2013年11月22日金曜日

ルーズリーフ、ふせん、情報カード

勉強にさいしてどのように調べた情報や考えたことを記録し、整理するかは、非常に重要な問題である。勉強と一口にいっても、いろいろな勉強がある。試験のための勉強、授業のための勉強、語学の勉強、論文を書くための構想メモ、などなど。自分のこれまでの勉強を振り返ると、一冊のノートに順番に記入していくという方法よりも、基本的には一枚ずつバラバラの紙に書いていって、それを入れ替えたり並べ直したりして、一つのまとまった体系を作る、という方法をとってきたように思う。これは大学入試に向けての受験勉強から、博士論文、そして現在の勉強に至るまで一貫した傾向だ。そこで、私がこれまで愛用してきた、一枚ずつバラバラの紙―ルーズリーフ、ふせん、情報カード―について、どんなふうに使ってきたのかをまとめておきたい。

ルーズリーフ
おそらく予備校あたりから使っていたツール。高校時代にも使ったことはあったが、紙を補充するのがめんどくさくて、あまり使っていなかったと思う。ルーズリーフに、考えていることをメモし、文章化し、一枚一枚ためていく、というのは、学部時代の卒論を書くときに試みた方法だった。あのころはいきなりワープロソフトの白い画面に向かうのがいやで、えんぴつでスケッチをし、後にパソコンで清書をするつもりで、ルーズリーフにキーワードや本の一部分を引用して着想をまとめようとしたのだろう。この方法は、おそらく修士論文のころも同じようにやっていたはずだ。ルーズリーフにメモを書き、それを文章化し、ある程度まとまったらプリントアウトして、今度は文章を直しながらふたたびメモをとるという作業の繰り返しで、400字詰め300枚ほどの修論が書けた。当時は自分の書いたメモを、宝物のように大切にしていたと思うが、その後どこにしまったのか覚えていない。おそらくその後2回の引っ越しで捨ててしまったのだろう。ほんとうは論文を書き上げるまでの草稿や、論文に反映されない着想(ボツになった部分など)はのちのち役に立つのだろうけど、やっぱり一度書き上げてしまった題材については関心がなくなってしまうのかもしれない。

ふせん
メモを書けるような大きめの付箋は、博士課程の途中から愛用するようになった。私がいつも使っていたのは、7.5センチ四方のふせんだ。このくらい大きさがあれば、キーワードや文献情報だけでなく、ちょっとした着想とか思考のながれも書くことができる。そしてこのメモをPCの画面の端や手帳にはりつけたり、ある程度数がたまってきたら、ルーズリーフの上に貼り付けて並べて、論述の順番を考えたりした。博士論文のもとになった8本の論文は、おそらくこうしたふせんメモの積み重ねと、その並べ替え作業のなかから生まれてきた。あの頃は、一日のうち半分は文献を読み、半分は付箋を並べるという感じだったと思う。ふせんを使った作業のピークは、2012年春の博士論文のときだった。20インチのiMacのまわりに、色とりどりの付箋が、ライオンのたてがみのように張り付いていた。論の流れから、ちょっとした思いつきや、誤字の修正など、その場で気づいたことをすべて忘れないようにと付箋に書いては、Macの周りに貼り付けていた。3月の末に論文は完成し、それから夏休みに公聴会が終わるまで、Macのまわりには、赤やオレンジのたてがみがくっついていた。製本した論文を提出する頃、一区切りついた気分で、ようやくたまりにたまった付箋を全てはがした。

