走るのが趣味だというと、走っている間に何を考えているの?とよく聞かれる。妻にもよく聞かれる。だいたい毎日の日課としてやってるランニングのときには、その日あったことを反芻したり、何か気になることをじっくり考えなおしたりしている。今日であれば、今度の公募書類にはどんなことを書いたらいいのか、とか、今書いている論文はどういう予定で仕上げていったらいいか、なんてことを考えていたと思う。妻とケンカした日は、そのことも考える。そして、面白いのは、小一時間にわたって走りながら考え事をしていても、帰宅する頃にはだいたい何もかも忘れているということだ。嫌なことを考えていても、帰ってくると忘れる。たぶんこれは、二十代の頃にいつも通っていた銭湯と同じ効能ではないかと思う。銭湯に浸かるときも、いろいろなことを考えているが、サウナに浸かり、水風呂に入り、そして熱湯へというサイクルを何度も繰り返すうちに、考えていたことはだいたい忘れて、さっぱりした気分になる。
銭湯のことはともかく、こうやってこの5年くらいの間、走ることで生きているうちに生じるいろいろな辛いことを気にせずに乗り切ってきたのだろうと思う。しかし、何も残らないのでは、研究や仕事のことを考えても意味が無いような気もする。
マラソン大会に出ると、走る時間は当然もっと長くなる。フルマラソンなら、私の場合は4時間以上もかかってしまうので、考えることもたくさんある。でもたいてい、マラソン大会のように遠いところに出かけて、見知らぬ場所を走るときには、一人で考え事をするよりも、純粋に周りの景色を見て楽しんでいる。サイクリングやドライブに行くときと同じように、あのカーブを曲がったら何が見えるかな?わーい、きれいな海だな―といった具合に、自然の景色を眺めるのが何より楽しい。ドレスデンでの10kmレースや、京都のハーフマラソンのように、自分が住んでいる町のなかを走るときも、幅の広い車道から眺める町並みが、ふだんとはまったく違って見えるので新鮮に感じられる。
先程述べたように、走っているうちに何を考えていたか忘れてしまうので、フルマラソンのような長時間の大会では、写真を撮るようにしている。次の大会が近づいているので、初めてフルマラソンに出場した、2010年おきなわマラソンの際に走りながら撮った写真を見直してみた。写真を眺めていると、あの当時の自分がどんなことを感じながら走っていたのかが思い出されてくる。賑やかな応援や奇抜な仮装ランナーに驚き、補給食として提供されるそうめんに面食らい、足が痛くてもう走れないけど景色がとてもきれいで見入ってしまったことなど、当時の記憶が身体感覚を伴ってよみがえる。次の大会が楽しみだ。
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スタート地点、嫌でも目に入る黄獣。 |
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ウルトラマンは速かった |
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素麺がこういう形で提供されるとは |
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米軍基地の中でも応援をうけました |
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あと1km地点。海と空がきれいだった |
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