2011年11月17日木曜日

人の話を聞くこと4(終)


聞く力の養成にむけて
 先日の授業は、学生たちに発表をしてもらった。各個人で統一テーマに関連する図書を一冊選び、内容と自分の考えをレジュメにまとめて報告するという形式である。(この発表が、のちに自分でテーマを決め、問を立ててレポートを書くことの足がかりとなる)ただひとりひとりが発表するのではなく、当然質疑応答もあるし、質問や意見をまとめるコメントシートも記入する。
 そこで見えたのは、彼らがそれぞれが提出した、各発表者についてのコメントは非常によく書けているのに、質疑応答がなかなかできないということだ。もちろん彼ら自身、こういう場で討論するということがほぼ初めてだろうから、質問の仕方が分からなかったり、自分の抱いた疑問が質問として妥当なのか自身が持てなかったりという事情もあっただろう。だから質問が出来なかったのは仕方がない。できるようになるのはまだ先の話だ。しかし、発表者へのコメントではみなしっかりと内容を咀嚼し、自分の関心・考えにひきつけた意見が書けていた。これはおそらく、1で書いた大学ナビという授業における、傾聴とノートテイクの訓練によって得られた成果だと考えられる。*
*大学ナビでは毎回教員の講義を聞いてノートを取り、講義の終わりに自分の意見をコメントする。さらに前期は、大学ナビでの講義を初年次演習で振り返り、グループ討論をして内容を報告しあうということも行なっていた。
 私がいまの学生たちにとって必要だと考える「聞く力」とは、何より人の言うことを理解して、自分の問題として考えた上で発言する力である。つまり表現することに向けての聞く力である。とすれば彼らが講義や友人の発表を聞き、ノートをとるまたは自分の意見をコメントとして書きだすことができているというのは、彼らにとっての大きな進歩ではないだろうか。
 聞く力とは、闇雲に傾聴することや、聞いたことをお経のようにアウトプットすることで培われるわけではない。そうではなく、私たちは、聞いたことをアウトプットするまでの段階に「疑問を持つ、自分の知識や経験から理解しようとつとめる、自分なりに内容を消化し、自分の言葉で反応する」という内的なプロセスを作動させているわけだが、聞く力とは、この内的なプロセスにおける豊かさや広がりなのではないだろうか。
 それゆえ、聞く力に恵まれた人―それは2で挙げた質問スキルの高い先生など―とは、幅広い知識とじっくり考えてきた経験を持ち、深く強靭な思考力を持った人ということが考えられる。それならば、聞く力とは、語彙と知識をたくさん吸収することによって高められるのだろうか。少なくとも単に教養や語彙力を付けさせるための講義だけでは不十分である。それらの知識がただ上から降り注ぐように与えられるだけでは大して意味が無い。そうではなく、彼らが学んだこと、聞いたことを、自らの内的なプロセスを通して、そこでの分かった・分からなかった両方の経験を踏まえて、自分の言葉で表現すること、そのことによってのみ、聞く力の土台となる自己の内部を豊かにすることはできないだろうし、人の話を聞くことの本質=聞いたことに応えることも可能になるのだ。加えて、この内的な傾聴と思考のプロセスを鍛えるためには、一人で講義を聞いて、思考し、コメントを書くだけでは不十分だ。自分の抱いた疑問や考えは、なるべくすぐにでも周囲の人と共有することが必要だ。なぜなら人に伝わる言葉を選ぶことや人に伝えるために言葉を尽くすことが、同時に聞く力を支える、自己の中の表現や語彙の豊かさを高めることにもなるからである。それゆえ、講義を聞くだけでなく、考えた上でグループディスカッションやグループ発表を行うことにも大きな意義があるのだと考えられる。
 以上のことをまとめると、聞く力とは、1)傾聴すること、2)内容をよく考え、理解し、自分の考えとつきあわせ、3)他者に聞いたこと、考えたことを伝え、4)他者の話を聞いて再び思考して、5)改めて自分の意見を述べるというサイクルの繰り返しによってより一層高めることができるのだといえよう。そしてそのために、初年次教育ではどのような授業方法が有効かということだが、私は対話を基盤においた授業を構想している。
 一つ目の段階として、グループディスカッション、そしてのちには個人発表と質疑応答というように進んでいくことが考えられよう。一人一人が、授業において提示された題材や問題に関して―「看護と倫理」の場合であれば、各ケーススタディの例題:脳死臓器移植は妥当なのだろうか?など―自分の考えを述べ合い、人の言ったことに触発されて、あるいは自分自身が上手く考えを表現できない、という挫折の経験を踏み台にして、人の意見を聞いてそれに応える、あるいは多くの意見を集約するといったグループディスカッションの経験が、聞く力、そして表現する力を養成する上で大変有効な方法ではないかと考えられる。

