2014年9月23日火曜日

丹後ウルトラマラソンをふりかえる

 去年につづいて9月14日に、歴史街道丹後ウルトラマラソン(60kmの部)に出場したので、振り返ってみたい。
・出場のきっかけ
 雑誌などでみて、人間はどれだけ走れるのかと興味をもった。ウルトラマラソンの大会は全国各地で開催されているけど、なかでも地理的に参加しやすいのが、今回出場した丹後ウルトラマラソンだった。雑誌ランナーズなどを見ていると、ハーフやフルマラソンの大会はほぼどの都道府県でも開催されているが、ウルトラマラソンはごく限られた場所でしか行われていない。有名どころ、人気どころといえば、6月のサロマ湖、四万十川、飛騨高山、隠岐島、石垣島、そして丹後半島といったところ。これだけ見ても分かるように、大都市圏から遠く離れた、いわばかなり辺鄙な場所で開かれていることが分かる。それはもちろん、100kmなんていう距離を大会のために使うのがちょっとやそっとの田舎では、非常に難しいということを意味している。私の場合はさらに、ハッピーマンデーは関係なく基本的に月曜日は仕事なので、どうしても日曜日のうちに帰ってこれる大会にしか出場できない。そういう意味で、丹後はちょうどよかったのだ。クルマや電車で3〜4時間かかるけど、なんとか当日中に家まで帰れる距離の大会というのはとてもありがたい。そして夏休みの終わりという時期も、ふだんあまりちゃんと練習できない私にとってはちょうどよかった。

・練習
出場を決めてから、去年はだらけがちな夏休みに奮起して、8月に200km、9月に入ってからも100kmくらいは走っていた。コースの難所とされる峠道の対策として、(当時は右京区在住だったので)嵐山から保津峡へ抜ける八丁峠を上り降りする練習をしていた。今年はドイツに調査に行って、その間自然豊かなドイツで練習に励めると思っていたけど、実際は日本に比べて寒すぎて外にでる気になれなかったり、毎日博物館や図書館に出かけたりとそれなりに忙しくて、ちょっとしたジョギングや公園をウォーキングする程度の練習しかできていなかった。9月に入ってこれではまずいと、長距離を走る練習を始めたが、それとても1回に20km程度を3〜4回ほど。全体として完全に練習不足だった。
 フルマラソンやウルトラマラソンに出るというと、ゴールするまでずっと走っているのか?と聞かれることが多いが、私も含めてわりと多くの人が歩いたり走ったりしている。全部走りきれる人たちは一部のエリートランナーだけじゃないかと思う。私の場合、今回は全体の5分の1くらいは歩いている。3分の1くらいは小走り程度の速度。まともに走ってるのは半分くらいかもしれない。
 以下、スタートからゴールまで、どんな体調でどんなことを考えながら走っていたのか振り返ってみたい。

・スタートから10kmあたり
60kmの部スタート地点。9時にスタート。


久美浜湾と日本海をへだてる砂州、小天橋の海水浴場。きれいな砂浜がつづいています。

こっちは久美浜湾。波がなく水がきれいでした。
 去年とことなり、明るく良く晴れた日。風はひんやりしているが、日差しは強かった。スタートまではわりと涼しいと思っていたが、走り始めると一気に暑くなって汗がたくさん出た。最初の数キロは久美浜湾をぐるっと回る。海のように見えるが、汽水湖なので波がなく穏やかな湖面が美しかった。10kmあたりまでは本当に余裕。梨農園の方がふるまってくれた梨がおいしかった。
・10km〜20km
久美浜湾の砂州を左手に見ながら。風が強い場所らしく、木の生え方がおかしかった。

最初の難所といわれる七竜峠。登り切ったところで休憩できました。

 このあたりで久美浜湾の東側から夕日ヶ浦温泉、そして峠道となる。この大会に出場して改めて思ったが、私は上り下りがあるコースが好きなのだ。じりじり登っていき、一気にくだるのはやはり楽しい。平地はつまらないから苦手。去年は腰痛で寝こむほど毎日峠でのトレーニングに明け暮れていたが、今年はそんなに練習できていなかった。近所の急坂ということで、夙川駅から越木岩神社までの坂道で何度か練習していたけど、ぜんぜん足りなかった。
・20km〜30km
峠からの下りは風景がすばらしい。

