2012年10月20日土曜日

アルバイトの思い出2

前回のエントリからずいぶん時間がたってしまった。


2000年夏、塾講師。大学院に進学し、京都に引っ越した。あえて東京から京都に転居したのは、自分の中で日本=東京と狭く考えてしまっていることに気づいたからだった。京都に移って、言葉だけでなく様々な文化の違いや、単純に市バスが遅いとか本屋の品揃えが悪いとかいう不便さに気づいたが、一番ショックだったのがバイトの時給の安さだった。しかも大学院に進むと、学部の頃よりも当然のことながら忙しくなる。そこで一番効率がよさそうな塾講師をやってみることにした。担当科目は、一番好きな科目ということで国語にした。(あとで気づいたが、中学生レベルを教えるのであれば数学や英語にしておいたほうが仕事が多くてよかったのだ)はじめに高校生・浪人生対象の予備校講師の試験を受けたものの、模擬授業がうまく出来ず不採用。しかたなくもうちょっと待遇が悪い京都市内大手の塾の試験を受け、小中学生の国語を担当することになった。6月頃から伏見の校舎で研修を受け、夏休みから授業をやった。中学生たちは元気でかわいかったが、苦労したのは小学6年生のクラスだった。私自身中学受験とは全く縁のない田舎育ちだったから、勉強ができるわけでもない子たちが、なんで私学に行きたがるのか理解できなかったし、受験勉強が嫌なのに親に逆らえなくて、そのフラストレーションを塾で発散している子供たちを、どう受け止めたらいいのかよくわからなかったのだ。この塾は子供たちはろくでもなかったけど、先生方はとてもおもしろくて有能な人たちばかりで、いまでもよく思い出す。現在の自分の基礎を作った仕事だったと思う。悪くない職場だったけど、別の塾にもっと良い条件で雇ってもらえたので、ちょうど一年たった次の年の夏に辞めた。

2001年夏、塾講師(高校生対象)。M2になるころに、友人のお父さんが経営している個人塾から声がかかって、高校生に国語を教えることになった。伏見までの通勤のために普通自動二輪免許をとって、バイク通勤していたので、大津の塾にいくのも全く苦にならなかった。一学期は高校3年生の国語を教え、夏期講習では高3国語、中3国語のほか、高2英語、高3世界史を教え、秋以降は推薦入試を受けたいというギャル相手に小論文の指導もした。いろいろな科目を教えるという貴重な経験ができたけど、この職場には長くいられなかった。ここの塾は家族経営で、講師も私以外はもともとこの塾のOBOGばかりだった。だから塾長のワンマン体制だったし、とても息苦しい雰囲気だった。ただ集まってくる生徒はみんなとても優秀で、レベルの高い授業をしてもちゃんとついてきてくれてとてもやりがいがあった。受験直前期にはセンター日本史、古文漢文、地理(ほんの少し)なども担当し、遅い時には夜12時過ぎに帰宅ということもあった。こんなことばかりやってたので、当然大学院の勉強は思うようにはかどらず、留年することになる。
翌春に担当することになった高校3年生のクラスは理系志望ばかりで、国語のクラスに参加希望者が激減したため、私も仕事をやめざるを得なくなり、退職。

2002年春〜2005年春、喫茶店(調理・バリスタ)。修士課程3年目に入り、塾講師を続けていくことに自信がなくなってきた。受験勉強の経験に乏しい私は、やはり体を動かす仕事のほうが向いているのではないか、そう思い、当時つきあっていた彼女が学部時代からずっと喫茶店で働いていたので、おれもやってみようと、市内中心部の老舗喫茶店で働き始める。最初はギャルソンをやるつもりだったが、一日目にエプロンを渡され、その後3年間ずっと調理だけをやってきた。そのうちフロアもやらせてもらいたい、最初はそう思っていたが、一年ぐらい経つともともと別に好きでもなかった料理が楽しくてしょうがなくなった。店でうまくできなかったことや、新しいメニューは、家に帰って何度も練習した。この仕事は私の性格にあっていたようで、忙しいし、調理場はいつも暑いしで、全く楽な仕事ではなかったが、博士課程1年目の終わりまで続いた。料理がひと通りできるのはこの仕事のおかげである。

