3月11日の日曜日に、第1回京都マラソンが開催された。
スタート地点は我が家からも程近い西京極の競技場。桂川から嵐山を経て、
広沢池、きぬかけの路を通って、金閣寺を迂回して上賀茂へ。そこから下鴨、鴨川沿い、
今出川・東大路を行ったりきたりして、岡崎平安神宮前でゴール、というコース。
3年前まではハーフマラソンが開催されていたが、規模を大きくしてリニューアルした
とのことだった。京都シティハーフのスタートは平安神宮で、当時の自宅からほど近かった
ので、3年前に出場した。当時も参加者が多すぎるな、と思ったし、ハーフとしては
参加費がかなり高額だと思った。たぶん5000円〜6000円くらい?ハーフなら相場は
2000〜4000円台までだ。田舎の小規模な大会であれば、4000円くらいのフルマラソンもある。
これだけ参加料を徴収しておいて、運営は赤字になっていたらしいので、こういう大都市で
道を塞ぐのにどれだけお金がかかるのかということが窺える。
それで、フルマラソン化した今回は、被災地への義援金も含めて参加料は15000円。
バカ高い。そして参加者も1万4,000人弱集めている。東京マラソンは3万人くらいが走った
らしいが、1万人を超えるマラソンというのは、そうとう広い会場でないとできない。
スタート地点の西京極陸上競技場では、スタート開始から数分たっても競技場内にすら
入れない人がいたそうだ。西京極駅は、ホームから人が落ちたり、階段で将棋倒しになったりしかねないほどの混雑だったという。
私は自宅から近い広沢池で、トップ選手から30分くらい応援していたが、帰ろうとしているときに、ランナーが路上に溜まっているのを見た。怪我人でも出たかと思ったが、交通整理の係の人が、緊急車両の通過だとか言ってランナーを止めていたのだ。救急車も消防車もまったく近くには見えなかった。それほど近づいてもいない車のために、ランナーが止められるなどということがマラソン大会でありうるのか?と不審に思った。
翌日ランナーズに投稿された大会の完走レポートで、やはりランナーが止められていたのは、緊急車両の通過のためなどではなく、運営側が、道路が混雑しすぎてしまうので交通整理のために行ったことだったと分かった。広沢池の手前で交通整理ということは、山越一条の交差点からの上り坂、および音戸山から下って福王寺の交差点手前の坂、というすぐ後に続く狭い道の区間があるからだろう。もちろん危険を避けるために、交通整理をするのは必要だ。だが、そもそも参加者には、途中で止められることがあるということについて説明がなかったというし、止めなければならないほど狭い道を使ったり、大人数を走らせたりすることが大きな問題ではないだろうか。
そう、簡単に言ってしまえば、京都のちいさな盆地では、フルマラソンのコースをとることは非常に困難なのだ。もちろん数十人が走る駅伝のコースくらいなら、交通規制の負担も小さいのでぜんぜん問題ない。だが、1万人を超える人が数時間にわたって走り続けるような大会で、すくなくとも京都市の中心部を通るコースを作るのは、相当に無理がある。
ランナーズのレポートでも、コースを見直すべきという意見が多かった。
そこで海外では、どのように大都市型マラソンのコースを作っているのか、いくつかのマラソン大会のコースを見てみた。ドイツでは、毎週のように都市型マラソンが開催されている。BMW主催のフランクフルトマラソンは、前半がゲーテハウスやザクセンハウゼンなど旧市街の名所、後半がフランクフルト方面(市内西部)という感じだが、前半15kmのコースがあまりに複雑。おそらく旧市街周辺に大きな道路(バイパスなど)がありそこを封鎖するわけには行かないから、中心街を何度も往復することにしたのだろう。一方おなじBMW主催のベルリンマラソンは、ブランデンブルク門をスタートし、Mitte北部をぐるっと回って、Kreuzberg, Steglitz, Zehlendorfと市内南西部を通って、ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門にゴール、というコース。一度も同じ所を通らずに、しかもベルリン中心部の半分くらいしか通過していないのに、ちゃんと42km取れている。自分で行った時にも、東京よりはるかに大きな町だとわかってたけど、改めてベルリンの大きさに驚かされる。
もし京都でもっと安全で快適なマラソンコースを作るとしたらどうしたらいいだろうか?市内中心部を使うことは諦めて、上賀茂から市原を越えて岩倉あたりまで行くコースを考えてみたが、これもやはり実現困難だろう。
2012年3月23日金曜日
京都マラソンに思うこと
3月11日の日曜日に、第1回京都マラソンが開催された。
スタート地点は我が家からも程近い西京極の競技場。桂川から嵐山を経て、
広沢池、きぬかけの路を通って、金閣寺を迂回して上賀茂へ。そこから下鴨、鴨川沿い、
今出川・東大路を行ったりきたりして、岡崎平安神宮前でゴール、というコース。
3年前まではハーフマラソンが開催されていたが、規模を大きくしてリニューアルした
とのことだった。京都シティハーフのスタートは平安神宮で、当時の自宅からほど近かった
ので、3年前に出場した。当時も参加者が多すぎるな、と思ったし、ハーフとしては
参加費がかなり高額だと思った。たぶん5000円〜6000円くらい?ハーフなら相場は
2000〜4000円台までだ。田舎の小規模な大会であれば、4000円くらいのフルマラソンもある。
これだけ参加料を徴収しておいて、運営は赤字になっていたらしいので、こういう大都市で
道を塞ぐのにどれだけお金がかかるのかということが窺える。
それで、フルマラソン化した今回は、被災地への義援金も含めて参加料は15000円。
バカ高い。そして参加者も1万4,000人弱集めている。東京マラソンは3万人くらいが走った