人の話を聞くこと4(終)


聞く力の養成にむけて
 先日の授業は、学生たちに発表をしてもらった。各個人で統一テーマに関連する図書を一冊選び、内容と自分の考えをレジュメにまとめて報告するという形式である。(この発表が、のちに自分でテーマを決め、問を立ててレポートを書くことの足がかりとなる)ただひとりひとりが発表するのではなく、当然質疑応答もあるし、質問や意見をまとめるコメントシートも記入する。
 そこで見えたのは、彼らがそれぞれが提出した、各発表者についてのコメントは非常によく書けているのに、質疑応答がなかなかできないということだ。もちろん彼ら自身、こういう場で討論するということがほぼ初めてだろうから、質問の仕方が分からなかったり、自分の抱いた疑問が質問として妥当なのか自身が持てなかったりという事情もあっただろう。だから質問が出来なかったのは仕方がない。できるようになるのはまだ先の話だ。しかし、発表者へのコメントではみなしっかりと内容を咀嚼し、自分の関心・考えにひきつけた意見が書けていた。これはおそらく、1で書いた大学ナビという授業における、傾聴とノートテイクの訓練によって得られた成果だと考えられる。*
*大学ナビでは毎回教員の講義を聞いてノートを取り、講義の終わりに自分の意見をコメントする。さらに前期は、大学ナビでの講義を初年次演習で振り返り、グループ討論をして内容を報告しあうということも行なっていた。
 私がいまの学生たちにとって必要だと考える「聞く力」とは、何より人の言うことを理解して、自分の問題として考えた上で発言する力である。つまり表現することに向けての聞く力である。とすれば彼らが講義や友人の発表を聞き、ノートをとるまたは自分の意見をコメントとして書きだすことができているというのは、彼らにとっての大きな進歩ではないだろうか。
 聞く力とは、闇雲に傾聴することや、聞いたことをお経のようにアウトプットすることで培われるわけではない。そうではなく、私たちは、聞いたことをアウトプットするまでの段階に「疑問を持つ、自分の知識や経験から理解しようとつとめる、自分なりに内容を消化し、自分の言葉で反応する」という内的なプロセスを作動させているわけだが、聞く力とは、この内的なプロセスにおける豊かさや広がりなのではないだろうか。
 それゆえ、聞く力に恵まれた人―それは2で挙げた質問スキルの高い先生など―とは、幅広い知識とじっくり考えてきた経験を持ち、深く強靭な思考力を持った人ということが考えられる。それならば、聞く力とは、語彙と知識をたくさん吸収することによって高められるのだろうか。少なくとも単に教養や語彙力を付けさせるための講義だけでは不十分である。それらの知識がただ上から降り注ぐように与えられるだけでは大して意味が無い。そうではなく、彼らが学んだこと、聞いたことを、自らの内的なプロセスを通して、そこでの分かった・分からなかった両方の経験を踏まえて、自分の言葉で表現すること、そのことによってのみ、聞く力の土台となる自己の内部を豊かにすることはできないだろうし、人の話を聞くことの本質=聞いたことに応えることも可能になるのだ。加えて、この内的な傾聴と思考のプロセスを鍛えるためには、一人で講義を聞いて、思考し、コメントを書くだけでは不十分だ。自分の抱いた疑問や考えは、なるべくすぐにでも周囲の人と共有することが必要だ。なぜなら人に伝わる言葉を選ぶことや人に伝えるために言葉を尽くすことが、同時に聞く力を支える、自己の中の表現や語彙の豊かさを高めることにもなるからである。それゆえ、講義を聞くだけでなく、考えた上でグループディスカッションやグループ発表を行うことにも大きな意義があるのだと考えられる。
 以上のことをまとめると、聞く力とは、1)傾聴すること、2)内容をよく考え、理解し、自分の考えとつきあわせ、3)他者に聞いたこと、考えたことを伝え、4)他者の話を聞いて再び思考して、5)改めて自分の意見を述べるというサイクルの繰り返しによってより一層高めることができるのだといえよう。そしてそのために、初年次教育ではどのような授業方法が有効かということだが、私は対話を基盤においた授業を構想している。
 一つ目の段階として、グループディスカッション、そしてのちには個人発表と質疑応答というように進んでいくことが考えられよう。一人一人が、授業において提示された題材や問題に関して―「看護と倫理」の場合であれば、各ケーススタディの例題:脳死臓器移植は妥当なのだろうか?など―自分の考えを述べ合い、人の言ったことに触発されて、あるいは自分自身が上手く考えを表現できない、という挫折の経験を踏み台にして、人の意見を聞いてそれに応える、あるいは多くの意見を集約するといったグループディスカッションの経験が、聞く力、そして表現する力を養成する上で大変有効な方法ではないかと考えられる。