2004年春、図書館非常勤職員。博士課程進学後から、単位取得退学をする2009年春まで5年間続けた。たぶんバイトとしては二番目に長く続けた(一番長いのは堺看護専門学校)仕事だ。仕事内容は、図書館業務全般。本を並べ、貸し出す、閉館時に鍵を閉めるなど。このバイトのお陰で、京大人環総人図書館(旧教養部図書館)を端から端まで徹底的に利用することができた。棚に並んだばかりの新刊書から、購入以来数十年誰も使わなかったであろう、ぱりぱりになった洋書まで、様々な本を、業務の合間に手にとっては読んだ。このバイトのお陰で、私は大量の一次資料を集めるという博士論文で試みた研究方法を確立することができたのだと思う。
有名な折田像の看板。これが原本(?)か

図書館の地下の秘密通路。物置になってた。


2004年夏、ドイツ語講師。博士課程に進学後、すぐに先輩に声をかけられ、ドイツ語講師を派遣する会社に面接にいった。すぐに採用され、夏休みの終りに某電器メーカーの本社でドイツに駐在する予定の社員さんに、一ヶ月間ドイツ語の特訓をすることになった。一ヶ月間月曜から金曜まで一人で担当するのは無理だったので、他の先生と組んで、週に2,3回ほど門真の会社に通ってマンツーマンの授業をした。社員さんは、さすがに一流企業に入る人だけに、すごく頭が良くて説明したことを次々理解してくれた。私よりも8歳くらい年上の人だったが、とても丁寧でいつも優しかった。私が女子だったら、不倫していただろう。夏休みの集中授業のあとは、京都の某進学校に通う男子に、大学受験のためのドイツ語を教えた。彼はべつに帰国子女ではなく、単に英語が嫌いだからドイツ語で受験したい、というちょっと変わった子だった。本人はそこそこがんばっていたが、さすがに医学部を受験するにはまだまだ勉強不足で、けっきょくセンター試験も二次試験も満足の行く結果は挙げられなかったようだ。
その後この会社での仕事は、駐在員さんへのドイツ語講座を一回、駐在員の奥さまへのドイツ語と生活の研修を一回やらせてもらった。最近は英語や他の言語の講師を探して欲しいという依頼ばかりで、ドイツ語の仕事は来ない。




アルバイトの思い出2

前回のエントリからずいぶん時間がたってしまった。


2000年夏、塾講師。大学院に進学し、京都に引っ越した。あえて東京から京都に転居したのは、自分の中で日本=東京と狭く考えてしまっていることに気づいたからだった。京都に移って、言葉だけでなく様々な文化の違いや、単純に市バスが遅いとか本屋の品揃えが悪いとかいう不便さに気づいたが、一番ショックだったのがバイトの時給の安さだった。しかも大学院に進むと、学部の頃よりも当然のことながら忙しくなる。そこで一番効率がよさそうな塾講師をやってみることにした。担当科目は、一番好きな科目ということで国語にした。(あとで気づいたが、中学生レベルを教えるのであれば数学や英語にしておいたほうが仕事が多くてよかったのだ)はじめに高校生・浪人生対象の予備校講師の試験を受けたものの、模擬授業がうまく出来ず不採用。しかたなくもうちょっと待遇が悪い京都市内大手の塾の試験を受け、小中学生の国語を担当することになった。6月頃から伏見の校舎で研修を受け、夏休みから授業をやった。中学生たちは元気でかわいかったが、苦労したのは小学6年生のクラスだった。私自身中学受験とは全く縁のない田舎育ちだったから、勉強ができるわけでもない子たちが、なんで私学に行きたがるのか理解できなかったし、受験勉強が嫌なのに親に逆らえなくて、そのフラストレーションを塾で発散している子供たちを、どう受け止めたらいいのかよくわからなかったのだ。この塾は子供たちはろくでもなかったけど、先生方はとてもおもしろくて有能な人たちばかりで、いまでもよく思い出す。現在の自分の基礎を作った仕事だったと思う。悪くない職場だったけど、別の塾にもっと良い条件で雇ってもらえたので、ちょうど一年たった次の年の夏に辞めた。