らしいが、1万人を超えるマラソンというのは、そうとう広い会場でないとできない。
スタート地点の西京極陸上競技場では、スタート開始から数分たっても競技場内にすら
入れない人がいたそうだ。西京極駅は、ホームから人が落ちたり、階段で将棋倒しになったりしかねないほどの混雑だったという。
私は自宅から近い広沢池で、トップ選手から30分くらい応援していたが、帰ろうとしているときに、ランナーが路上に溜まっているのを見た。怪我人でも出たかと思ったが、交通整理の係の人が、緊急車両の通過だとか言ってランナーを止めていたのだ。救急車も消防車もまったく近くには見えなかった。それほど近づいてもいない車のために、ランナーが止められるなどということがマラソン大会でありうるのか?と不審に思った。
翌日ランナーズに投稿された大会の完走レポートで、やはりランナーが止められていたのは、緊急車両の通過のためなどではなく、運営側が、道路が混雑しすぎてしまうので交通整理のために行ったことだったと分かった。広沢池の手前で交通整理ということは、山越一条の交差点からの上り坂、および音戸山から下って福王寺の交差点手前の坂、というすぐ後に続く狭い道の区間があるからだろう。もちろん危険を避けるために、交通整理をするのは必要だ。だが、そもそも参加者には、途中で止められることがあるということについて説明がなかったというし、止めなければならないほど狭い道を使ったり、大人数を走らせたりすることが大きな問題ではないだろうか。
そう、簡単に言ってしまえば、京都のちいさな盆地では、フルマラソンのコースをとることは非常に困難なのだ。もちろん数十人が走る駅伝のコースくらいなら、交通規制の負担も小さいのでぜんぜん問題ない。だが、1万人を超える人が数時間にわたって走り続けるような大会で、すくなくとも京都市の中心部を通るコースを作るのは、相当に無理がある。
ランナーズのレポートでも、コースを見直すべきという意見が多かった。
そこで海外では、どのように大都市型マラソンのコースを作っているのか、いくつかのマラソン大会のコースを見てみた。ドイツでは、毎週のように都市型マラソンが開催されている。BMW主催のフランクフルトマラソンは、前半がゲーテハウスやザクセンハウゼンなど旧市街の名所、後半がフランクフルト方面(市内西部)という感じだが、前半15kmのコースがあまりに複雑。おそらく旧市街周辺に大きな道路(バイパスなど)がありそこを封鎖するわけには行かないから、中心街を何度も往復することにしたのだろう。一方おなじBMW主催のベルリンマラソンは、ブランデンブルク門をスタートし、Mitte北部をぐるっと回って、Kreuzberg, Steglitz, Zehlendorfと市内南西部を通って、ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門にゴール、というコース。一度も同じ所を通らずに、しかもベルリン中心部の半分くらいしか通過していないのに、ちゃんと42km取れている。自分で行った時にも、東京よりはるかに大きな町だとわかってたけど、改めてベルリンの大きさに驚かされる。
もし京都でもっと安全で快適なマラソンコースを作るとしたらどうしたらいいだろうか?市内中心部を使うことは諦めて、上賀茂から市原を越えて岩倉あたりまで行くコースを考えてみたが、これもやはり実現困難だろう。
スタート地点は我が家からも程近い西京極の競技場。桂川から嵐山を経て、
広沢池、きぬかけの路を通って、金閣寺を迂回して上賀茂へ。そこから下鴨、鴨川沿い、
今出川・東大路を行ったりきたりして、岡崎平安神宮前でゴール、というコース。
3年前まではハーフマラソンが開催されていたが、規模を大きくしてリニューアルした
とのことだった。京都シティハーフのスタートは平安神宮で、当時の自宅からほど近かった
ので、3年前に出場した。当時も参加者が多すぎるな、と思ったし、ハーフとしては
参加費がかなり高額だと思った。たぶん5000円〜6000円くらい?ハーフなら相場は
2000〜4000円台までだ。田舎の小規模な大会であれば、4000円くらいのフルマラソンもある。
これだけ参加料を徴収しておいて、運営は赤字になっていたらしいので、こういう大都市で
道を塞ぐのにどれだけお金がかかるのかということが窺える。
それで、フルマラソン化した今回は、被災地への義援金も含めて参加料は15000円。
バカ高い。そして参加者も1万4,000人弱集めている。東京マラソンは3万人くらいが走った
らしいが、1万人を超えるマラソンというのは、そうとう広い会場でないとできない。
スタート地点の西京極陸上競技場では、スタート開始から数分たっても競技場内にすら
入れない人がいたそうだ。西京極駅は、ホームから人が落ちたり、階段で将棋倒しになったりしかねないほどの混雑だったという。
私は自宅から近い広沢池で、トップ選手から30分くらい応援していたが、帰ろうとしているときに、ランナーが路上に溜まっているのを見た。怪我人でも出たかと思ったが、交通整理の係の人が、緊急車両の通過だとか言ってランナーを止めていたのだ。救急車も消防車もまったく近くには見えなかった。それほど近づいてもいない車のために、ランナーが止められるなどということがマラソン大会でありうるのか?と不審に思った。
翌日ランナーズに投稿された大会の完走レポートで、やはりランナーが止められていたのは、緊急車両の通過のためなどではなく、運営側が、道路が混雑しすぎてしまうので交通整理のために行ったことだったと分かった。広沢池の手前で交通整理ということは、山越一条の交差点からの上り坂、および音戸山から下って福王寺の交差点手前の坂、というすぐ後に続く狭い道の区間があるからだろう。もちろん危険を避けるために、交通整理をするのは必要だ。だが、そもそも参加者には、途中で止められることがあるということについて説明がなかったというし、止めなければならないほど狭い道を使ったり、大人数を走らせたりすることが大きな問題ではないだろうか。
