなかったのだ。それ以上に、こんな時期に手術を受けてしまったら、原稿の仕上げやら校正やらの作業が滞ってしまうのではないかということが心配でしょうがなかった。

京田辺の医院についたのは手術の一時間以上前だった。待合室は検査の時と同様にたくさんの人がいた。ひとりずつ診察室に呼ばれ、30分後くらいに保護メガネをつけて出てくる。つぎからつぎへとレーシック手術を受けていたのだ。待合室においてあったモーニングを全て読み終わる頃、ようやく順番が回ってきて、診察室に通された。ここで何種類かの目薬や麻酔薬を刺された。目を閉じてソファに座っていると、だんだん薬が効いているのか目の周りがもやもやとしてくる。ちょうど抜歯の際の麻酔のようだった。10分ほど待って、手術室に入り、手術台に座らされた。看護師さんが手際よく目の周りにあれこれ処置を施す。目が閉じないようにまぶたを固定され、あれよあれよという間に頭が固定された。先生が目に光を当てながら、「動かないでね、動かないでねー」と連呼しつつ、眼球に何らかの器具をあてる。すると視界が一瞬暗くなり、つぎに水の中にいるみたいに見えた。おそらくこのとき角膜が切開されたのだろう。その後つよい光線が当てられ、ちょっと焦げ臭い臭がして、ふたたびさっき切開した角膜を先生がへらのようなものでぺたぺたくっつけた。これで片目が完了。つぎに同じ手順でもう一方の目にも処置が施された。その間私は、看護師さんが手渡したゴムボールをぎゅっと握りしめていた。痛くはなかったが、やはり恐ろしかった。眼球が切開された瞬間のことは今思い出してもぞくぞくする。その日病院を出ると、既に暗くなり始めていた。防護メガネ越しにも、視力が良くなったことはわかったが、まだ視界が安定していないし、家に帰ると少しずつ麻酔が切れて目がちくちくと痛んできた。精神的にダメージを負った感じがして、その晩は早く眠った。

手術翌日の自分撮り。目が腫れている。しかし本当は
防護メガネが合ってなくて目よりも頭が痛かった。
 手術翌日から一週間目くらいは、眼球にソフトレンズが張り付いているような違和感が残って、エアコンの風が直接当たるときなどに、不安を覚えたが、とにかく視力は飛躍的に上がった。一眼レフのカメラで撮った写真の鮮やかさに驚くように、私は自分の肉眼で見える景色に驚いた。これまで生活していた世界が、こんなに細部まできっちり見えるということに感動していた。

一週間が過ぎ、ふつうにシャワーを浴びたり運動したりできるようになった。もうこの頃には手術前と同じように眼球を動かすことができた。目薬も病院で言われたとおりに点眼していたので、何も心配はなかったのだが、手術から3週間後に、左目が真っ赤に腫れ上がった。最初はドライアイかと思い、もらった目薬を多めに注していたのだが、一晩たったら頭痛もしてきたので、眼科に駆け込んだ。レーシック手術による感染症を危惧したが、ウィルス性結膜炎だということがわかった。病名がわかって少し安心したが、結膜炎はけっこう厄介で、左目の腫れがひくのに一週間かかったと思ったら、さらに右目も腫れてしまい、治るのに二週間くらいかかった。

しかしその後は特にトラブルもなく、12月の3ヶ月後検査でも、右1.5,左1.2という視力だった。それからさらに半年以上過ぎた現在でも、たぶん両目の視力はほとんど変わっていないと思う。私自身は、手術をうけてほんとうによかったと思ってるし、手術のおかげで生活の幅が広がったと痛感している。とはいえレーシック手術によるトラブルは多いし、何年も過ぎた後に現れる症状などは、まだ予想がつかない。だからなかなか他人にすすめるわけにはいかないのだろうが、少なくとも私は何年か後にふたたび視力が下がってしまうとしても、手術を受けたことは後悔しないだろうと思う。

2011年10月10日月曜日

看護と倫理1第5回

全7回の授業で、今回が5回目。毎回準備がものすごく大変なので、とにかく残り回数が少なくなることがうれしい。


今回は、教科書で基本的人権について解説。その後テーマ学習として、情報と倫理について事例を上げてディスカッション。レジュメを見ていただけば分かるだろうが、前回の自由と自由主義の話は思いの外、うまく伝わっていなかったように思う。授業時間中は、それなりにいい話し合いができて、うまくいったかなあ、と思うのだが、コメントカードを見ると残念な結果に終わる、ということはよくある。今回はどうなのだろうか。たぶん授業準備で一番時間がかかるのは、コメントカードへの返答とプリントにまとめて、補足説明を考える作業だ。毎回それだけで数時間かかってしまう。学生にとっても、自分にとっても必要な作業なのだろうが、仕事の負担としてはなかなか大きいものだ。