2001年夏、塾講師(高校生対象)。M2になるころに、友人のお父さんが経営している個人塾から声がかかって、高校生に国語を教えることになった。伏見までの通勤のために普通自動二輪免許をとって、バイク通勤していたので、大津の塾にいくのも全く苦にならなかった。一学期は高校3年生の国語を教え、夏期講習では高3国語、中3国語のほか、高2英語、高3世界史を教え、秋以降は推薦入試を受けたいというギャル相手に小論文の指導もした。いろいろな科目を教えるという貴重な経験ができたけど、この職場には長くいられなかった。ここの塾は家族経営で、講師も私以外はもともとこの塾のOBOGばかりだった。だから塾長のワンマン体制だったし、とても息苦しい雰囲気だった。ただ集まってくる生徒はみんなとても優秀で、レベルの高い授業をしてもちゃんとついてきてくれてとてもやりがいがあった。受験直前期にはセンター日本史、古文漢文、地理(ほんの少し)なども担当し、遅い時には夜12時過ぎに帰宅ということもあった。こんなことばかりやってたので、当然大学院の勉強は思うようにはかどらず、留年することになる。
翌春に担当することになった高校3年生のクラスは理系志望ばかりで、国語のクラスに参加希望者が激減したため、私も仕事をやめざるを得なくなり、退職。

2002年春〜2005年春、喫茶店(調理・バリスタ)。修士課程3年目に入り、塾講師を続けていくことに自信がなくなってきた。受験勉強の経験に乏しい私は、やはり体を動かす仕事のほうが向いているのではないか、そう思い、当時つきあっていた彼女が学部時代からずっと喫茶店で働いていたので、おれもやってみようと、市内中心部の老舗喫茶店で働き始める。最初はギャルソンをやるつもりだったが、一日目にエプロンを渡され、その後3年間ずっと調理だけをやってきた。そのうちフロアもやらせてもらいたい、最初はそう思っていたが、一年ぐらい経つともともと別に好きでもなかった料理が楽しくてしょうがなくなった。店でうまくできなかったことや、新しいメニューは、家に帰って何度も練習した。この仕事は私の性格にあっていたようで、忙しいし、調理場はいつも暑いしで、全く楽な仕事ではなかったが、博士課程1年目の終わりまで続いた。料理がひと通りできるのはこの仕事のおかげである。

2004年春、図書館非常勤職員。博士課程進学後から、単位取得退学をする2009年春まで5年間続けた。たぶんバイトとしては二番目に長く続けた(一番長いのは堺看護専門学校)仕事だ。仕事内容は、図書館業務全般。本を並べ、貸し出す、閉館時に鍵を閉めるなど。このバイトのお陰で、京大人環総人図書館(旧教養部図書館)を端から端まで徹底的に利用することができた。棚に並んだばかりの新刊書から、購入以来数十年誰も使わなかったであろう、ぱりぱりになった洋書まで、様々な本を、業務の合間に手にとっては読んだ。このバイトのお陰で、私は大量の一次資料を集めるという博士論文で試みた研究方法を確立することができたのだと思う。
有名な折田像の看板。これが原本(?)か

