学部4年生の春(1999年)に、出たばかりの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』の邦訳を夢中で読んで、卒論の指導教授に、こういう研究がしたい、と話したら、ちょうど先生も『Aufschreibesystem 1800-1900』を持っていて、ぜひ読んでみるよう勧めてくださったことをよく覚えている。卒論では、とくにキットラーの文献を使うことはなかったが、それから数年が過ぎて、いつの間にか"Aufschreibesystem"そのもの(すなわち元ネタであるシュレーバー『回想録』の用語、「筆記制度」)について考えることになるとは、奇妙なめぐり合わせである。
話は変わるが、これまで発表してきた論文の多くが、京大のレポジトリに登録されているので、このブログでも直接ファイルをアップして、多くの人に利用できるようにしておきたい。論文ファイルに加えて、内容の簡単な紹介も付け加えておく。
論文「言葉をめぐるたたかい―シュレーバーと雑音の世界―」は、京都大学大学院独文学研究室の雑誌『研究報告』第18号に掲載された。
そもそもこの論文に書かれている内容は、2004年春に提出した修士論文のうちの一章を元にしている。修士論文は全体で5章からなり、長さも400字詰め換算で300枚程度と、かなり長かったのだが、他の4章よりも自分としてはこの論文の元になった、第三章がもっとも気に入っていたし、書いていて楽しかった。だから内容を若干訂正して、一本の論文として投稿した。
この論文で主題となっているのは、シュレーバーにおける言葉と雑音の関係である。シュレーバーは、神との神経接続によって、ひっきりなしに神や魂たちの声を聴き続けなければならなくなってしまった。この外的なノイズと、それに対抗するために講じる、音楽を奏でたり詩を暗唱したりという行為から、シュレーバーにおける言葉(=意味を持った音声)と無意味な雑音との関係を考察している。シュレーバーは音楽を奏でるだけでなく、ジンフォニオンや自動ハーモニカのような自動演奏楽器も利用するのだが、音楽再生装置を使用することにより、意味を持った音楽と言葉の世界を離れ、雑音のカオスへと取り込まれることになる。シュレーバーは無意味な雑音(録音された音楽におけるノイズや、機械の動作音、鳥の鳴き声など)にも、人間の言葉を聞きとってしまう。そこに彼の病があるのだが、考えてみれば私達の世界にも、ノイズは溢れている。私たちが目にするインターネット上の言説や、テレビのコマーシャルもノイズだ。膨大な量のことばが、日々私達の周りを飛び交っているが、どうして私たちは、それらのノイズ的言説を、自分自身に向けられたものとして受けとめることがないのだろうか。いや、そうではない。無視しているつもりでも、私たちの言葉は、そのようなノイズによって侵食されている。自分が考えもしなかったことが、急に思いついたり、ふとテレビや新聞で見た出来事に、思考をかき乱されたりすることがあるだろう。シュレーバーの病であった、神経接続は、私達にとってもけっして他人ごとではない。私たちの思考や発する言葉は、つねに、どこかで誰かが言っていることだし、それ自体が発せられた瞬間に、ノイズと一体化して、私たちを取り巻く音や言葉の環境を構成するのではないだろうか。
↓以下のPDFファイルは、見づらい場合は再読み込み(リロード)すると、大きくて見やすいウィンドウが開くと思います。
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