うどん休憩。炭水化物としょっぱい汁がおいしい。

 22km地点でうどんが振る舞われる。網野の街を通りぬけ、網野町郊外のあじわいの里へ。ちょうどお昼ごろの時間で、だいぶ暑さが厳しくなってくる。給水所で水を飲むだけでなく頭からかぶる人が多数。私は靴に水が入るのが嫌で、顔を洗う程度にしておいた。まだまだ脚は元気。しかし左足の薬指に水ぶくれができ始めていることはわかっていた。

・30km〜40km
30km地点。味わいの里。ここの休憩所ではパンが振る舞われる。パンを少し食べ、水をたくさん飲んだ。

弥栄庁舎の休憩所。ここではばら寿司が出た。

 33km地点の京丹後市弥栄庁舎で長めの休憩。ストレッチなどをする。脚の筋と腰の周りの筋肉が張っていた。腰の周り(尻と腰の上あたり)がこわばる感じは、この距離を走らないとなかなかふだん感じることはない。毎回フルマラソンで失速するのは、この張りが出始めてから。だったらもっと長時間・長距離の練習をすれば克服できるのでは、と毎回思うが、毎回あとのまつりである。

・40km〜50km
47.5kmの休憩所。ここの休憩がいちばんうれしかった。

 去年と同じく、この区間が一番大変だった。47km地点まではほぼ平坦な栃木の実家付近のような田園地帯。去年は脚の筋(脇腹から内腿あたり)が痛くて殆ど歩いた。今回はなるべく歩かないように少しずつ走った。47.5km地点の休憩所で元気を取り戻す。とにかく暑くて水分がすぐ失われる。しかし飲み過ぎると気持ち悪くなる。適度な水分補給の難しさを知る。

・50km〜60km
間人海岸付近。脚が痛くてもうやめたかったが、景色の美しさは十分に楽しんだ。

残り1km地点。網野の町の人たちが歓迎してくれる。ここまで来て本当に良かったと思う。

 カニで有名な間人海岸と間人の漁村がよく見えるコース。景色がすばらしかった。去年はこの区間をほとんど歩かずに走ったが、今回は暑さに負けて、3分の1くらい歩いてしまった。この区間で脚と腰回りが痛くて足が前に出なくなったのはやはり練習不足が原因。20分位タイムを短縮できるかと思ったら、あまり早くなくてがっかり。
 
 以前も書いたけど、マラソン大会は走りながら景色を眺めたり、美味しいものを食べたりするのも楽しみの一つだ。
 マラソン大会はたしかにタイムや順位を争うものだが、それだけではない。多くの場合、大会にやってくる人は優勝だけをめざしているわけではない。走っているとき何が見えるだろうか?走りながら飲む水がどんな味だろうか?走り終わったとき、どのくらい疲れるのだろうか?疲れて戻ってきてビールを飲んだとき、どれほどうまいだろうか?そんなふうに、走っている間のこと、そして走り終えてからのことを楽しみに、全国から集まってくるのだろう。来年は100キロに挑戦できるかも、と思っていたが、今年と同じように翌日から授業があるということ、そして自分の走力を考えると、まだまだ60kmにしておいたほうがよさそうだ。

2014年9月18日木曜日

ドイツふりかえり3博物館めぐり

今回の滞在では、フランクフルトとライプツィヒの国立図書館だけでなく、さまざまな分野の資料を閲覧し、図録や本などを買うため、いろいろな博物館にも行ってみた。フランクフルト、ライプツィヒ、ドレスデンで行ってきた博物館について順を追って整理したい。

知人に勧められてフランクフルト滞在二日目に訪れたシュテーデル美術館。美術館ってけっこう体力を奪う(集中して見るから?)からちょっと敬遠してたんだけど、行ってみたらやはりすばらしかった。この美術館は、中世・近世の絵画から現代美術まで、非常に幅広くそして数々の名作が収められている。とりわけ有名なのは、イタリアのゲーテ像。ゲーテが座っている背景が非常に細かく書き込まれているが、なぜか私はゲーテの足が小さいことがちょっと気になった。印象派以前の絵画を見ると非常に緻密に木々の葉を一枚一枚描いている絵が多いが、そのぎっしり緑が茂る様子は、ちょうどいま自分が外で見ている夏のドイツの風景と同じなんじゃないかと気づいた。つまり、短い夏に一気に生い茂る緑が人に与えるエネルギーみたいなのが、こういったぎっしりした絵を描かせるのではないかと思った。

