2013年9月11日水曜日

コッホ先生について

先日の日記でも言及した映画『コッホ先生と僕らの革命』(2011年ドイツ)を、すでに10回くらい(そのうち3回くらいはドイツ語版で)見ている。何度見ても飽きないのは、ダニエル・ブリュール演じるコッホ先生のかっこ良さや、彼の生徒たちのかわいらしさのせいばかりではない。この映画は19世紀後半のドイツを舞台に、フットボールを最初にドイツの学校に導入したコッホ先生の奮闘と、それに対する学校や社会の反応を描いている。この映画から、フットボールの歴史だけでなく、ドイツでいまでも愛好されている体操(トゥルネン)とスポーツの関係、近代的な資本主義社会、大衆社会の到来という新たな時代とスポーツの関係もまた、読み取ることができる。ほんとうに何度も見ても面白いので、その面白さをネタバレにならない程度に、詳しく紹介したい。
直接フリーキックを決めるヨースト。






1)登場人物の世代と時代背景
本作において重要なのは(というより私にとって大変興味深いのは)時代背景ならびに登場人物の年代である。物語は1874年のドイツ、ブラウンシュヴァイクに英国帰りの青年コッホ先生が到着するところから始まる。コンラート・コッホは実在の人物で、1846年生まれ。物語の中でも言及されるが、普仏戦争が終結し、ドイツ帝国が成立した1871年ごろ、ちょうど彼は大学を終え世の中に出たと推測できる。(映画では、コッホは新任教師のように描かれているが、実際は大学を卒業後1868年から、ブラウンシュヴァイクのマルティノ・カタリネウム校に勤務している)また、コッホが担任を務める生徒たちは、Untertertia(9年制ギムナジウムの4年生)と言われているので、14,5歳、1860年ごろの生まれだと考えられる。そして、コッホに対立する理事長のハートゥングやボールを製造する体育用具メーカーのシュリッカーなどは、息子がギムナジウムに通っていることから、コッホより少し年長の1830〜40年ごろの生まれということになる。

2)ブッデンブローク家の人々との年代的な一致
映画を見ながら、こういう映像、どこかで見たような、と思い、すぐに最近あらたに映画化された、トーマス・マン原作の『ブッデンブローク家の人々』(2008年、日本語版は未公開)を思い出した。映像が似ているのは、撮られた年代が近いからではなく、物語中の時代がほぼ同じだからだ。原作となるマンの小説は、1835年から1877年まで、リューベックの商人ブッデンブローク家の四代に渡る栄枯盛衰を描いた物語である。『コッホ先生』の時代と重なるのは、『ブッデンブローク家』の最後の当主ハノーが描かれる場面である。体が弱かったハノーは、1861年生まれで1877年に亡くなってしまい、物語は幕を下ろす。また、ハノーの父で『ブッデンブローク家』の実質的な主人公であるトーマスは、1826年生まれで、ちょうど『コッホ先生』の生徒たちの父親世代である。

2つの物語はほぼ同じ時代に、同じように、旧来のブルジョワジーの没落と新たな階級の台頭というテーマを描いている。『ブッデンブローク家』では、商人で市の要職を務めるブッデンブローク家が、少しずつ没落していくが、『コッホ先生』では、没落するブルジョワに変わって、新たな階級が台頭し、新たな時代が訪れることも予告される。新たな時代、それはフットボールとともにもたらされる。

3)トゥルネン〈伝統〉とスポーツ〈新たな時代〉が出会う場面
オープニングで流れる体操の図。この当時、このような図入りの体操書がたくさん出版された。
私はこの映画を、日本語字幕がついた日本版と、ドイツで買ったドイツ語版の両方を持っている。内容は同じだろうと思っていたら、ドイツ語版には、使われなかったシーンが収録されていた。このカットされたシーンのなかに、ドイツの伝統スポーツであるトゥルネンと、コッホがもたらしたフットボールとが出会う場面がある。

フェンシングの練習に励む父ハートゥング。
息子はコッホから教えられたフットボールについて説明する。
コッホ先生と出会い、フットボールを教えられた級長のフェリックス・ハートゥングは、家に帰り、この新たなスポーツを、学園の理事長をつとめる父リヒャルトに伝える。執事を相手に庭でフェンシングのトレーニングに励む父に、ボールを足でゴールに蹴りこむんだ、と説明する息子。怪訝そうな顔で話を聞く父。フェンシングや生徒たちが学校でやらされている器械体操および徒手体操は、この時代の上流階級のたしなみである。それらは19世紀初め以降、ドイツの伝統的な「身体訓練」―スポーツではない―として行われてきた「体育」(トゥルネン)である。

はじめてフットボールを教えられたフェリックスは、ボールを上手く蹴ることができず、転んでしまう。現在の我々から見ると、なんで?と思うのだが、当時の人々は丸いボールを蹴ったことがなかったのだ。ボールを蹴るという動作は、彼らの体育にも、そして上流階級の子どもの遊びにも含まれていなかったのだと考えられる。いっぽう労働者階級の子であるヨーストは、子供の頃から空き缶や石を蹴って遊んでいたため、だれよりもボールを蹴るのが上手かったのだろう。

4)トゥルネン対スポーツ、旧世代対新世代の対立、3つの家族が象徴する階級
この映画の大きなテーマである、フットボールとともに到来する新たな時代は、3つの家族によって象徴的に表現される。

旧来のブルジョワ、ハートゥング家。級長のフェリックスは、父が学園の理事長で大きなお屋敷に住んでいる。食事のシーンで商売敵を破産させたと言っていたので、ブッデンブロークのように商売や市の要職を務めているのかもしれない。父親のハートゥング会長は、学園の堅物教師(ラテン語のボッシュ先生や体操のイェンゼン先生)らとともに、旧時代的な秩序を代表する人物として描かれている。

体育用具メーカーのシュリッカー家。コッホ先生を追い出そうと画策するフェリックスに対して、親コッホ派のリーダー的な役割を務めるオットー・L・シュリッカー。父があん馬やメディシンボールを製造する体育用具工場を経営しており、彼も授業の後は職人さんのもとで修行に励んでいる。着任間もないコッホが招かれたパーティで、父シュリッカーが「ここは数十年前までブタ小屋だった」と自らの社屋を説明していたように、彼の会社はこの数十年で急成長し、今後もフットボールの製造販売などで、息子に代替わりしても、さらに大きくなっていくことだろう。

そして労働者階級のボーンシュテット家。息子のヨーストは、校長らの国民教育の理念によって特別に入学を許可されるが、階級を理由にいじめにあってしまう。母は息子の学業を支えるために工場で働いている。父親が一切登場しないが、もしかしたら戦争で亡くなって母子家庭なのかもしれない。

この時代、ギムナジウムには上流階級の子弟だけでなく、シュリッカーのような新興ブルジョワジーやボーンシュテットのようなプロレタリアの子供たちも進学するようになっていた。しかしギムナジウムを終え、大学に進む生徒は半分もいなかったというので、ヨーストのように途中で学業を諦める者もめずらしくはなかったのだろう。

5)まとめ
以上のようにこの作品には、フットボールが初めてドイツに導入された当時の子どもたちの熱狂と大人たちの反感とが対称的に描かれているだけでなく、フットボールとともに始まる新たな時代、階級的な区別がゆるやかになり、だれもが高等教育を受け、スポーツを楽しむことができるような時代の到来が見て取れる。こういった中心的なテーマ以外にも、旧時代の象徴とされているトゥルネンが教育の現場でどのように行われていたのか、当時の学校教育の様子、学校における体罰など、さまざまな観点から、現代との違いや連続性について考えることができよう。





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