図書館の地下の秘密通路。物置になってた。


2004年夏、ドイツ語講師。博士課程に進学後、すぐに先輩に声をかけられ、ドイツ語講師を派遣する会社に面接にいった。すぐに採用され、夏休みの終りに某電器メーカーの本社でドイツに駐在する予定の社員さんに、一ヶ月間ドイツ語の特訓をすることになった。一ヶ月間月曜から金曜まで一人で担当するのは無理だったので、他の先生と組んで、週に2,3回ほど門真の会社に通ってマンツーマンの授業をした。社員さんは、さすがに一流企業に入る人だけに、すごく頭が良くて説明したことを次々理解してくれた。私よりも8歳くらい年上の人だったが、とても丁寧でいつも優しかった。私が女子だったら、不倫していただろう。夏休みの集中授業のあとは、京都の某進学校に通う男子に、大学受験のためのドイツ語を教えた。彼はべつに帰国子女ではなく、単に英語が嫌いだからドイツ語で受験したい、というちょっと変わった子だった。本人はそこそこがんばっていたが、さすがに医学部を受験するにはまだまだ勉強不足で、けっきょくセンター試験も二次試験も満足の行く結果は挙げられなかったようだ。
その後この会社での仕事は、駐在員さんへのドイツ語講座を一回、駐在員の奥さまへのドイツ語と生活の研修を一回やらせてもらった。最近は英語や他の言語の講師を探して欲しいという依頼ばかりで、ドイツ語の仕事は来ない。




2012年8月21日火曜日

灯篭流しと送り火

8月16日には、送り火を家から見た。

京都市内北西に住んでいるので、我が家から「鳥居」が見える。
鳥居の送り火があるのは、嵐山の北、化野念仏寺や愛宕山があるあたり。
この山は低いので、大文字山のように広い範囲から見ることはおそらくできない。
大学院生の頃は毎年吉田キャンパスから送り火を眺めたが、左大文字(立命館あたり)や鳥居は京大からだとだいぶ遠いので、限られた建物からほんのちょっとしか見ることができなかった。昨年は友人と銀閣寺道近辺で大文字を見たので、今年は自宅から見るはじめての鳥居だ。
夕方六時頃、準備をする様子が見えるかもしれないと思い、マンションの廊下に出ると、鳥居の周辺に小さな明かりが灯っていた。

点火するのは8時すぎらしいので、それまでに、灯篭流しをしていた広沢池に歩いて行ってみた。広沢池は毎日のように走りに行く場所で、京都マラソンもこの場所から見たが、灯篭流しにはどこから集まったのか、信じられないほど沢山の人が来ていた。
池のうえには小舟がでていて、船の上からゆっくりとひとつひとつ灯籠を池に浮かべている。色とりどりの灯籠が、ふわふわ水の上に浮かぶ様子は本当に幻想的だった。
8時近くに帰宅して、マンションの自室で点火のときを待っていると、部屋の外が徐々に騒がしくなってきた。他の部屋や他の階の住人たちが集まってきている様子だった。前のアパートでもそうだが、送り火の日にはどのマンションでも、住人やその友達などが、送り火が見える上層階や屋上にみんな集まってくる。その様子を見るのも面白い。

8時半頃、いちばん火勢が強くなっている頃を見計らって、ベランダから写真を何枚もとった。写真だとずいぶん小さくなってしまうが、鳥居は思いのほか近くて、くっきりと見ることができた。






灯篭流しと送り火

8月16日には、送り火を家から見た。

京都市内北西に住んでいるので、我が家から「鳥居」が見える。
鳥居の送り火があるのは、嵐山の北、化野念仏寺や愛宕山があるあたり。
この山は低いので、大文字山のように広い範囲から見ることはおそらくできない。
大学院生の頃は毎年吉田キャンパスから送り火を眺めたが、左大文字(立命館あたり)や鳥居は京大からだとだいぶ遠いので、限られた建物からほんのちょっとしか見ることができなかった。昨年は友人と銀閣寺道近辺で大文字を見たので、今年は自宅から見るはじめての鳥居だ。
夕方六時頃、準備をする様子が見えるかもしれないと思い、マンションの廊下に出ると、鳥居の周辺に小さな明かりが灯っていた。