情報カード
情報カード。iPhoneの空箱がちょうどぴったり。

これまでの情報整理法の欠点を埋めるべく、この1年ほど使ってきたのが情報カードである。日頃の生活上のメモも、今後の研究計画も、講義内容の整理も、あらゆることに活用しているのが、カードである。ルーズリーフの欠点は、その大きさであった。私はとくに、パソコンで印刷した紙もルーズリーフも同じバインダーで管理していたため、B5などの小さいサイズではなく、いつもA4サイズをつかっていたので、どうしてもかさばって仕方がなかった。また、付箋の欠点は、保存しづらい点である。薄い紙で、裏にノリがついているため、付箋紙をそれだけでいつまでも保存しておくわけにはいかない。博論のさいに大量に書いた付箋紙のたてがみも、作業が終わったらゴミになってしまった。保存しておくのであれば、ルーズリーフや手帳など、何らかの台紙に貼り付けなければいけない。このような両者の欠点を解消しうるのが情報カードである。現在は5×3(125mm×75mm)およびB6(京大式といわれるサイズ)の二種類を併用しているが、どちらにしてもコンパクトだし、紙がしっかりしているので保存も容易である。とくに小さいほうの、5×3サイズは、毎日研究メモだけでなく、欲しい文献、授業のアイデア、日記など、様々な用途に愛用している。
情報カードを初めて使ったのは、実はけっこう昔のことだ。浪人時代、英語の勉強をするときに、例文を情報カードに書いてまとめて、毎日の通学中に見直すことを一年続けたら、英語は一番の得点源になった。この成功体験のために、大学でのドイツ語の勉強にもカードはときどき使っていた。もう20年近くまえのことだが、あれこれ回り道をした挙句にふたたび原点に帰ってきたようでおもしろいと思っている。

2013年9月19日木曜日

古いアパートの思い出


先日は大きな台風が来て、京都市内でも浸水・冠水などの被害があった。マラソン大会から帰宅して、朝まで死んだように眠る予定だったのに、夜中に緊急メールで何度も起こされた。翌日の昼にはほとんど天気は回復していたが、夜通し雨が横殴りに吹き付けていたため、玄関ドアの隙間から水が入り込んでいた。鉄筋コンクリート製のマンション7階でもこれだけの被害がでるのだから、かつて住んでいたような木造アパートだったら、どんな目に遭っていただろうか、とかつての下宿のことを思い出していた。

31歳で、風呂つき軽量鉄骨アパート(正確にはわからないけど、音がよく響くので壁は薄かった)に引っ越すまで、私が住んでいたのは、木造アパートばかりだった。東京で最初に住んだ部屋は、畳が傾いていて、入口の階段が崩れかけていた。そのため、4年目の春に取り壊しが決まった。大学4年次の後半を過ごしたアパートは、同じくかなり古い物件で、何年も人が住んでいなかった部屋だった。雨漏りはしていたが、友人と一緒に住んでいたのでさほどつらくはなかった。京都に引っ越して、大学院時代が終わる直前まで住んでいたのが、二部屋ある木造アパートだった。

東京時代のアパートM荘やT荘、そして2007年から結婚するまで住んでたG寺ハウスなどこれまで住んできた部屋は、総じてみなボロかったが、それでも遊びに来た友人や彼女からいい部屋だね、味があるね、と褒められることが多かった。しかし、京都のI荘だけは、おそらく誰にもいい部屋だと言われなかったはずだ。

大学院時代を過ごした木造アパートI荘は、四畳半の部屋二つがくっついた形になっているので、そこそこ広かったが、トイレは部屋の外、シャワーは下の階にあった。もちろん共同である。今思うとなぜああいう物件を選んでしまったのかよくわからないが、あの当時はトイレやシャワーが部屋になくても特に困ることはないと思っていたのだろう。たしかに古いアパートのトイレは、すごく狭かったり水が漏れたりとあまり快適なものではない。自室にあったら自分で掃除しないといけないし。それに比べるとI荘の場合は、いつも大家さんがきれいにお掃除してくれていたので、使うぶんには何も文句はなかった。
I荘の唯一良かったところは、隣の家の桜がすごくきれいな
ことだった。手にもっているのは2007年春にハマったきのこ栽培セット

だけど当然のことながら、自室にトイレがないというのは不便だった。体調が悪くて寝込んでいる時も、いちいちドアを開けて部屋の外にでないといけないし、雪が降る日や台風の日もなんどかあったはずだ。1階の共同シャワーも、朝の時間帯にはしばしば他の住人とかち合ってしまうし、真冬には水道が凍って熱湯しか出なくなることもあった。どうしてあの部屋で7年間もくらせてこれたのだろうか。今となっては、当時の自分があの不便さをどのように考えていたのかよく思い出すことができない。