そう、簡単に言ってしまえば、京都のちいさな盆地では、フルマラソンのコースをとることは非常に困難なのだ。もちろん数十人が走る駅伝のコースくらいなら、交通規制の負担も小さいのでぜんぜん問題ない。だが、1万人を超える人が数時間にわたって走り続けるような大会で、すくなくとも京都市の中心部を通るコースを作るのは、相当に無理がある。
ランナーズのレポートでも、コースを見直すべきという意見が多かった。
そこで海外では、どのように大都市型マラソンのコースを作っているのか、いくつかのマラソン大会のコースを見てみた。ドイツでは、毎週のように都市型マラソンが開催されている。BMW主催のフランクフルトマラソンは、前半がゲーテハウスやザクセンハウゼンなど旧市街の名所、後半がフランクフルト方面(市内西部)という感じだが、前半15kmのコースがあまりに複雑。おそらく旧市街周辺に大きな道路(バイパスなど)がありそこを封鎖するわけには行かないから、中心街を何度も往復することにしたのだろう。一方おなじBMW主催のベルリンマラソンは、ブランデンブルク門をスタートし、Mitte北部をぐるっと回って、Kreuzberg, Steglitz, Zehlendorfと市内南西部を通って、ウンター・デン・リンデンからブランデンブルク門にゴール、というコース。一度も同じ所を通らずに、しかもベルリン中心部の半分くらいしか通過していないのに、ちゃんと42km取れている。自分で行った時にも、東京よりはるかに大きな町だとわかってたけど、改めてベルリンの大きさに驚かされる。
もし京都でもっと安全で快適なマラソンコースを作るとしたらどうしたらいいだろうか?市内中心部を使うことは諦めて、上賀茂から市原を越えて岩倉あたりまで行くコースを考えてみたが、これもやはり実現困難だろう。
2012年3月19日月曜日
人生経験値
35年も生きてくると、達成できたことだけでなく、
当然のことながらまだできていないことがたくさんある。
穂村弘氏が著作のなかで、星取表みたいに列挙していたのがおもしろかったので
ちょっとやってみようと思う。
思いつき次第、少しずつ更新して項目を増やしていく予定。
凡例:◯=経験済み、☓=未経験、△=微妙、◎=大いに
☆人生経験
結婚 ◯
同棲 △(一時的な居候のみ)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
浪人 ◯
留年 ◯
停学 ☓
退学 ◯(単位取得退学)
不登校 △(修士課程で不登校気味に)
皆勤賞 △(精勤ならあったかも)
車にはねられる ☓
バイクで転倒 ◯
線路に落ちる ☓
犬に噛まれる ◯
犬に噛まれる ◯
雪山で滑落 ◯
救助隊に助けられる ◯(怪我してないけど、スキーブーツ破損して滑走不能になったので)
海で溺れる ☓
海で溺れる ☓
遭難 ☓
難破 ☓
骨折 ☓
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯
☆資格・仕事系
普通自動車免許 ◯
普通自動二輪 ◯
英検 ◯
調理師 ☓
教員免許 ☓
修士号 ◯
博士号 △(たぶんこれから)
海外学位 ☓
代表取締役 ☓
正社員 ☓
ボーナス ◯
昇給 ◯
卒業式で花束 ◯
雇い止め △(学科が募集停止になった)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)
☆身体的
激ヤセ ◯
インフルエンザ ☓
40度の高熱 ☓
鼻血 ◎
水虫 ◯
成長痛 ☓
痔 ☓
ぎっくり腰 ☓
近眼 ◯
視力矯正手術 ◯
差し歯 ◯
血尿 ◯
血尿 ◯
出産 ☓
献血 ◯
献血 ◯
☆旅
ひとり旅 ◎
野宿 ☓
5つ星 ☓
ドミトリー ◯
テント泊 ◯
ヨーロッパ ◯
ハワイ ☓
沖縄 ◯
北海道 ◯
ウユニ塩湖 ☓
ニューヨーク ☓
中国 △
ロシア △
つくば万博 ◯
花博 ☓
とちぎ博 ☓
愛地球博 ☓
富士山 ☓
比叡山 ◯
足尾銅山 ◯
☆輝かしい経験
ホームラン ◯
ハットトリック ☓
一本勝ち ◯
サービスエース ☓(サーブ苦手)
マラソン完走 ◯
バスケットのシュート ☓(入ったことない)
タイブレーク ☓(テニスの公式戦勝ったことない)
逆上がり ◯
はやぶさ飛び ◯(たぶんできた)
一輪車 ◯(これも30年以上やってない)
テストで100点 ◯
☆食べ物等
しもつかれ ◎
フォアグラ ◯
からすみ ◯
ほや ◯
うに ◯
フランス料理、コース ◯
タイ米 ◯
ドリアン ◯
ドラゴンフルーツ ◯
ざざむし ☓
イナゴ ◯
蜂の子 ☓
甘いしょうゆ ☓
伊勢うどん ◯
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)
こうやって書きだしてみるといろんな項目があっておもしろい。
今回これを書きだしたのは、じつはバスケットボールでシュートが入ったことが一度もないのを、ふと思いだしたからだった。
人生経験値
35年も生きてくると、達成できたことだけでなく、
当然のことながらまだできていないことがたくさんある。
穂村弘氏が著作のなかで、星取表みたいに列挙していたのがおもしろかったので
ちょっとやってみようと思う。
思いつき次第、少しずつ更新して項目を増やしていく予定。
凡例:◯=経験済み、☓=未経験、△=微妙、◎=大いに
☆人生経験
結婚 ◯
同棲 △(一時的な居候のみ)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