点火するのは8時すぎらしいので、それまでに、灯篭流しをしていた広沢池に歩いて行ってみた。広沢池は毎日のように走りに行く場所で、京都マラソンもこの場所から見たが、灯篭流しにはどこから集まったのか、信じられないほど沢山の人が来ていた。
池のうえには小舟がでていて、船の上からゆっくりとひとつひとつ灯籠を池に浮かべている。色とりどりの灯籠が、ふわふわ水の上に浮かぶ様子は本当に幻想的だった。
8時近くに帰宅して、マンションの自室で点火のときを待っていると、部屋の外が徐々に騒がしくなってきた。他の部屋や他の階の住人たちが集まってきている様子だった。前のアパートでもそうだが、送り火の日にはどのマンションでも、住人やその友達などが、送り火が見える上層階や屋上にみんな集まってくる。その様子を見るのも面白い。

8時半頃、いちばん火勢が強くなっている頃を見計らって、ベランダから写真を何枚もとった。写真だとずいぶん小さくなってしまうが、鳥居は思いのほか近くて、くっきりと見ることができた。






2012年8月20日月曜日

アルバイトの思い出(1)

Facebookなどで学生時代のバイト先の友人をフォローしてたりするんだけど、ふと思い出すと、その学生時代というのがかなり昔のことなんだな、と気づく。人の数倍ながく学校には通っていたが、それでも大学院博士課程を出てからもうすでに4年もたってしまっている。先日博士論文を提出して、ようやく自分の長かった学生時代にも一区切りがつけられそうなので、ここで先日作った研究関係の年表を補完する意味で、これまでやってきたアルバイトについてもまとめておこう。


1995年夏:採点。大宮の予備校に通う浪人生の頃、友人の姉さんが講師を勤めていた宇都宮の塾で採点のバイト。たしか中学生の模擬テストだった。同じ高校から予備校に行ってた悪友たちといっしょに塾に行き、それぞれの得意科目を分担して採点。私は英語を担当したが、数学や社会に比べて採点にやたら時間がかかり、自分だけ損した気分になった。日当をもらって帰ったが、何に使ったか全く覚えていない。

1996年初夏:配膳人。大学で出会った友人の紹介で、市ヶ谷のホテルの宴会場で働くことにした。配膳人というのは時給がとても高い(高校時代から働いていた友人は2000円くらいもらっていたらしい)し、山形の大学に通う兄が同様に披露宴会場でバイトしてたので、自分にもできるだろうと思ったからだ。職場は同年代の学生や、かわいい女の子もいたけど、入った季節が悪すぎた。ビヤガーデンや披露宴など、入って一週間で戦場のような忙しさを体験し、同じ時期に入った友人と謝りに行き、早々に退職。後になってみると、もう少し頑張ってもよかったとは思うが、あの仕事は明らかに田舎の高校を出たばかりのバイト初心者ができるものではなかった。

1996年夏:ハンバーガー屋。高い時給に釣られると痛い目にあうということを学習したので、今度は誰でもできそうな仕事をしようと思い、自宅近くの某ファーストフード店に面接に行く。事務所までは家から5分くらいしかかからなかったので、通勤は楽だったが、仕事はきつかった。私が住んでいた町は学生街で、平日も休日も商店街はひとでいっぱいだったのだ。店長はとても厳しい人で、ベテランのバイトもパートのおばちゃんも容赦なく叱り飛ばされていたし、私は何度も肉の焼き方が下手で、膝蹴りを食らった。一ヶ月半ほど我慢したが、レジ担当の女子たちとは仲良くなれないし、こんなに毎日怒られて時給800円以下というのはあんまりだと思い夏休みの終わり頃に退職。激務と夏バテで、毎日のようにハンバーガーを食べてたのに一気に痩せた。

