2013年9月19日木曜日

古いアパートの思い出


先日は大きな台風が来て、京都市内でも浸水・冠水などの被害があった。マラソン大会から帰宅して、朝まで死んだように眠る予定だったのに、夜中に緊急メールで何度も起こされた。翌日の昼にはほとんど天気は回復していたが、夜通し雨が横殴りに吹き付けていたため、玄関ドアの隙間から水が入り込んでいた。鉄筋コンクリート製のマンション7階でもこれだけの被害がでるのだから、かつて住んでいたような木造アパートだったら、どんな目に遭っていただろうか、とかつての下宿のことを思い出していた。

31歳で、風呂つき軽量鉄骨アパート(正確にはわからないけど、音がよく響くので壁は薄かった)に引っ越すまで、私が住んでいたのは、木造アパートばかりだった。東京で最初に住んだ部屋は、畳が傾いていて、入口の階段が崩れかけていた。そのため、4年目の春に取り壊しが決まった。大学4年次の後半を過ごしたアパートは、同じくかなり古い物件で、何年も人が住んでいなかった部屋だった。雨漏りはしていたが、友人と一緒に住んでいたのでさほどつらくはなかった。京都に引っ越して、大学院時代が終わる直前まで住んでいたのが、二部屋ある木造アパートだった。

東京時代のアパートM荘やT荘、そして2007年から結婚するまで住んでたG寺ハウスなどこれまで住んできた部屋は、総じてみなボロかったが、それでも遊びに来た友人や彼女からいい部屋だね、味があるね、と褒められることが多かった。しかし、京都のI荘だけは、おそらく誰にもいい部屋だと言われなかったはずだ。

大学院時代を過ごした木造アパートI荘は、四畳半の部屋二つがくっついた形になっているので、そこそこ広かったが、トイレは部屋の外、シャワーは下の階にあった。もちろん共同である。今思うとなぜああいう物件を選んでしまったのかよくわからないが、あの当時はトイレやシャワーが部屋になくても特に困ることはないと思っていたのだろう。たしかに古いアパートのトイレは、すごく狭かったり水が漏れたりとあまり快適なものではない。自室にあったら自分で掃除しないといけないし。それに比べるとI荘の場合は、いつも大家さんがきれいにお掃除してくれていたので、使うぶんには何も文句はなかった。
I荘の唯一良かったところは、隣の家の桜がすごくきれいな
ことだった。手にもっているのは2007年春にハマったきのこ栽培セット

だけど当然のことながら、自室にトイレがないというのは不便だった。体調が悪くて寝込んでいる時も、いちいちドアを開けて部屋の外にでないといけないし、雪が降る日や台風の日もなんどかあったはずだ。1階の共同シャワーも、朝の時間帯にはしばしば他の住人とかち合ってしまうし、真冬には水道が凍って熱湯しか出なくなることもあった。どうしてあの部屋で7年間もくらせてこれたのだろうか。今となっては、当時の自分があの不便さをどのように考えていたのかよく思い出すことができない。

2013年9月11日水曜日

コッホ先生について

先日の日記でも言及した映画『コッホ先生と僕らの革命』(2011年ドイツ)を、すでに10回くらい(そのうち3回くらいはドイツ語版で)見ている。何度見ても飽きないのは、ダニエル・ブリュール演じるコッホ先生のかっこ良さや、彼の生徒たちのかわいらしさのせいばかりではない。この映画は19世紀後半のドイツを舞台に、フットボールを最初にドイツの学校に導入したコッホ先生の奮闘と、それに対する学校や社会の反応を描いている。この映画から、フットボールの歴史だけでなく、ドイツでいまでも愛好されている体操(トゥルネン)とスポーツの関係、近代的な資本主義社会、大衆社会の到来という新たな時代とスポーツの関係もまた、読み取ることができる。ほんとうに何度も見ても面白いので、その面白さをネタバレにならない程度に、詳しく紹介したい。
直接フリーキックを決めるヨースト。






1)登場人物の世代と時代背景
本作において重要なのは(というより私にとって大変興味深いのは)時代背景ならびに登場人物の年代である。物語は1874年のドイツ、ブラウンシュヴァイクに英国帰りの青年コッホ先生が到着するところから始まる。コンラート・コッホは実在の人物で、1846年生まれ。物語の中でも言及されるが、普仏戦争が終結し、ドイツ帝国が成立した1871年ごろ、ちょうど彼は大学を終え世の中に出たと推測できる。(映画では、コッホは新任教師のように描かれているが、実際は大学を卒業後1868年から、ブラウンシュヴァイクのマルティノ・カタリネウム校に勤務している)また、コッホが担任を務める生徒たちは、Untertertia(9年制ギムナジウムの4年生)と言われているので、14,5歳、1860年ごろの生まれだと考えられる。そして、コッホに対立する理事長のハートゥングやボールを製造する体育用具メーカーのシュリッカーなどは、息子がギムナジウムに通っていることから、コッホより少し年長の1830〜40年ごろの生まれということになる。