2013年9月11日水曜日

コッホ先生について

先日の日記でも言及した映画『コッホ先生と僕らの革命』(2011年ドイツ)を、すでに10回くらい(そのうち3回くらいはドイツ語版で)見ている。何度見ても飽きないのは、ダニエル・ブリュール演じるコッホ先生のかっこ良さや、彼の生徒たちのかわいらしさのせいばかりではない。この映画は19世紀後半のドイツを舞台に、フットボールを最初にドイツの学校に導入したコッホ先生の奮闘と、それに対する学校や社会の反応を描いている。この映画から、フットボールの歴史だけでなく、ドイツでいまでも愛好されている体操(トゥルネン)とスポーツの関係、近代的な資本主義社会、大衆社会の到来という新たな時代とスポーツの関係もまた、読み取ることができる。ほんとうに何度も見ても面白いので、その面白さをネタバレにならない程度に、詳しく紹介したい。
直接フリーキックを決めるヨースト。






1)登場人物の世代と時代背景
本作において重要なのは(というより私にとって大変興味深いのは)時代背景ならびに登場人物の年代である。物語は1874年のドイツ、ブラウンシュヴァイクに英国帰りの青年コッホ先生が到着するところから始まる。コンラート・コッホは実在の人物で、1846年生まれ。物語の中でも言及されるが、普仏戦争が終結し、ドイツ帝国が成立した1871年ごろ、ちょうど彼は大学を終え世の中に出たと推測できる。(映画では、コッホは新任教師のように描かれているが、実際は大学を卒業後1868年から、ブラウンシュヴァイクのマルティノ・カタリネウム校に勤務している)また、コッホが担任を務める生徒たちは、Untertertia(9年制ギムナジウムの4年生)と言われているので、14,5歳、1860年ごろの生まれだと考えられる。そして、コッホに対立する理事長のハートゥングやボールを製造する体育用具メーカーのシュリッカーなどは、息子がギムナジウムに通っていることから、コッホより少し年長の1830〜40年ごろの生まれということになる。

2)ブッデンブローク家の人々との年代的な一致
映画を見ながら、こういう映像、どこかで見たような、と思い、すぐに最近あらたに映画化された、トーマス・マン原作の『ブッデンブローク家の人々』(2008年、日本語版は未公開)を思い出した。映像が似ているのは、撮られた年代が近いからではなく、物語中の時代がほぼ同じだからだ。原作となるマンの小説は、1835年から1877年まで、リューベックの商人ブッデンブローク家の四代に渡る栄枯盛衰を描いた物語である。『コッホ先生』の時代と重なるのは、『ブッデンブローク家』の最後の当主ハノーが描かれる場面である。体が弱かったハノーは、1861年生まれで1877年に亡くなってしまい、物語は幕を下ろす。また、ハノーの父で『ブッデンブローク家』の実質的な主人公であるトーマスは、1826年生まれで、ちょうど『コッホ先生』の生徒たちの父親世代である。

2つの物語はほぼ同じ時代に、同じように、旧来のブルジョワジーの没落と新たな階級の台頭というテーマを描いている。『ブッデンブローク家』では、商人で市の要職を務めるブッデンブローク家が、少しずつ没落していくが、『コッホ先生』では、没落するブルジョワに変わって、新たな階級が台頭し、新たな時代が訪れることも予告される。新たな時代、それはフットボールとともにもたらされる。

3)トゥルネン〈伝統〉とスポーツ〈新たな時代〉が出会う場面
オープニングで流れる体操の図。この当時、このような図入りの体操書がたくさん出版された。
私はこの映画を、日本語字幕がついた日本版と、ドイツで買ったドイツ語版の両方を持っている。内容は同じだろうと思っていたら、ドイツ語版には、使われなかったシーンが収録されていた。このカットされたシーンのなかに、ドイツの伝統スポーツであるトゥルネンと、コッホがもたらしたフットボールとが出会う場面がある。