離婚 ☓
マイホーム購入 ☓
車購入 ☓
風呂なしアパート ◯
雨漏り ◯
自然災害で被災 △(職場が床上浸水)
浪人 ◯
留年 ◯
停学 ☓
退学 ◯(単位取得退学)
不登校 △(修士課程で不登校気味に)
皆勤賞 △(精勤ならあったかも)
車にはねられる ☓
バイクで転倒 ◯
線路に落ちる ☓
犬に噛まれる ◯
犬に噛まれる ◯
雪山で滑落 ◯
救助隊に助けられる ◯(怪我してないけど、スキーブーツ破損して滑走不能になったので)
海で溺れる ☓
海で溺れる ☓
遭難 ☓
難破 ☓
骨折 ☓
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯
入院 ☓
禁煙 ◯
禁酒 ◯
☆資格・仕事系
普通自動車免許 ◯
普通自動二輪 ◯
英検 ◯
調理師 ☓
教員免許 ☓
修士号 ◯
博士号 △(たぶんこれから)
海外学位 ☓
代表取締役 ☓
正社員 ☓
ボーナス ◯
昇給 ◯
卒業式で花束 ◯
雇い止め △(学科が募集停止になった)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)
飲食業 ◯
コンビニ ◯
マクド ◯
家庭教師 ☓
塾講師 ◯
餅つき屋 ☓(面接行くも断念)
☆身体的
激ヤセ ◯
インフルエンザ ☓
40度の高熱 ☓
鼻血 ◎
水虫 ◯
成長痛 ☓
痔 ☓
ぎっくり腰 ☓
近眼 ◯
視力矯正手術 ◯
差し歯 ◯
血尿 ◯
血尿 ◯
出産 ☓
献血 ◯
献血 ◯
☆旅
ひとり旅 ◎
野宿 ☓
5つ星 ☓
ドミトリー ◯
テント泊 ◯
ヨーロッパ ◯
ハワイ ☓
沖縄 ◯
北海道 ◯
ウユニ塩湖 ☓
ニューヨーク ☓
中国 △
ロシア △
つくば万博 ◯
花博 ☓
とちぎ博 ☓
愛地球博 ☓
富士山 ☓
比叡山 ◯
足尾銅山 ◯
☆輝かしい経験
ホームラン ◯
ハットトリック ☓
一本勝ち ◯
サービスエース ☓(サーブ苦手)
マラソン完走 ◯
バスケットのシュート ☓(入ったことない)
タイブレーク ☓(テニスの公式戦勝ったことない)
逆上がり ◯
はやぶさ飛び ◯(たぶんできた)
一輪車 ◯(これも30年以上やってない)
テストで100点 ◯
☆食べ物等
しもつかれ ◎
フォアグラ ◯
からすみ ◯
ほや ◯
うに ◯
フランス料理、コース ◯
タイ米 ◯
ドリアン ◯
ドラゴンフルーツ ◯
ざざむし ☓
イナゴ ◯
蜂の子 ☓
甘いしょうゆ ☓
伊勢うどん ◯
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)
酒粕焼酎 ◯(藁のような味)
こうやって書きだしてみるといろんな項目があっておもしろい。
今回これを書きだしたのは、じつはバスケットボールでシュートが入ったことが一度もないのを、ふと思いだしたからだった。
2012年3月17日土曜日
1982年、500円玉と新幹線(2)
小学校にあがる前 4歳年下のいとこと |
日ごろ論文検索に使っているCINIIやMAGAZINEPLUSで検索すると
500円硬貨について、いくつかの雑誌記事がひっかかった。
(予想していたことだが、学術論文はまったく見つからなかった。)
夕方図書館でコピーしたのが、1984年に「朝日ジャーナル」8月31日号に掲載された、
「日常からの疑問18 シリーズ・こんなものいらない!?500円硬貨」と題された記事である。
1984年といえばロサンゼルスオリンピックのころ。私が覚えてる一番古いオリンピックだ。
500円硬貨の登場は82年の4月。ということは登場からすでに一年半も経過したあと
ということになる。執筆者は朝日ジャーナル記者の宮本貢というひと。
ちなみにこの雑誌の同じ号には「現代の若者のカリスマ」というグラフ記事で
村上龍(当時32歳)が取り上げられている。
この記事での主張を簡単にまとめると、このところ500円玉が出回るようになったが、
どうにも使いにくくてなるべく早く手放したくてしょうがない、これはけっして作者だけの
感覚ではなく、わりと世の中に広く共有されているものである、といったところ。
ではなぜ宮本は、500円玉を忌避するのだろうか。
主だった理由としては、必要ないということ、重すぎること、札のほうが管理しやすいこと
などを三和銀行のアンケート結果とともに列挙している。
この、500円玉が「重い」という印象は現在の私たちにとって違和感を覚えるところではないか。
たしかに私が初めて父から500円玉をもらったときには、なにか宝物のような、
優勝のメダルのようなものを手にしたかのような、ずっしりとしたカタマリという印象を
抱いた。それは私がまだ6歳の幼児だったからかもしれないとも思っていたのだが、
この記事を見る限りは、大人にとっても500円玉の大きさや重さはなにやら奇妙な
ものだったのだろう。
それから500円玉が必要ない、使いにくいという感覚もよくわからない。
私の場合、500円玉を使う場面といえば、たばこを買うときのことを思い出す。
いまはやめてしまったけど、喫煙者だったころには、たいていいつも500円玉を
投入していたはずだ。
なぜなら、ちょっと前までたばこは200円台後半という中途半端な額だったし、
1000円札を入れるとおつりが大量に出てきて困ったりもしたからだ。
また、たばこでなくても、ジュースやお茶などを買う際にも、500円玉ならたいていのものが買えるし、10円玉や100円玉を何種類も小銭入れに入れておかなくてもいいので便利だ。
だが、このような感覚は、500円玉を基準にした物価体系の中に生きているからこそ
成り立ちうるものだということを忘れてはならない。
記事から1984年当時の物価水準を想像することは難しいが、調べたところによると
このころのたばこ一箱の値段は200円前後。(私が見たデータではハイライトの値段が、
