今回ドイツに滞在しているのは、ドイツ語教員向け研修プログラムの奨学金にあたったからなんだけど、実際のところ教授法の専門的な研修を受けてるわけでもなんでもなくて、ふつうにドレスデンで、ゲーテインスティテュートの語学講座に参加している。自分の語学力では、教授法コースはまだまだぜんぜん無理だと思ったからだ。語学コースはまあ当然、日本でさんざん勉強してきたことを復習してるだけなのでけっこう簡単なんだけど、単語の意味とか前置詞とか、辞書を引かずにすぐに答えられないことも多いので、即座にドイツ語で考える訓練としてはすごく役に立っている。
ドレスデンのゲーテ・インスティトゥートにいて思うのは、スペイン語(ポルトガル語も含む)人口の多さだ。たぶん次に多いのが、ロシア人とタイ人か。同じクラスにはスペイン人、メキシコ人、ブラジル人がいる。飲み会に行けば、半分くらいがスペイン語を話していたりする。京都で勉強していると、言語の重要度=学問の言語としての価値、という面でしか考えないので、スペイン語ってどうよ?と思ってたんだけど、帰国したら勉強してみたくなった。
ドレスデンには、スペイン語圏の人が多いが、98年に通っていたベルリンのゲーテには、北欧の人が多かった。Mehringdammの下宿は半分くらいがスウェーデン、デンマークからの学生で、どいつもこいつもすごい勢いでビールを飲んでいたのが印象に残っている。おそらく本国ではなかなかお酒が飲めないから、ドイツで羽目をはずしていたのだろう。
ベルリン時代は、Grundstufe2(今でいうA2、大学でいちおう履修したけど話せない、というレベル)だったので、まだドイツ語でまともな会話はできず、クラスの中ではあまり友達が出来なかった。クラスメートの中で印象に残っているのは、ブラジル人のフェリペだ。彼は日系3世で、まさおという日本名も持っていた。フェリペまさおが話せる日本語は、わずかに挨拶程度でしかなかった。でも、見た目はほぼ日本人なので、なんだか不思議な感じがした。フェリペまさおとは、語学講習が終わって以来会っていないが、なぜか急に思い出した。彼はドイツ語を学んで何をするつもりだったのだろう?いまはどこで何をしているのだろう?
追記
とくに友達ができなかった、なんて書いたけど、何人か話し相手はできた。アルメニア人のティグラムさんは、大学の先生かなにかでもう50代近かったが、非常に勉強熱心で、話すたびに「der, die, das?」などと名詞の性を確認していたのが印象的だった。それから、名前は忘れてしまったけど、スウェーデン人の兄さん。むっくりした熊のような大男だが、とても優しくて、話してみたら私が東京で見た映画をかなり見ていた。彼とはある日待ち合わせて、Oranienburger StrasseのTachelesで映画『コーリャ愛のプラハ』を見に行った。おたがいまだまだ語彙が少なくて、「よかったよねー、ああよかったー」と言い合ったのをよく覚えている。
追記
とくに友達ができなかった、なんて書いたけど、何人か話し相手はできた。アルメニア人のティグラムさんは、大学の先生かなにかでもう50代近かったが、非常に勉強熱心で、話すたびに「der, die, das?」などと名詞の性を確認していたのが印象的だった。それから、名前は忘れてしまったけど、スウェーデン人の兄さん。むっくりした熊のような大男だが、とても優しくて、話してみたら私が東京で見た映画をかなり見ていた。彼とはある日待ち合わせて、Oranienburger StrasseのTachelesで映画『コーリャ愛のプラハ』を見に行った。おたがいまだまだ語彙が少なくて、「よかったよねー、ああよかったー」と言い合ったのをよく覚えている。
ティグラムさんと、Koch Str.にあったころの ゲーテ・インスティトゥート・ベルリンの前で |
0 件のコメント:
コメントを投稿