2011年11月15日火曜日

人の話を聞くこと3

前エントリ「人の話を聞くこと2」からつづく

こういうことを考えていたら、ちょうど京都新聞で、国語の授業にリスニングを取り入れる学校が増えているという記事が掲載されていた

国語の授業や学力テストで要点を聞き取る「リスニング」の実践が、京都の小中学校で広がっている。子どもたちが話を集中して聞き、要点を把握する 力が低下している、との危機感が背景にある。本年度から導入が始まった新学習指導要領では「聞く力」の向上が重要視されており、関心を集めそうだ。
八幡市の男山第三中は、始業前の10分間を活用した「メモ力」向上の学習を2年前に始めた。教師が新聞記事を読み上げ、生徒は注意深く聞きながらメモを取った。復興増税の記事では「賛成か反対か。その根拠は」と教師が質問した。
この学習を担当する辻村重子教諭(47)は「最初は読み上げた分をすべて書き取っていたが、慣れると何が重要かを判断できる。ほかの教科でも効率的にメモを取る習慣が付いた」と話す。
京都府教委は2003年度から、京都市教委は06年度から、小中学校で学力テストに国語のリスニングを導入。26日の府の一斉テストでも実施した。「東京 が最もよい。政治や経済の中心なので、多くのことを学びたい」「京都が一番よい。観光について学びたい」。宇治市の南宇治中では、スピーカーから流れる会 話に2年生約80人が耳を傾け、メモを取った。その後、東京、京都を支持する理由の正解を選んだ。
今春から小学校、来春から中学校で実施される新学習指導要領では、全教科で討論などの言語活動が盛り込まれ、これまで以上に「聞く力」の育成を重視している。
なぜ「聞く力」の育成が必要なのか。約15年前からリスニングを取り入れている修学院中(左京区)の礒谷義仁教諭(51)は「黒板の内容を写していても、実は頭に入っていない生徒が増えたため」と説明する。
9月の定期テストでは演歌「津軽海峡・冬景色」を生徒に聞かせ、「どこを旅したのか」「時間帯は」などと質問した。礒谷教諭は「インターネットが普及し、 人に聞かなくても調べられるようになった環境や、自分の興味のないことに無関心な傾向が要因ではないか。学校がコミュニケーション力を育まないといけな い」と強調する。
【 2011年10月31日 12時47分 】