83年から84年にかけて、170円から200円に上がったことになっている。ということは、
いまのたばこもそうであるように、84年当時でも、200円以下の銘柄だってあったかも
しれないということだ。)
コーラやファンタなどは確か消費税導入まではどこでも100円ちょうどだった。
ということは、たばこにせよ、ジュースにせよ、100円玉を数枚用意しておけば
ことたりるわけで、なにも重たい500円玉をジャラジャラさせておく必要はないのだ。
さらに記事の中でも触れられているように、84年の11月に新紙幣(夏目漱石の
1000円札)が登場することになっていたため、500円玉に対応する自販機の導入が
遅れていたという事情も関係している。
それゆえ、記者が述べるように、ちょうどこの時期500円玉は自販機でつかえないし、
たばこやジュースを買うにはやや額面が大きすぎる、ちょっと使いづらい硬貨として
認識されていたということなのだろう。
ずいぶん長くなったのでいったんまとめておこう。
東北新幹線(1984年開通)とともに私の幼年時代の記憶として刻まれている500円玉の
印象だが、その重さやスペシャル感というのは、大人社会においては違和感や拒絶感
として受け入れられていた。そして大人たちが500円玉を手にしたときの、何となく決まり悪い
思いは、それがモノの価値が大きく変動する時代の入り口にたっていたことを意味している。
それまでの100円玉数枚を中心としていたモノの価値体系は、おそらく82年の500円玉導入、
および新札の発行、そして89年の消費税のスタートによって決定的に、500円玉を中心とする
体系へとシフトしていったと考えられよう。
そしておそらく私たちにとって、現在の物価もいまだ500円硬貨を一つの単位とする
価値の体系をそのままにとどめているといえるのではないだろうか。
1982年、500円玉と新幹線(2)
小学校にあがる前 4歳年下のいとこと |
日ごろ論文検索に使っているCINIIやMAGAZINEPLUSで検索すると
500円硬貨について、いくつかの雑誌記事がひっかかった。
(予想していたことだが、学術論文はまったく見つからなかった。)
夕方図書館でコピーしたのが、1984年に「朝日ジャーナル」8月31日号に掲載された、
「日常からの疑問18 シリーズ・こんなものいらない!?500円硬貨」と題された記事である。
1984年といえばロサンゼルスオリンピックのころ。私が覚えてる一番古いオリンピックだ。
500円硬貨の登場は82年の4月。ということは登場からすでに一年半も経過したあと
ということになる。執筆者は朝日ジャーナル記者の宮本貢というひと。
ちなみにこの雑誌の同じ号には「現代の若者のカリスマ」というグラフ記事で
村上龍(当時32歳)が取り上げられている。
この記事での主張を簡単にまとめると、このところ500円玉が出回るようになったが、
どうにも使いにくくてなるべく早く手放したくてしょうがない、これはけっして作者だけの
感覚ではなく、わりと世の中に広く共有されているものである、といったところ。
ではなぜ宮本は、500円玉を忌避するのだろうか。
主だった理由としては、必要ないということ、重すぎること、札のほうが管理しやすいこと
などを三和銀行のアンケート結果とともに列挙している。
この、500円玉が「重い」という印象は現在の私たちにとって違和感を覚えるところではないか。
たしかに私が初めて父から500円玉をもらったときには、なにか宝物のような、
優勝のメダルのようなものを手にしたかのような、ずっしりとしたカタマリという印象を
抱いた。それは私がまだ6歳の幼児だったからかもしれないとも思っていたのだが、
この記事を見る限りは、大人にとっても500円玉の大きさや重さはなにやら奇妙な
ものだったのだろう。
それから500円玉が必要ない、使いにくいという感覚もよくわからない。
私の場合、500円玉を使う場面といえば、たばこを買うときのことを思い出す。
いまはやめてしまったけど、喫煙者だったころには、たいていいつも500円玉を
投入していたはずだ。
なぜなら、ちょっと前までたばこは200円台後半という中途半端な額だったし、
1000円札を入れるとおつりが大量に出てきて困ったりもしたからだ。
また、たばこでなくても、ジュースやお茶などを買う際にも、500円玉ならたいていのものが買えるし、10円玉や100円玉を何種類も小銭入れに入れておかなくてもいいので便利だ。
だが、このような感覚は、500円玉を基準にした物価体系の中に生きているからこそ
成り立ちうるものだということを忘れてはならない。
記事から1984年当時の物価水準を想像することは難しいが、調べたところによると
このころのたばこ一箱の値段は200円前後。(私が見たデータではハイライトの値段が、
83年から84年にかけて、170円から200円に上がったことになっている。ということは、
いまのたばこもそうであるように、84年当時でも、200円以下の銘柄だってあったかも
しれないということだ。)
コーラやファンタなどは確か消費税導入まではどこでも100円ちょうどだった。
ということは、たばこにせよ、ジュースにせよ、100円玉を数枚用意しておけば
ことたりるわけで、なにも重たい500円玉をジャラジャラさせておく必要はないのだ。
さらに記事の中でも触れられているように、84年の11月に新紙幣(夏目漱石の
1000円札)が登場することになっていたため、500円玉に対応する自販機の導入が
遅れていたという事情も関係している。
それゆえ、記者が述べるように、ちょうどこの時期500円玉は自販機でつかえないし、
たばこやジュースを買うにはやや額面が大きすぎる、ちょっと使いづらい硬貨として