2)ブッデンブローク家の人々との年代的な一致
映画を見ながら、こういう映像、どこかで見たような、と思い、すぐに最近あらたに映画化された、トーマス・マン原作の『ブッデンブローク家の人々』(2008年、日本語版は未公開)を思い出した。映像が似ているのは、撮られた年代が近いからではなく、物語中の時代がほぼ同じだからだ。原作となるマンの小説は、1835年から1877年まで、リューベックの商人ブッデンブローク家の四代に渡る栄枯盛衰を描いた物語である。『コッホ先生』の時代と重なるのは、『ブッデンブローク家』の最後の当主ハノーが描かれる場面である。体が弱かったハノーは、1861年生まれで1877年に亡くなってしまい、物語は幕を下ろす。また、ハノーの父で『ブッデンブローク家』の実質的な主人公であるトーマスは、1826年生まれで、ちょうど『コッホ先生』の生徒たちの父親世代である。

2つの物語はほぼ同じ時代に、同じように、旧来のブルジョワジーの没落と新たな階級の台頭というテーマを描いている。『ブッデンブローク家』では、商人で市の要職を務めるブッデンブローク家が、少しずつ没落していくが、『コッホ先生』では、没落するブルジョワに変わって、新たな階級が台頭し、新たな時代が訪れることも予告される。新たな時代、それはフットボールとともにもたらされる。

3)トゥルネン〈伝統〉とスポーツ〈新たな時代〉が出会う場面
オープニングで流れる体操の図。この当時、このような図入りの体操書がたくさん出版された。
私はこの映画を、日本語字幕がついた日本版と、ドイツで買ったドイツ語版の両方を持っている。内容は同じだろうと思っていたら、ドイツ語版には、使われなかったシーンが収録されていた。このカットされたシーンのなかに、ドイツの伝統スポーツであるトゥルネンと、コッホがもたらしたフットボールとが出会う場面がある。

フェンシングの練習に励む父ハートゥング。
息子はコッホから教えられたフットボールについて説明する。
コッホ先生と出会い、フットボールを教えられた級長のフェリックス・ハートゥングは、家に帰り、この新たなスポーツを、学園の理事長をつとめる父リヒャルトに伝える。執事を相手に庭でフェンシングのトレーニングに励む父に、ボールを足でゴールに蹴りこむんだ、と説明する息子。怪訝そうな顔で話を聞く父。フェンシングや生徒たちが学校でやらされている器械体操および徒手体操は、この時代の上流階級のたしなみである。それらは19世紀初め以降、ドイツの伝統的な「身体訓練」―スポーツではない―として行われてきた「体育」(トゥルネン)である。

はじめてフットボールを教えられたフェリックスは、ボールを上手く蹴ることができず、転んでしまう。現在の我々から見ると、なんで?と思うのだが、当時の人々は丸いボールを蹴ったことがなかったのだ。ボールを蹴るという動作は、彼らの体育にも、そして上流階級の子どもの遊びにも含まれていなかったのだと考えられる。いっぽう労働者階級の子であるヨーストは、子供の頃から空き缶や石を蹴って遊んでいたため、だれよりもボールを蹴るのが上手かったのだろう。

4)トゥルネン対スポーツ、旧世代対新世代の対立、3つの家族が象徴する階級
この映画の大きなテーマである、フットボールとともに到来する新たな時代は、3つの家族によって象徴的に表現される。

旧来のブルジョワ、ハートゥング家。級長のフェリックスは、父が学園の理事長で大きなお屋敷に住んでいる。食事のシーンで商売敵を破産させたと言っていたので、ブッデンブロークのように商売や市の要職を務めているのかもしれない。父親のハートゥング会長は、学園の堅物教師(ラテン語のボッシュ先生や体操のイェンゼン先生)らとともに、旧時代的な秩序を代表する人物として描かれている。