倫理1−5

看護と倫理1第5回

全7回の授業で、今回が5回目。毎回準備がものすごく大変なので、とにかく残り回数が少なくなることがうれしい。


今回は、教科書で基本的人権について解説。その後テーマ学習として、情報と倫理について事例を上げてディスカッション。レジュメを見ていただけば分かるだろうが、前回の自由と自由主義の話は思いの外、うまく伝わっていなかったように思う。授業時間中は、それなりにいい話し合いができて、うまくいったかなあ、と思うのだが、コメントカードを見ると残念な結果に終わる、ということはよくある。今回はどうなのだろうか。たぶん授業準備で一番時間がかかるのは、コメントカードへの返答とプリントにまとめて、補足説明を考える作業だ。毎回それだけで数時間かかってしまう。学生にとっても、自分にとっても必要な作業なのだろうが、仕事の負担としてはなかなか大きいものだ。


倫理1−5

2011年10月9日日曜日

泉大津だんじり祭


9月の岸和田に続いて、今週末は泉大津のだんじり祭を見てきた。岸和田に比べて規模は小さいが、町の人たちのエネルギーは変わらず。だんじりを近くで眺められるのもよかった。

泉大津だんじり祭


9月の岸和田に続いて、今週末は泉大津のだんじり祭を見てきた。岸和田に比べて規模は小さいが、町の人たちのエネルギーは変わらず。だんじりを近くで眺められるのもよかった。

2011年10月7日金曜日

夢遊の人々

ロマン的なるもの研究会(2010年4月24日)で、ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』について発表した際のレジュメを掲載します。ブロッホのこの作品は、かつて夢中になって読んだ本なのです。この読書会は、メンバーが自由に課題図書を決めて発表する形式です。私はおもに、ドイツ文学の気になる作品を取り上げています。2007年はメーテルリンク『死後の生存』―ドイツじゃないけど―、2009年にはトーマス・マン『ブッデンブローク家』について発表しました。


文庫本で上下二巻にもなる長大な作品なので、内容を把握するだけでもけっこう手間がかかりました。一度じっくり読んだつもりが、改めて読むとさっぱりわからない箇所があったり。今回は全体のながれと、幾つかのキーワードごとに、この小説のポイントになる部分をまとめたり、人物相関図を作ってみたりしました。特に時間をかけてがんばったのが、第三部の人物相関図です。本当はもう少し内容に踏み込んだ発表ができたらいいのですが、それは次の課題として考えておきたいと思いました。

夢遊の人々レジュメ

夢遊の人々

ロマン的なるもの研究会(2010年4月24日)で、ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』について発表した際のレジュメを掲載します。ブロッホのこの作品は、かつて夢中になって読んだ本なのです。この読書会は、メンバーが自由に課題図書を決めて発表する形式です。私はおもに、ドイツ文学の気になる作品を取り上げています。2007年はメーテルリンク『死後の生存』―ドイツじゃないけど―、2009年にはトーマス・マン『ブッデンブローク家』について発表しました。


文庫本で上下二巻にもなる長大な作品なので、内容を把握するだけでもけっこう手間がかかりました。一度じっくり読んだつもりが、改めて読むとさっぱりわからない箇所があったり。今回は全体のながれと、幾つかのキーワードごとに、この小説のポイントになる部分をまとめたり、人物相関図を作ってみたりしました。特に時間をかけてがんばったのが、第三部の人物相関図です。本当はもう少し内容に踏み込んだ発表ができたらいいのですが、それは次の課題として考えておきたいと思いました。

夢遊の人々レジュメ

久多の松上げ

昨日は樒原のことをかいたので、今日は同じ京都の奥地、久多のことを紹介したい。
久多(くた)は、左京区北端の集落。国道367号線で、八瀬・大原を抜け、一度滋賀県大津市の葛川集落を通って、ふたたび京都市に入り、川沿いに小さな集落が見えてくる。それが久多である。

久多では、毎年8月23日あたりに松上げという祭りが行われる。10mくらいの柱の上に、杉の葉を束ねたもの(傘)が載せられ、それをめがけて下から紐のついた松明をぐるぐる回して放り投げる。杉の束に火がついて、柱が炎に包まれて終わり、というのがお祭りの流れだ。今年は生憎の雨で、杉の葉に火がつきにくく、一時間たっても炎が上がることはなく、結局最後は柱を解体して、焚き火で燃やすことになってしまったが、それでも幻想的で美しい祭りだと思った。