認識されていたということなのだろう。
ずいぶん長くなったのでいったんまとめておこう。
東北新幹線(1984年開通)とともに私の幼年時代の記憶として刻まれている500円玉の
印象だが、その重さやスペシャル感というのは、大人社会においては違和感や拒絶感
として受け入れられていた。そして大人たちが500円玉を手にしたときの、何となく決まり悪い
思いは、それがモノの価値が大きく変動する時代の入り口にたっていたことを意味している。
それまでの100円玉数枚を中心としていたモノの価値体系は、おそらく82年の500円玉導入、
および新札の発行、そして89年の消費税のスタートによって決定的に、500円玉を中心とする
体系へとシフトしていったと考えられよう。
そしておそらく私たちにとって、現在の物価もいまだ500円硬貨を一つの単位とする
価値の体系をそのままにとどめているといえるのではないだろうか。
1982年、500円玉と新幹線(1)
2009年に今の職場に入って、最初に初年次演習の授業でやったプログラムが、「自分史年表」をつくる、というものだった。彼らが生まれた1990年から現在までのさまざまな社会の出来事や、自分にとって重要だった出来事を、新聞や資料で調べながらまとめるという課題だった。
私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。
ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。
さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。
新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。
私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
落下傘花火を拾ってきた私。 何歳だったのか分からない。 |
それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。
ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。
さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。
新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。
1982年、500円玉と新幹線(1)
2009年に今の職場に入って、最初に初年次演習の授業でやったプログラムが、「自分史年表」をつくる、というものだった。彼らが生まれた1990年から現在までのさまざまな社会の出来事や、自分にとって重要だった出来事を、新聞や資料で調べながらまとめるという課題だった。
私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。
ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。
さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。
新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。
私はこれがすごく面白いと思って、さっそく学生にやらせるまえに、自分で自分史を年表にしてみた。1976年生まれの私にとって、記憶がはっきりしてくるのは、1982年ごろからだ。子供時代のいちばん大きな思い出は、85年のつくば万博に行ったことだった。(83年にはTDLが開園しているが、我が家では家族旅行で遊園地に行くことはなかったので、実際に行ったのは中学3年の秋だった)10代までの私にとっては、85年以前は幼少期、以後は現代史みたいな扱いだった。
落下傘花火を拾ってきた私。 何歳だったのか分からない。 |
それから自我の芽生えというか、自分の現在につながる関心が芽生えたのが、89年のベルリンの壁崩壊だった。中学校に入った年だったし、担任の社会の先生にニュースの意味を聞いたり、新聞の切り抜きを集めたりしたものだった。
ところが、実際に教室で学生に自分史年表を作らせると、驚くほど反応がなかった。自分自身の歴史を振り返ることはできても、それを社会的な出来事に関係付けるという視点が、殆どの学生に見られなかったのだ。いじめられた学校生活を思い出すのが嫌、という子もすごく多かった。彼らの反応のなさを、彼らの世間への関心のなさや知的レベルの低さに結びつける気はない。自分の過去と社会の出来事を結びつけて考えるようになるのは、もしかしたら彼らがもっと大人になってからできるようになるかもしれない。その時は、そう思うことにした。
さて、私にとって最も古い、社会的な出来事の記憶とは、82年に東北新幹線が開業したことと、500円硬貨が発行されたことだった。隣町の小山駅がおおきく改装され、新幹線のホームができ、祖父母が暮らす宮城県まで、新幹線で一気に行けるようになったのだ。おそらく開通から間もない時期に、父に連れられて仙台まで行ったはずだ。車酔いがひどくて遠出するのが嫌いだった私にとって、新幹線は救いだった。
新幹線の歴史やそれがもたらした社会的な変化については現在でも容易に調べることができるが、いっぽうの500円硬貨については、それが当時どのような事情で作られたのか、そしてどのように受容されたのかということはなかなかよくわからなくなっている。そこで当時バイトしていた総合人間学部図書館の資料を使って、このことを調べてみた。(2)につづく。
2012年3月16日金曜日
私たちはどうやって水を飲んでいたのか