フェンシングの練習に励む父ハートゥング。
息子はコッホから教えられたフットボールについて説明する。
コッホ先生と出会い、フットボールを教えられた級長のフェリックス・ハートゥングは、家に帰り、この新たなスポーツを、学園の理事長をつとめる父リヒャルトに伝える。執事を相手に庭でフェンシングのトレーニングに励む父に、ボールを足でゴールに蹴りこむんだ、と説明する息子。怪訝そうな顔で話を聞く父。フェンシングや生徒たちが学校でやらされている器械体操および徒手体操は、この時代の上流階級のたしなみである。それらは19世紀初め以降、ドイツの伝統的な「身体訓練」―スポーツではない―として行われてきた「体育」(トゥルネン)である。

はじめてフットボールを教えられたフェリックスは、ボールを上手く蹴ることができず、転んでしまう。現在の我々から見ると、なんで?と思うのだが、当時の人々は丸いボールを蹴ったことがなかったのだ。ボールを蹴るという動作は、彼らの体育にも、そして上流階級の子どもの遊びにも含まれていなかったのだと考えられる。いっぽう労働者階級の子であるヨーストは、子供の頃から空き缶や石を蹴って遊んでいたため、だれよりもボールを蹴るのが上手かったのだろう。

4)トゥルネン対スポーツ、旧世代対新世代の対立、3つの家族が象徴する階級
この映画の大きなテーマである、フットボールとともに到来する新たな時代は、3つの家族によって象徴的に表現される。

旧来のブルジョワ、ハートゥング家。級長のフェリックスは、父が学園の理事長で大きなお屋敷に住んでいる。食事のシーンで商売敵を破産させたと言っていたので、ブッデンブロークのように商売や市の要職を務めているのかもしれない。父親のハートゥング会長は、学園の堅物教師(ラテン語のボッシュ先生や体操のイェンゼン先生)らとともに、旧時代的な秩序を代表する人物として描かれている。

体育用具メーカーのシュリッカー家。コッホ先生を追い出そうと画策するフェリックスに対して、親コッホ派のリーダー的な役割を務めるオットー・L・シュリッカー。父があん馬やメディシンボールを製造する体育用具工場を経営しており、彼も授業の後は職人さんのもとで修行に励んでいる。着任間もないコッホが招かれたパーティで、父シュリッカーが「ここは数十年前までブタ小屋だった」と自らの社屋を説明していたように、彼の会社はこの数十年で急成長し、今後もフットボールの製造販売などで、息子に代替わりしても、さらに大きくなっていくことだろう。

そして労働者階級のボーンシュテット家。息子のヨーストは、校長らの国民教育の理念によって特別に入学を許可されるが、階級を理由にいじめにあってしまう。母は息子の学業を支えるために工場で働いている。父親が一切登場しないが、もしかしたら戦争で亡くなって母子家庭なのかもしれない。

この時代、ギムナジウムには上流階級の子弟だけでなく、シュリッカーのような新興ブルジョワジーやボーンシュテットのようなプロレタリアの子供たちも進学するようになっていた。しかしギムナジウムを終え、大学に進む生徒は半分もいなかったというので、ヨーストのように途中で学業を諦める者もめずらしくはなかったのだろう。

5)まとめ
以上のようにこの作品には、フットボールが初めてドイツに導入された当時の子どもたちの熱狂と大人たちの反感とが対称的に描かれているだけでなく、フットボールとともに始まる新たな時代、階級的な区別がゆるやかになり、だれもが高等教育を受け、スポーツを楽しむことができるような時代の到来が見て取れる。こういった中心的なテーマ以外にも、旧時代の象徴とされているトゥルネンが教育の現場でどのように行われていたのか、当時の学校教育の様子、学校における体罰など、さまざまな観点から、現代との違いや連続性について考えることができよう。