この記事にあるように、確かに学生たちは、人の話を聞いて内容をすぐに理解したり、要点をメモしてまとめたりするのが苦手だ。メモを取る、要点をまとめる、そして議論する。どれも非常に大事な能力だ。できればこういう形で初等中等教育の段階で訓練を積んでおくのもいいだろう。
しかし大学生になってから、こういった聞き取りの勉強をするというのは、ちょっと難しい。というのも、大学での勉強は、技術であるべきではないからだ。
もちろん私自身、初年次教育の実践にたずさわっているので、日々「学ぶ技術」を探求し、教授している。レポートの書き方、ディスカッションやプレゼンの仕方などを教えているけど、ただ技術だけを教えているわけではない。書くことや話すことが、どのように日々の学習や今後の学びにつながるのかということを、なるべく学部での学習内容に引きつけて練習させるよう心がけている。だからどうしても、一方的に教材を投げて、聞き取り問題をやって聞く力をつけなさい、という方法は大学にはなじまないと思う。

ではどうしたらいいのか?改めて聞く力じたいについて考えなければならない。

人の話を聞くこと3

前エントリ「人の話を聞くこと2」からつづく

こういうことを考えていたら、ちょうど京都新聞で、国語の授業にリスニングを取り入れる学校が増えているという記事が掲載されていた

国語の授業や学力テストで要点を聞き取る「リスニング」の実践が、京都の小中学校で広がっている。子どもたちが話を集中して聞き、要点を把握する 力が低下している、との危機感が背景にある。本年度から導入が始まった新学習指導要領では「聞く力」の向上が重要視されており、関心を集めそうだ。
八幡市の男山第三中は、始業前の10分間を活用した「メモ力」向上の学習を2年前に始めた。教師が新聞記事を読み上げ、生徒は注意深く聞きながらメモを取った。復興増税の記事では「賛成か反対か。その根拠は」と教師が質問した。
この学習を担当する辻村重子教諭(47)は「最初は読み上げた分をすべて書き取っていたが、慣れると何が重要かを判断できる。ほかの教科でも効率的にメモを取る習慣が付いた」と話す。
京都府教委は2003年度から、京都市教委は06年度から、小中学校で学力テストに国語のリスニングを導入。26日の府の一斉テストでも実施した。「東京 が最もよい。政治や経済の中心なので、多くのことを学びたい」「京都が一番よい。観光について学びたい」。宇治市の南宇治中では、スピーカーから流れる会 話に2年生約80人が耳を傾け、メモを取った。その後、東京、京都を支持する理由の正解を選んだ。
今春から小学校、来春から中学校で実施される新学習指導要領では、全教科で討論などの言語活動が盛り込まれ、これまで以上に「聞く力」の育成を重視している。
なぜ「聞く力」の育成が必要なのか。約15年前からリスニングを取り入れている修学院中(左京区)の礒谷義仁教諭(51)は「黒板の内容を写していても、実は頭に入っていない生徒が増えたため」と説明する。
9月の定期テストでは演歌「津軽海峡・冬景色」を生徒に聞かせ、「どこを旅したのか」「時間帯は」などと質問した。礒谷教諭は「インターネットが普及し、 人に聞かなくても調べられるようになった環境や、自分の興味のないことに無関心な傾向が要因ではないか。学校がコミュニケーション力を育まないといけな い」と強調する。
【 2011年10月31日 12時47分 】

この記事にあるように、確かに学生たちは、人の話を聞いて内容をすぐに理解したり、要点をメモしてまとめたりするのが苦手だ。メモを取る、要点をまとめる、そして議論する。どれも非常に大事な能力だ。できればこういう形で初等中等教育の段階で訓練を積んでおくのもいいだろう。
しかし大学生になってから、こういった聞き取りの勉強をするというのは、ちょっと難しい。というのも、大学での勉強は、技術であるべきではないからだ。
もちろん私自身、初年次教育の実践にたずさわっているので、日々「学ぶ技術」を探求し、教授している。レポートの書き方、ディスカッションやプレゼンの仕方などを教えているけど、ただ技術だけを教えているわけではない。書くことや話すことが、どのように日々の学習や今後の学びにつながるのかということを、なるべく学部での学習内容に引きつけて練習させるよう心がけている。だからどうしても、一方的に教材を投げて、聞き取り問題をやって聞く力をつけなさい、という方法は大学にはなじまないと思う。