かつてmixiに書いた(2010,7,3)文章がけっこう面白いので、こっちに載せておこうと思う。
夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。
ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。
ローソンのバックルームはとても狭くて、夜勤の時はイスに座って壁に もたれかかるくらいしか休むすべがなかった。店でもベテランの兄さんは、 狭い狭いバックルーム(というより冷蔵庫裏の通路)に、広げたダンボール を敷いて、むりやりに横になっていた。
いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。
夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。
しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。
そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。
和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。
大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。
その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが)
京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。
いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。
さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。
もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。
ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。
『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。
夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。
ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。
伏見、御香宮神社。名水をペットボトルに汲む人 |
いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。
夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。
しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。
そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。
和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。
大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。
その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが)
京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。
いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。
さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。
もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。
ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。
『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。
私たちはどうやって水を飲んでいたのか
かつてmixiに書いた(2010,7,3)文章がけっこう面白いので、こっちに載せておこうと思う。
夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。
ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。
ローソンのバックルームはとても狭くて、夜勤の時はイスに座って壁に もたれかかるくらいしか休むすべがなかった。店でもベテランの兄さんは、 狭い狭いバックルーム(というより冷蔵庫裏の通路)に、広げたダンボール を敷いて、むりやりに横になっていた。
いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。
夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。
しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。
そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。
和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。
大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。