2013年9月10日火曜日

マラソンとその間に考えていること


走るのが趣味だというと、走っている間に何を考えているの?とよく聞かれる。妻にもよく聞かれる。だいたい毎日の日課としてやってるランニングのときには、その日あったことを反芻したり、何か気になることをじっくり考えなおしたりしている。今日であれば、今度の公募書類にはどんなことを書いたらいいのか、とか、今書いている論文はどういう予定で仕上げていったらいいか、なんてことを考えていたと思う。妻とケンカした日は、そのことも考える。そして、面白いのは、小一時間にわたって走りながら考え事をしていても、帰宅する頃にはだいたい何もかも忘れているということだ。嫌なことを考えていても、帰ってくると忘れる。たぶんこれは、二十代の頃にいつも通っていた銭湯と同じ効能ではないかと思う。銭湯に浸かるときも、いろいろなことを考えているが、サウナに浸かり、水風呂に入り、そして熱湯へというサイクルを何度も繰り返すうちに、考えていたことはだいたい忘れて、さっぱりした気分になる。
銭湯のことはともかく、こうやってこの5年くらいの間、走ることで生きているうちに生じるいろいろな辛いことを気にせずに乗り切ってきたのだろうと思う。しかし、何も残らないのでは、研究や仕事のことを考えても意味が無いような気もする。

マラソン大会に出ると、走る時間は当然もっと長くなる。フルマラソンなら、私の場合は4時間以上もかかってしまうので、考えることもたくさんある。でもたいてい、マラソン大会のように遠いところに出かけて、見知らぬ場所を走るときには、一人で考え事をするよりも、純粋に周りの景色を見て楽しんでいる。サイクリングやドライブに行くときと同じように、あのカーブを曲がったら何が見えるかな?わーい、きれいな海だな―といった具合に、自然の景色を眺めるのが何より楽しい。ドレスデンでの10kmレースや、京都のハーフマラソンのように、自分が住んでいる町のなかを走るときも、幅の広い車道から眺める町並みが、ふだんとはまったく違って見えるので新鮮に感じられる。

先程述べたように、走っているうちに何を考えていたか忘れてしまうので、フルマラソンのような長時間の大会では、写真を撮るようにしている。次の大会が近づいているので、初めてフルマラソンに出場した、2010年おきなわマラソンの際に走りながら撮った写真を見直してみた。写真を眺めていると、あの当時の自分がどんなことを感じながら走っていたのかが思い出されてくる。賑やかな応援や奇抜な仮装ランナーに驚き、補給食として提供されるそうめんに面食らい、足が痛くてもう走れないけど景色がとてもきれいで見入ってしまったことなど、当時の記憶が身体感覚を伴ってよみがえる。次の大会が楽しみだ。
スタート地点、嫌でも目に入る黄獣。

ウルトラマンは速かった

素麺がこういう形で提供されるとは

米軍基地の中でも応援をうけました

あと1km地点。海と空がきれいだった

2013年8月15日木曜日

テストというコミュニケーション


学期末テストの採点が終わり、担当する12クラスすべての成績を登録することができた。

大学でドイツ語を教えるようになって4年目(民間の語学学校、個人教授などはもっと前からやってた)になるけど、テストのたびに、自分の教え方を考えなおさせられる。

テストのできは、かならずしも学生のでき、いわゆる頭の善し悪しや勉強量と相関があるわけではない。いや、おそらく相関関係があるのだろうけど、私が重視しているのはそういうことではない。ドイツ語の期末試験で重視するのは、ドイツ語がどれだけできるようになっているか、ということよりも、その学期中に教えたことがどれだけ身についているかということである。つまり、よほど勉強してない(ほとんど授業に出ていないとか)一部の学生以外は、だいたいみんなできて当然なのが、学期末試験だと私は考えている。

しかし、当然のことながら全員が全員100点をとるようなクラスはない。全体的によくできているクラスもあれば、全体にできていないクラスもある。そしてできの善し悪しにかかわらず言えるのが、同じクラスの中では、正答率が低い設問は同じだということだ。それはその設問が問う内容について、私が授業中にちゃんと説明しきれなかったということでもあるだろう。