1996年秋:コンビニ。誰でもできる普通の仕事で、かつあまり忙しくなさそうな職場、ということでバイト雑誌をくまなく眺めて、渋谷の西の外れにあるお屋敷街のコンビニで働くことにした。何度も地図を見てリサーチしたので、たしかにお店の客は少なめなのだが、周囲に買い物できる場所がほとんどないため、たくさん買い物をするお客さんが多かった。おかげで店の規模に比べて品出しがけっこうたいへんだった。夜勤スタッフとして週2回働いていたが、一回の勤務がよる9時からあさ9時までなので、週2でけっこうなお金が得られた。しかし当然のことながら、生活リズムは狂うし、大学の授業に出ることも厳しくなってしまった。1年次は登録した単位の3分の2程度しか取得できなかった。しかしこの店は、店長がバイト学生たちの活動に大変理解のある人で、私は夏休みや春休みの語学研修に行くために、何度も長期休暇をもらうことができた。仕事は楽ではなかったが、結局大学3年の終わりまで続けた。

1996年冬:餅つき屋(面接のみ)。海外旅行をしようと決意し、コンビニだけでなくもっと面白そうな仕事をしようと、大学の近所にある餅つき屋に面接に行った。はじめは、餅つきなんて楽しそうな仕事じゃないか、と簡単に考えていたが、餅つき屋の社長(自称親方)はガチガチの体育会系で、すごくおっかなそうな人だった。親方が言うには、餅つきは死ぬ気でやらなければならないから、生理痛だろうが39度の熱だろうが絶対に休ませない、とのことだった。今で言うところのブラック臭に耐えられず、面接の途中で謝って帰った。


1997年ごろ。ときどき帰省して猫をさわったり
栄養のあるものを食べたりしていた。
1997年夏:図書館の整理。コンビニのバイト(2年のときは主に夕方と休日に集中させ、大学の授業にしっかり出ていた)だけでは海外旅行のための資金が稼げないので、夏休みに2ヶ月だけ世田谷区内の某農業大学の図書館で、書庫の整理をした。図書館の仕事といっても、これは本当に引越し屋に近い、肉体労働だった。最初の10日間は、本を分類したり箱に詰めたりといった軽作業だったが、しだいにきつくなり、書庫から本を運び出す作業をしていたころは、一日の勤務で体重が2,3キロ落ちたりした。バイトに集まったのは、慶應・中央・早稲田など都内のわりと頭のよさげな大学の子たちで、お昼や休み時間にみんなとしゃべるのはとても楽しかった。しかし油断しすぎておもいっきり居眠りしていたのを社員さんに見つかってしまい、その場でクビを言い渡されるが、平謝りして許してもらったこともあった。

1999年春:メッセンジャー兼事務補佐。4年生になるにあたり、まわりのみんなが就活をしているなか、大学院に進むことを決意する。そこで、会社勤めをしないのなら、会社でバイトをしようと思い、コンビニを辞め、西新宿にある通訳者の派遣や国際会議のコーディネートをする会社で働くことに。普段の仕事は、クライアントである企業や官庁にいって、書類をもらったり・届けたりといったメッセンジャー業務と、社員さんの手伝いだった。この仕事は、暇な時は何もすることがなくてつまらなかったが、用事を言いつけられていろんな所に行けるのが本当に面白かった。外務省、大蔵省、国土省、警察庁など霞が関の役所には毎週行ったし、我孫子や千葉など、時間のかかる場所にいくときは、じっくり本を読めた。この職場で有り難かったのは、部長さんをはじめ、社員の皆さんがバイト学生をとても大事にしてくれたことだった。OLさんたちには、いつもねぎらいの言葉をかけてもらったり、お菓子をいただくことも多かった。院試の直前には、毎朝喫煙所でいっしょになる、隣の部署の部長さんから、面接に向けてのアドバイスを頂いた。3月に退職するときは、プレゼントをもらい、部署の皆さんから拍手で送ってもらった。あの会社の人たちのことは今でもよく思い出すし、ああいう場で働けたことに感謝している。