その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが)
京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。
いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。
さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。
もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。
ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。
『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。
夕方大学の図書館で、偶然手にとった『民博通信』の 特集がとてもおもしろかったので、その後家に帰ってからしばらく 考えてみた。
『民博通信』の特集はペットボトル。この10年余りで世の中に一気に 広がったのが、携帯電話とペットボトルだ。携帯についてはこれまでにも なんどか考える機会があったけど、思えばペットボトルもちょうど私が 大学に入る頃から、大学院で京都に移るころに爆発的に普及していたのだ。
ペットボトル飲料が爆発的に市場に出回るようになったのは90年代の後半。 ちょうど渋谷の町外れのコンビニでバイトしていた頃だ。飲み物の棚に 毎シーズンごとにペットボトルが増え、店のバックルームから在庫が あふれるようになった(ボトルのほうが場所とるから)のを覚えている。
伏見、御香宮神社。名水をペットボトルに汲む人 |
いまでこそ、学生たちも私たち大人もかばんのなかにペットボトルを持ち歩くようになったけど、90年代の当時は、あんな重たくてかさばるもの、持ち歩きたくないな、と思っていた。 当時は毎日独和辞典をもって大学に行ってたわけだし。月曜日は英語の授業もあったので、ジーニアスとマイスター独和とを、紙袋に入れてリュックとは別に持ち歩いていた。
夕方からなんども自分の記憶を掘り起こしているんだけど、当時はペットボトルの飲料ではなく、何を飲んでいたんだろう?お昼には、いつも頭が良くなるように頭脳パンを食べていた。(ココア味が気に入っていた)そしてたぶん缶コーヒーとか飲んでいたはずだ。
しかし缶コーヒーだけでは、喉が乾く。とくにあのころは煙草を吸ってたし。当時の和泉校舎1号館には、ほうぼうに喫煙スペースがあったし、喫煙スペースじゃなくても学生たちは煙草を吸っていた。ベンチと灰皿と、ゴミ箱があるスペース。授業のあいまの休み時間には、友人たちとそこにたまっておしゃべりをしたりタバコを吸ったりしていた。体育会サッカー部のクラスメートが、誰かの飲み干した空き缶を、10メートルくらい離れたゴミ箱に向けて、信じられない精度で蹴り込む芸を見せてくれたのも、たしかこの場所である。
そしてタバコを吸ったあとには、そばにあった冷水機から水を飲んでいたはずだ。確かな記憶ではないが、休憩スペースとトイレの近くに冷水機が設置されていたはずだ。
和泉校舎に設置されていたか断言するのは難しいけど、すくなくとも高校にはあった。旧校舎と東校舎をつなぐ通路にあったはずだ。2階の二年生の校舎から、旧館にある三年生の校舎のあいだにあったと思う。一階の渡り廊下にあった自販機にはいちご牛乳とか、いまや全国レベルで人気のレモン牛乳が売ってたりしたが、飲み物は部活後に買うだけにとどめて、学校内では冷水機の水を飲んでいた。
大学4年のころバイトしてた西新宿の会社には、冷水機があったのだろうか。一階に大きな喫煙スペースがあって、そこできれいなOLさんと話したり、隣の部署の部長さんにビジネスのお話を聞くのが楽しかった。
その後京都に来てから、冷水機を見ていない。京大では附属図書館にいまでもあるけど、精華にはない。たぶん学内どこにも置いてないはずだ。(芸術系の校舎はほとんど中に入ったことがないのでわからないが)
京大の附属図書館じたい、いつ行っても(冬でも)暑くて好きじゃないんだけど、当然のことながら冷水機で水を飲んだことはない。たぶんいまとなっては、冷水機の水って危なそうで飲みたいと思えないのだ。
いま私たちが安心して飲めるのは、冷水機の水や学食にあるフリーのお茶よりも、自分でかばんからとりだしたペットボトルの飲料だ。たとえ重くても、かさばっても、自分で持ち歩いたほうがいいと私たちは思うようになっている。
さらにもうひとつ気づいたことなんだけど、最近の学生たちは、ペットボトルじゃなく、紙パックの飲み物もよく持ち歩いている。リプトンの500mlのミルクティーとかアップルティーとかだ。
もちろん自分だって、浪人時代には、腹の足しになるから、といつもお昼に500mlの牛乳を買って、全部飲んでから午後の授業に出ていた。でもいまの学生たちはちょっとちがう。ペットボトルと同じように、パックのミルクティーも持ち歩くのだ。こぼしそうで不安じゃないかと思うのだけど、彼女たちはいつも傍らに、口をとじた紙パックを置いている。
ペットボトルが普及したこの10年、私たちの水分の摂り方は大きく変わったし、持ち物の重さについての感覚も少し変わった。そして口が開いている紙パックという不安なものを持ち歩くことにためらいがなくなった。これも身体感覚の変容のひとつなんじゃないか。
『民博通信』にはラッパ飲みという語が使用されなくなって直飲みというようになった、という論考が載せられており、こちらもとても面白かった。私としては、飲み方だけでなく、水分の摂り方や持ち歩き方も変わってきたんじゃないかということをさらに付け足したい。
登録:
投稿 (Atom)