久多の松上げ

昨日は樒原のことをかいたので、今日は同じ京都の奥地、久多のことを紹介したい。
久多(くた)は、左京区北端の集落。国道367号線で、八瀬・大原を抜け、一度滋賀県大津市の葛川集落を通って、ふたたび京都市に入り、川沿いに小さな集落が見えてくる。それが久多である。

久多では、毎年8月23日あたりに松上げという祭りが行われる。10mくらいの柱の上に、杉の葉を束ねたもの(傘)が載せられ、それをめがけて下から紐のついた松明をぐるぐる回して放り投げる。杉の束に火がついて、柱が炎に包まれて終わり、というのがお祭りの流れだ。今年は生憎の雨で、杉の葉に火がつきにくく、一時間たっても炎が上がることはなく、結局最後は柱を解体して、焚き火で燃やすことになってしまったが、それでも幻想的で美しい祭りだと思った。

2011年10月6日木曜日

樒原



樒原というのは、右京区の北西端にある小さな集落。しきみがはらと読む。嵐山から清滝方面へ進んで、八丁峠から保津峡に抜け、さらにそこから山を登って、水尾の集落と神明峠を越えるとようやくたどりつける。山間の狭い平地に家が密集していて、谷へとつづく斜面には、棚田が広がっている。この日(7月半ばごろ)は自転車で行ったが、車を使っても市内からは1時間近くかかるのだろう。とても不便な場所だ。しかしながら、こんな小さな集落におそらく数百年も前から、ずっと人が暮らしてきたのだということに驚かされる。

樒原



樒原というのは、右京区の北西端にある小さな集落。しきみがはらと読む。嵐山から清滝方面へ進んで、八丁峠から保津峡に抜け、さらにそこから山を登って、水尾の集落と神明峠を越えるとようやくたどりつける。山間の狭い平地に家が密集していて、谷へとつづく斜面には、棚田が広がっている。この日(7月半ばごろ)は自転車で行ったが、車を使っても市内からは1時間近くかかるのだろう。とても不便な場所だ。しかしながら、こんな小さな集落におそらく数百年も前から、ずっと人が暮らしてきたのだということに驚かされる。

2011年10月5日水曜日

ベルンで考えたこと

写真を貼ったりしないと、ブログのデザイン的になんだか寂しい雰囲気になってしまうと思ったので、これまで旅行に出かけた場所のこと、特に気に入った街のことなどを書こうと思う。


写真はスイス・ベルンの旧市街にある時計塔。ベルン市旧市街は世界遺産に登録されている。昨年末にフランスを訪れた際に、これまでドイツ語圏だけどスイスには行ったことがなかったので、行くことにした。なぜベルンに行こうと思ったのかは、よく覚えていない。おそらくウィキペディア等で写真を目にして、心惹かれたのだろう。あとはパウル・クレー、アドルフ・ヴェルフリ、ヴァルター・ベンヤミンなど関心のある人物にゆかりのある町だからだろうか。


2010年〜11年の年末年始は、欧州がとんでもない寒さで、パリも13年前に訪れた時とはまったく異なる寒さだった。ドイツでは、列車がストップするほどの積雪だったらしい。"Winter, Weihnachten, Wahnsinn!!!" という見出しをスポーツ新聞で見た。スイスに入国した2011年1月1日は、もうだいぶ寒波は和らいでいて、いちおう日本でも東北地方で経験したことがあるくらいの寒さだった。


それまでフランス語ばかりのパリにいたので、ドイツ語が町の至る所に書いてあるベルンの町は、とにかくさまざまな情報が視覚的に理解できるのでありがたかった。ドイツ語会話はぜんぜん得意ではないが、とりあえず旅行くらいで困ることはなかろうという自負はあった。しかし驚いたことにスイスでは私のドイツ語はちっとも通じなかった。ベルンでの一日目は少しショックだったのだが、ホテルで女将さんが、他のお客さんと電話で話しているのを聞いて、ハッとした。彼女が話している言葉が、さっぱり理解できなかったのだ。言葉の端々に出てくる前置詞や分離動詞の前綴りなどで、おそらくドイツ語だとはわかるのだが、少なくとも私が知っているドイツ語ではない。これがスイスドイツ語なのか。東京外大が開発した会話教材を見て、いちおうどんなものかは知っていたが、実際に耳にするのは初めてだった。電話が終わると、女将さんは私の方ににっこり笑って、即座に「わかりやすいドイツ語」で話しかけた。当然のことながら、彼女たちスイスの人は、標準ドイツ語と自分たちのスイスドイツ語とを、きっちり使い分けているのだ。