2000年以降、大学院生になってからのバイトの話は、次回につづく。

アルバイトの思い出(1)

Facebookなどで学生時代のバイト先の友人をフォローしてたりするんだけど、ふと思い出すと、その学生時代というのがかなり昔のことなんだな、と気づく。人の数倍ながく学校には通っていたが、それでも大学院博士課程を出てからもうすでに4年もたってしまっている。先日博士論文を提出して、ようやく自分の長かった学生時代にも一区切りがつけられそうなので、ここで先日作った研究関係の年表を補完する意味で、これまでやってきたアルバイトについてもまとめておこう。


1995年夏:採点。大宮の予備校に通う浪人生の頃、友人の姉さんが講師を勤めていた宇都宮の塾で採点のバイト。たしか中学生の模擬テストだった。同じ高校から予備校に行ってた悪友たちといっしょに塾に行き、それぞれの得意科目を分担して採点。私は英語を担当したが、数学や社会に比べて採点にやたら時間がかかり、自分だけ損した気分になった。日当をもらって帰ったが、何に使ったか全く覚えていない。

1996年初夏:配膳人。大学で出会った友人の紹介で、市ヶ谷のホテルの宴会場で働くことにした。配膳人というのは時給がとても高い(高校時代から働いていた友人は2000円くらいもらっていたらしい)し、山形の大学に通う兄が同様に披露宴会場でバイトしてたので、自分にもできるだろうと思ったからだ。職場は同年代の学生や、かわいい女の子もいたけど、入った季節が悪すぎた。ビヤガーデンや披露宴など、入って一週間で戦場のような忙しさを体験し、同じ時期に入った友人と謝りに行き、早々に退職。後になってみると、もう少し頑張ってもよかったとは思うが、あの仕事は明らかに田舎の高校を出たばかりのバイト初心者ができるものではなかった。

1996年夏:ハンバーガー屋。高い時給に釣られると痛い目にあうということを学習したので、今度は誰でもできそうな仕事をしようと思い、自宅近くの某ファーストフード店に面接に行く。事務所までは家から5分くらいしかかからなかったので、通勤は楽だったが、仕事はきつかった。私が住んでいた町は学生街で、平日も休日も商店街はひとでいっぱいだったのだ。店長はとても厳しい人で、ベテランのバイトもパートのおばちゃんも容赦なく叱り飛ばされていたし、私は何度も肉の焼き方が下手で、膝蹴りを食らった。一ヶ月半ほど我慢したが、レジ担当の女子たちとは仲良くなれないし、こんなに毎日怒られて時給800円以下というのはあんまりだと思い夏休みの終わり頃に退職。激務と夏バテで、毎日のようにハンバーガーを食べてたのに一気に痩せた。

1996年秋:コンビニ。誰でもできる普通の仕事で、かつあまり忙しくなさそうな職場、ということでバイト雑誌をくまなく眺めて、渋谷の西の外れにあるお屋敷街のコンビニで働くことにした。何度も地図を見てリサーチしたので、たしかにお店の客は少なめなのだが、周囲に買い物できる場所がほとんどないため、たくさん買い物をするお客さんが多かった。おかげで店の規模に比べて品出しがけっこうたいへんだった。夜勤スタッフとして週2回働いていたが、一回の勤務がよる9時からあさ9時までなので、週2でけっこうなお金が得られた。しかし当然のことながら、生活リズムは狂うし、大学の授業に出ることも厳しくなってしまった。1年次は登録した単位の3分の2程度しか取得できなかった。しかしこの店は、店長がバイト学生たちの活動に大変理解のある人で、私は夏休みや春休みの語学研修に行くために、何度も長期休暇をもらうことができた。仕事は楽ではなかったが、結局大学3年の終わりまで続けた。