あるクラスでは(このクラスは全体的によく出来ていたが)命令形の間違いが多かった。別のクラスでは、前置詞についての設問が正答率が低かった。また別のクラスでは形容詞の語尾が、あるいは定冠詞類・不定冠詞類のミスが目立つクラスもあった。

このように、設問ごとに大きな差が生じてしまうのはどこの大学でも同じだ。そして、どの大学の学生も、同じ文法項目で躓いているわけではない―たとえば形容詞でみんな間違うとか―ので、やはり教材や教え方に問題があったのだと考えないわけにはいかない。教え方に問題があるとは、どういうことだろうか。説明の仕方がわるかったのかもしれない。もっとパートナー練習や問題練習をやったらよかったかもしれない。宿題で作文や読解の練習をやらせればよかったかもしれない。このように、テストを採点することで、個々の学生の頑張り様だけでなく、それぞれのクラスの授業でどのような反省点があったのかもわかってくる。

定期テストは授業アンケートよりもずっと有効な、教員と学生のコミュニケーションだ。彼らに私の言いたいことが伝わっていなければ、それは得点として現れる。文法事項の不理解だけでなく、学生の勉強の仕方は、逆に私の授業への意気込みに対する答えでもある。彼らの不勉強をせめてもしかたがない。反省すべきは、自分の授業のやり方だ。少しでも勉強してテストに臨んだ学生の期待をうらぎってはいけない。後期の授業に向けて、各クラスごとに反省点をまとめておきたい。

2013年7月31日水曜日

先生の研究


研究者あるいはそれに類する人に初めて接したのはいつだっただろうか。

大学入学以前に、研究という営みを身をもって見せてくれたのは、高校時代2年生と3年生のクラス担任をつとめていた、生物のS先生だった。理系の進学校だった母校(男子校だったこともあり、生徒の半分以上は国立大理系学部を目指すことになっていた)では、理系コースはつうじょう物理と化学を選択し、文系コースが生物をとることになっていた。だから、S先生は生物担当だけど国立文系クラスの担任をつとめていた。

文学部に進んで、外国語と哲学や歴史を勉強しようと思っていた私にとって、身近な先生は一年次の担任だった社会の先生や、一番の得意科目だった現代文の先生だった。彼らとは何かにつけ相談をしたり、おしゃべりをしに行ったりしてたはずだが、担任であるS先生は、どうせ理系の人だし、とちょっと敬遠していたと思う。S先生はいつも穏やかで、やさしかった。そして体が細くて背が高かった。三者面談で初めて先生を見た母は、ナナフシみたい、と言った。私たち生徒もみな、彼の専門分野から連想して、なんとなく昆虫っぽい人だと思っていた。

昆虫に似ているS先生は、私たちにとって、少々とっつきにくい存在だった。いつもおだやかだけど、何を考えてるのかよくわからない。授業も、親切丁寧ではあったが、とくに熱気のこもった授業というわけではなかった。そんな先生が情熱を燃やしていたのが、専門である昆虫の研究である。どのクラスの生徒も、かつて彼が大学院時代に取り組んだ、糞虫の研究の話を聞いていたはずだ。島に住む鹿のふんを食べる虫を長い時間をかけて研究したそうだ。虫の研究は学生時代だけでは終わらない。教員の仕事の合間にも、日々野山で虫を捕まえては、授業の前に、どこで捕まえたどんな虫なのかを説明してくれていた。とはいえ、こっちは文系コースの高校生だ。カブトムシならまだしも、なんだかわからないバッタやアリやスズムシを見せられても困る。わりとみんな冷ややかな反応だったと思う。