ベルンにいて、最初に奇異な感じがしたのは、美術館や博物館、ホテルやデパートなどに行っても、こちらが口を開かない限り、係や店員が あいさつをすることはないのだ。彼らは来客の挨拶によって、言語のスイッチを切り替えているのだ。女将さんの電話を見て、最初に抱いた奇異な感じが何だか理解できた。そして、彼らに私のドイツ語があまり通じない理由も推測できた。おそらく彼らの多くは、英語・仏語・独語・伊語そしてスイス語などで会話することができるのだろう。だが、そうやって多言語を使い分けるがゆえに、それぞれの言語を聞き取る際の、幅というかストライクゾーンというか、つまりドイツ語として受容できる範囲が、ドイツのドイツ語話者よりも狭いのではないだろうか。ドイツ人は外国人労働者や旅行者の下手なドイツ語を聞き慣れている。しかしスイスの人々はそこまで各言語に通じているわけではないのかもしれない。未だに推測の範囲をでないが、そんなことをベルンで考えた。

スイスにおける方言については、今後ももっと詳しく勉強したいと思っている。

ベルンで考えたこと

写真を貼ったりしないと、ブログのデザイン的になんだか寂しい雰囲気になってしまうと思ったので、これまで旅行に出かけた場所のこと、特に気に入った街のことなどを書こうと思う。


写真はスイス・ベルンの旧市街にある時計塔。ベルン市旧市街は世界遺産に登録されている。昨年末にフランスを訪れた際に、これまでドイツ語圏だけどスイスには行ったことがなかったので、行くことにした。なぜベルンに行こうと思ったのかは、よく覚えていない。おそらくウィキペディア等で写真を目にして、心惹かれたのだろう。あとはパウル・クレー、アドルフ・ヴェルフリ、ヴァルター・ベンヤミンなど関心のある人物にゆかりのある町だからだろうか。


2010年〜11年の年末年始は、欧州がとんでもない寒さで、パリも13年前に訪れた時とはまったく異なる寒さだった。ドイツでは、列車がストップするほどの積雪だったらしい。"Winter, Weihnachten, Wahnsinn!!!" という見出しをスポーツ新聞で見た。スイスに入国した2011年1月1日は、もうだいぶ寒波は和らいでいて、いちおう日本でも東北地方で経験したことがあるくらいの寒さだった。


それまでフランス語ばかりのパリにいたので、ドイツ語が町の至る所に書いてあるベルンの町は、とにかくさまざまな情報が視覚的に理解できるのでありがたかった。ドイツ語会話はぜんぜん得意ではないが、とりあえず旅行くらいで困ることはなかろうという自負はあった。しかし驚いたことにスイスでは私のドイツ語はちっとも通じなかった。ベルンでの一日目は少しショックだったのだが、ホテルで女将さんが、他のお客さんと電話で話しているのを聞いて、ハッとした。彼女が話している言葉が、さっぱり理解できなかったのだ。言葉の端々に出てくる前置詞や分離動詞の前綴りなどで、おそらくドイツ語だとはわかるのだが、少なくとも私が知っているドイツ語ではない。これがスイスドイツ語なのか。東京外大が開発した会話教材を見て、いちおうどんなものかは知っていたが、実際に耳にするのは初めてだった。電話が終わると、女将さんは私の方ににっこり笑って、即座に「わかりやすいドイツ語」で話しかけた。当然のことながら、彼女たちスイスの人は、標準ドイツ語と自分たちのスイスドイツ語とを、きっちり使い分けているのだ。


ベルンにいて、最初に奇異な感じがしたのは、美術館や博物館、ホテルやデパートなどに行っても、こちらが口を開かない限り、係や店員が あいさつをすることはないのだ。彼らは来客の挨拶によって、言語のスイッチを切り替えているのだ。女将さんの電話を見て、最初に抱いた奇異な感じが何だか理解できた。そして、彼らに私のドイツ語があまり通じない理由も推測できた。おそらく彼らの多くは、英語・仏語・独語・伊語そしてスイス語などで会話することができるのだろう。だが、そうやって多言語を使い分けるがゆえに、それぞれの言語を聞き取る際の、幅というかストライクゾーンというか、つまりドイツ語として受容できる範囲が、ドイツのドイツ語話者よりも狭いのではないだろうか。ドイツ人は外国人労働者や旅行者の下手なドイツ語を聞き慣れている。しかしスイスの人々はそこまで各言語に通じているわけではないのかもしれない。未だに推測の範囲をでないが、そんなことをベルンで考えた。

スイスにおける方言については、今後ももっと詳しく勉強したいと思っている。