1996年冬:餅つき屋(面接のみ)。海外旅行をしようと決意し、コンビニだけでなくもっと面白そうな仕事をしようと、大学の近所にある餅つき屋に面接に行った。はじめは、餅つきなんて楽しそうな仕事じゃないか、と簡単に考えていたが、餅つき屋の社長(自称親方)はガチガチの体育会系で、すごくおっかなそうな人だった。親方が言うには、餅つきは死ぬ気でやらなければならないから、生理痛だろうが39度の熱だろうが絶対に休ませない、とのことだった。今で言うところのブラック臭に耐えられず、面接の途中で謝って帰った。


1997年ごろ。ときどき帰省して猫をさわったり
栄養のあるものを食べたりしていた。
1997年夏:図書館の整理。コンビニのバイト(2年のときは主に夕方と休日に集中させ、大学の授業にしっかり出ていた)だけでは海外旅行のための資金が稼げないので、夏休みに2ヶ月だけ世田谷区内の某農業大学の図書館で、書庫の整理をした。図書館の仕事といっても、これは本当に引越し屋に近い、肉体労働だった。最初の10日間は、本を分類したり箱に詰めたりといった軽作業だったが、しだいにきつくなり、書庫から本を運び出す作業をしていたころは、一日の勤務で体重が2,3キロ落ちたりした。バイトに集まったのは、慶應・中央・早稲田など都内のわりと頭のよさげな大学の子たちで、お昼や休み時間にみんなとしゃべるのはとても楽しかった。しかし油断しすぎておもいっきり居眠りしていたのを社員さんに見つかってしまい、その場でクビを言い渡されるが、平謝りして許してもらったこともあった。

1999年春:メッセンジャー兼事務補佐。4年生になるにあたり、まわりのみんなが就活をしているなか、大学院に進むことを決意する。そこで、会社勤めをしないのなら、会社でバイトをしようと思い、コンビニを辞め、西新宿にある通訳者の派遣や国際会議のコーディネートをする会社で働くことに。普段の仕事は、クライアントである企業や官庁にいって、書類をもらったり・届けたりといったメッセンジャー業務と、社員さんの手伝いだった。この仕事は、暇な時は何もすることがなくてつまらなかったが、用事を言いつけられていろんな所に行けるのが本当に面白かった。外務省、大蔵省、国土省、警察庁など霞が関の役所には毎週行ったし、我孫子や千葉など、時間のかかる場所にいくときは、じっくり本を読めた。この職場で有り難かったのは、部長さんをはじめ、社員の皆さんがバイト学生をとても大事にしてくれたことだった。OLさんたちには、いつもねぎらいの言葉をかけてもらったり、お菓子をいただくことも多かった。院試の直前には、毎朝喫煙所でいっしょになる、隣の部署の部長さんから、面接に向けてのアドバイスを頂いた。3月に退職するときは、プレゼントをもらい、部署の皆さんから拍手で送ってもらった。あの会社の人たちのことは今でもよく思い出すし、ああいう場で働けたことに感謝している。

2000年以降、大学院生になってからのバイトの話は、次回につづく。

2012年8月10日金曜日

博士論文公聴会のてんまつ

頭が良くなるサプリを飲んで
準備をがんばった
8月6日無事に博士論文公聴会が終わった。

私が所属する研究科は、論文公聴会を公開で行なっている。
25部用意した資料は足りず、妻に追加コピーをとってきてもらった。

指導教授、および副査の先生方、質問をしてくれた二人の友人たち、
それぞれにとても有意義な意見をおっしゃってくださった。

書き上げる途中から、もうすっかり飽きてしまっていたこの論文だが、
こうして人の評価を聞くと、まだまだこのテーマに向きあい続けなければいけない
のかな、と改めて思う。



下は、当日配布した資料です。
kouchokai8.6