ではどうしたらいいのか?改めて聞く力じたいについて考えなければならない。

2011年11月5日土曜日

カール・デュ・プレルの翻訳

シュレーバーという人物がじつに興味深いのは、彼自身がどの様な本を読んで、自分の思想をつくりだしていったのかを、しっかり明記しているという点である。


シュレーバーの『ある神経病者の回想録』第6章、注36には、彼がこれまでに何度も読み、影響を受けた作家とその著作が列挙されている。そこで挙げられているのは、カール・デュ・プレルの『宇宙の発達史』、エルンスト・ヘッケルの『自然創造史』、ヴィルヘルム・マイヤーの雑誌『天と地』、エドゥアルド・フォン・ハルトマンが『現代』誌に発表した論考などである。中でも幾度も言及されているのが、カール・デュ・プレルという人物の著作である。


カール・デュ・プレルは1839年にバイエルンの古都ランツフートで生まれ、哲学および法律を修めた後軍務に就き、1870年代以降は退役して、在野の研究者として活動した。デュ・プレルという名前は今日ではもはやすっかり忘却されてしまっている(日本でも専門の研究者はいないし、学術論文も皆無だ)が、19世紀末にはかなりの影響力を持っていたと考えられる。それは彼の代表的な著作、『心霊主義』がレクラム文庫の一冊として刊行されていたことや、夢研究の大著『神秘哲学』(1885)がフロイトの『夢解釈』において言及されていたことなどからもうかがい知ることができる。


デュ・プレルの関心は宇宙進化論から心霊主義まで幅広く、著作の数も多い。(『氷河の十字架』(1890)という長編小説もある。長くてまだ読めてないが)私としては今後デュ・プレルの心霊研究活動をより詳しく研究していこうと考えている。その第一歩として、彼の代表作であり、シュレーバーにも大きな影響を与えたと考えられる、『心霊主義』の一章「いかにして私は心霊主義者となったか」を訳出した。デュ・プレルの文章は非常に読みにくく、何度読んでも意味が分からない箇所や誤訳もあるかもしれないが、こういう形で一つでも資料を使える形にしておくことが、自分にとっても、この分野に関心をもつ人にとっても意味があるのではないかと考えている。




いかにして心霊主義者

カール・デュ・プレルの翻訳

シュレーバーという人物がじつに興味深いのは、彼自身がどの様な本を読んで、自分の思想をつくりだしていったのかを、しっかり明記しているという点である。


シュレーバーの『ある神経病者の回想録』第6章、注36には、彼がこれまでに何度も読み、影響を受けた作家とその著作が列挙されている。そこで挙げられているのは、カール・デュ・プレルの『宇宙の発達史』、エルンスト・ヘッケルの『自然創造史』、ヴィルヘルム・マイヤーの雑誌『天と地』、エドゥアルド・フォン・ハルトマンが『現代』誌に発表した論考などである。中でも幾度も言及されているのが、カール・デュ・プレルという人物の著作である。


カール・デュ・プレルは1839年にバイエルンの古都ランツフートで生まれ、哲学および法律を修めた後軍務に就き、1870年代以降は退役して、在野の研究者として活動した。デュ・プレルという名前は今日ではもはやすっかり忘却されてしまっている(日本でも専門の研究者はいないし、学術論文も皆無だ)が、19世紀末にはかなりの影響力を持っていたと考えられる。それは彼の代表的な著作、『心霊主義』がレクラム文庫の一冊として刊行されていたことや、夢研究の大著『神秘哲学』(1885)がフロイトの『夢解釈』において言及されていたことなどからもうかがい知ることができる。


デュ・プレルの関心は宇宙進化論から心霊主義まで幅広く、著作の数も多い。(『氷河の十字架』(1890)という長編小説もある。長くてまだ読めてないが)私としては今後デュ・プレルの心霊研究活動をより詳しく研究していこうと考えている。その第一歩として、彼の代表作であり、シュレーバーにも大きな影響を与えたと考えられる、『心霊主義』の一章「いかにして私は心霊主義者となったか」を訳出した。デュ・プレルの文章は非常に読みにくく、何度読んでも意味が分からない箇所や誤訳もあるかもしれないが、こういう形で一つでも資料を使える形にしておくことが、自分にとっても、この分野に関心をもつ人にとっても意味があるのではないかと考えている。




いかにして心霊主義者