体育用具メーカーのシュリッカー家。コッホ先生を追い出そうと画策するフェリックスに対して、親コッホ派のリーダー的な役割を務めるオットー・L・シュリッカー。父があん馬やメディシンボールを製造する体育用具工場を経営しており、彼も授業の後は職人さんのもとで修行に励んでいる。着任間もないコッホが招かれたパーティで、父シュリッカーが「ここは数十年前までブタ小屋だった」と自らの社屋を説明していたように、彼の会社はこの数十年で急成長し、今後もフットボールの製造販売などで、息子に代替わりしても、さらに大きくなっていくことだろう。

そして労働者階級のボーンシュテット家。息子のヨーストは、校長らの国民教育の理念によって特別に入学を許可されるが、階級を理由にいじめにあってしまう。母は息子の学業を支えるために工場で働いている。父親が一切登場しないが、もしかしたら戦争で亡くなって母子家庭なのかもしれない。

この時代、ギムナジウムには上流階級の子弟だけでなく、シュリッカーのような新興ブルジョワジーやボーンシュテットのようなプロレタリアの子供たちも進学するようになっていた。しかしギムナジウムを終え、大学に進む生徒は半分もいなかったというので、ヨーストのように途中で学業を諦める者もめずらしくはなかったのだろう。

5)まとめ
以上のようにこの作品には、フットボールが初めてドイツに導入された当時の子どもたちの熱狂と大人たちの反感とが対称的に描かれているだけでなく、フットボールとともに始まる新たな時代、階級的な区別がゆるやかになり、だれもが高等教育を受け、スポーツを楽しむことができるような時代の到来が見て取れる。こういった中心的なテーマ以外にも、旧時代の象徴とされているトゥルネンが教育の現場でどのように行われていたのか、当時の学校教育の様子、学校における体罰など、さまざまな観点から、現代との違いや連続性について考えることができよう。





2013年9月10日火曜日

マラソンとその間に考えていること


走るのが趣味だというと、走っている間に何を考えているの?とよく聞かれる。妻にもよく聞かれる。だいたい毎日の日課としてやってるランニングのときには、その日あったことを反芻したり、何か気になることをじっくり考えなおしたりしている。今日であれば、今度の公募書類にはどんなことを書いたらいいのか、とか、今書いている論文はどういう予定で仕上げていったらいいか、なんてことを考えていたと思う。妻とケンカした日は、そのことも考える。そして、面白いのは、小一時間にわたって走りながら考え事をしていても、帰宅する頃にはだいたい何もかも忘れているということだ。嫌なことを考えていても、帰ってくると忘れる。たぶんこれは、二十代の頃にいつも通っていた銭湯と同じ効能ではないかと思う。銭湯に浸かるときも、いろいろなことを考えているが、サウナに浸かり、水風呂に入り、そして熱湯へというサイクルを何度も繰り返すうちに、考えていたことはだいたい忘れて、さっぱりした気分になる。
銭湯のことはともかく、こうやってこの5年くらいの間、走ることで生きているうちに生じるいろいろな辛いことを気にせずに乗り切ってきたのだろうと思う。しかし、何も残らないのでは、研究や仕事のことを考えても意味が無いような気もする。

マラソン大会に出ると、走る時間は当然もっと長くなる。フルマラソンなら、私の場合は4時間以上もかかってしまうので、考えることもたくさんある。でもたいてい、マラソン大会のように遠いところに出かけて、見知らぬ場所を走るときには、一人で考え事をするよりも、純粋に周りの景色を見て楽しんでいる。サイクリングやドライブに行くときと同じように、あのカーブを曲がったら何が見えるかな?わーい、きれいな海だな―といった具合に、自然の景色を眺めるのが何より楽しい。ドレスデンでの10kmレースや、京都のハーフマラソンのように、自分が住んでいる町のなかを走るときも、幅の広い車道から眺める町並みが、ふだんとはまったく違って見えるので新鮮に感じられる。

先程述べたように、走っているうちに何を考えていたか忘れてしまうので、フルマラソンのような長時間の大会では、写真を撮るようにしている。次の大会が近づいているので、初めてフルマラソンに出場した、2010年おきなわマラソンの際に走りながら撮った写真を見直してみた。写真を眺めていると、あの当時の自分がどんなことを感じながら走っていたのかが思い出されてくる。賑やかな応援や奇抜な仮装ランナーに驚き、補給食として提供されるそうめんに面食らい、足が痛くてもう走れないけど景色がとてもきれいで見入ってしまったことなど、当時の記憶が身体感覚を伴ってよみがえる。次の大会が楽しみだ。
スタート地点、嫌でも目に入る黄獣。

ウルトラマンは速かった

素麺がこういう形で提供されるとは

米軍基地の中でも応援をうけました

あと1km地点。海と空がきれいだった