高校を卒業して10年以上がすぎ、自分自身もなにやら人に理解されづらいマイナーな研究に取り組んだ末、博士号を取得する所まできて、なんだかS先生を懐かしく思い出している。彼の態度はまさしく、真摯に自らの学問に取り組む研究者そのものだった。その後大学院の同じ研究科で昆虫学を専門とする人と知り合ったので、S先生の話をしてみたら、どうやらその業界ではそれなりの有名人であるらしく、名前を知っていた。あるとき地元に帰って、たまたま書店に寄ってみたら、S先生が高校を退職後に出版した本が置いてあった。優しく物静かな先生には、あの荒っぽい男子校での教員生活は苦痛が多かったかもしれない。しかし、文系クラスで授業の前に熱心に昆虫の話をする彼のことは、生徒のみなの心に刻まれているはずだ。

2013年7月21日日曜日

夏休みは映画を見よう


私はドイツ語を専門的に学ぶ学生を教えていない(いちおう京大のドイツ語IIには文学部生もいるが、どうも独文志望者ではなさそう)ので、あまり学生がドイツ語をしっかりできるようにしなければ、と思うことはない。もちろんできるようになってほしいが、やりたい学生は自分でやるだろうし、工学でも経済学でも、自分の専門についての勉強を最優先するのがいちばんだと思っている。語学などは、勉強の基礎でしかない。

だから、これまで夏休みには、課題などを指示したことは一度もない。みんな思い思いに夏休みをすごせばいい。どうせ夏休みなのだから、暑い暑いといってるあいだに、何もせずに終わってしまうのだ。せいぜい、短期バイトで文字通り汗水たらしてお金を稼いで、ちょっとばかり社会的な成功体験を得ることができるくらいだ。私だって、学生の頃は前期試験が終わったら、ほとんど勉強はしなかったし。

授業で学生たちに宿題の指示をすることはないので、ここで自分なりに宿題の提案をしておきたい。私が夏休みの宿題として考えたのは、映画を見ることだ。なんでもいいから面白いそうな映画のDVDを買って、何回か繰り返し見る。はじめから終わりまで律儀に見通す必要はなく、好きな場面、好きなセリフ、好きな女優さんが出ているところだけでも、何度も見る。不思議なことに映画というのは、よくできていて、いい映画は何回見ても楽しめる。
この夏、すでに数回繰り返して見た『コッホ先生と僕らの革命』
左はドイツで買った現地版。日本語版にはない、メイキングや
カットされたシーンも収録されている。
映画はもちろん日本語の字幕付きでいい。字幕を見ながら、それに応じたドイツ語がどこに出てきたのかが聞き取れるといい。何度か同じ場面、同じセリフを聞いているうちに、字幕に反映されていないドイツ語の単語があったことがわかる。さらに何度も聞いていると、だんだん、セリフがドイツ語の文章になって頭のなかに流れてくるようになる。

学部生の頃、フランスやドイツに出かけたが、旅行会話の本をもっていって、どのように発音するのかをイメージする手がかりになったのが、映画だった。現地で会話をするさい、映画の中のセリフを思い出し、単語は分からずとも、こんなリズムで、こんな音で、挨拶したり注文したりできたらいいのかな、と大雑把なイメージを描いたものだった。今考えると、あのころ楽しく見ていた映画は、語の発音に耳を慣らすためにちょうどよかったのだろう。

現在の私にとっても、映画は素晴らしい教材となっている。現地にいれば、テレビ番組などを長い時間見て、会話のヒントになるような表現を学ぶことができるが、日本でそれを学ぶには、映画が最適だ。同じ映画を何度も見て、見るたびに新たな発見をして、辞書を引いて表現を身につける。日本未公開の映画ももちろん、ドイツ語字幕を見たり、ドラマの場合は字幕がないことが多いので仕方ないが、場合によっては字幕なしでも見る。字幕なしで、ドイツ語をそのまま理解するのはまだ難しいが、それでも何度か繰り返し見るうちに、単語が聞き取れるようになるし、場面やストーリーの意味もよくわかってくる。

初級者には、映画の効用はわからないかもしれないが、とりあえずは勉強など忘れて、ドイツ映画を見て楽しんでほしい。この表現、なんだろう?と疑問を持つことが出来れば、それだけでもドイツ語学習のきっかけになる。