マイン川の橋からみたシュテーデル美術館

私は、2013年3月にドレスデンに滞在した際にも、ライプツィヒを一度訪れている。(過去日記参照)当時は博士論文を刊行する準備を進めており、そのためにいくつか行っておきたい場所があって、その一つがこの博物館だった。クラインガルテンというのは、1860年代後半に、ライプツィヒの医者で教育家だったダニエル・ゴットロープ・モーリツ・シュレーバーの身体運動を重視する教育論に感銘を受けたハウスシルトという人物が、ライプツィヒ西部に開いた庭園を起源としている。ハウスシルトはシュレーバーの理念に則り、いくつかの個人菜園(20m四方くらい)と遊技場(100m四方くらい)を備えたシュレーバー庭園を各地に設立した。これが現在までドイツ各地にあるクラインガルテンとして残っている。博物館では、初期のクラインガルテン協会から、20世紀以後にどのように発展していったかが多数の写真や当時の物品とともに解説されていた。クラインガルテンというのは、単なる趣味の菜園としてのみならず、子供の教育や、大人の余暇活動、そしてドイツ人の自然観とも関わっているし、さらに100年以上前のドイツ人が都市生活をどのように考えていたのかを知る上でも大変興味深いものである。これまでは、シュレーバーの教育論にもっぱら関心を持ってきたが、もう少し後の時代のことも含め、調べてみたいと思った。
シュレーバー協会設立に関わった人物たち

D.G.M.シュレーバーの体操書


ここも単著を出す前に訪れなければならないと思いながら、ライプツィヒ滞在時には行くことができなかった場所。前回はまだ真冬の寒さだったし、場所がうろ覚えで、道に迷ってたどり着けなかったのだ。路面電車くらいしか通らない広々としたJahnalleeをガタガタ震えながら歩いて生命の危険を感じた。今回は時間に余裕があったので、しっかりホームページで確認して行ってみたところ、クラインガルテン博物館のすぐ近くだった。小さい博物館なので、開館日が限られており、ライプツィヒ到着から一週間近くたってから、ようやく訪れることができた。展示は、やはりこの街で一番有名な精神病患者、ダニエル・パウル・シュレーバーについても大きく取り上げられていた。すぐ近くのクラインガルテン博物館では、父親のモーリツ・シュレーバーの肖像画が掲げられていたが、息子のダニエル・パウルについてはまったく言及されていなかった。
ドイツ語圏を代表する精神病者ダニエル・パウル・シュレーバーについての展示パネル

英語の翻訳書とともに、日本語版のシュレーバー回想録もあった


こちらは前回の滞在時にも訪問している。二度目だ。常設展として、古代中世から20世紀の大戦にいたるまで、ドイツを中心にさまざまな武器や軍事車両、新聞記事や衣服などが展示されている。この博物館は、かつてのドイツ軍の砲兵工廠に作られている。そのため建物がとても大きく、展示物も大きなものが多い。兵士を東部戦線へと運んだ貨車とか、ドイツで最初に建造された潜水艦、そしてドイツで最大の口径を誇った巨大な大砲とその砲弾(直径80センチ)などはとても見応えがある。前回も興奮して写真をとったが、今回も一番印象に残っているのは、ミサイルと防衛(Waffen und Schützen)の部屋。10m以上ある高い天井から、大小様々なサイズのミサイルが吊るされる。一方地上には、コンクリートや鋼鉄で作られたトーチカ(大きい物ではなく、個室サイズ)が置かれている。当時の兵士たちは、分厚いコンクリの塊とはいえ、こんな小さな密室に隠れて、ミサイルの攻撃に耐えていたのかと思うと恐ろしくなった。
今回行こうと思ったのは、特別展が興味のあるものだったため。精神病院の入院患者たちが、どのように戦争を体験し、それを記述したかというもの。それぞれの絵に、患者ひとりひとりの思い入れや恐れが反映されていて、もっとじっくり調べたいテーマだと思った。
軍事博物館の外観

コンクリート製のトーチカ。人がひとり入るのがやっとの大きさ。

スポーツと教育についての調査が今回の滞在の中心的な目的だった。そのため、国立図書館だけでなく、こういったスポーツ関係の博物館で展示を見たり、図録を買ったりしようと思っていたのだ。ドイツで大きなスポーツ博物館は、ケルンのオリンピック博物館だそうだ。しかしケルンは遠い。フランクフルトからは大して遠くないが、フランクフルトとライプツィヒに滞在する予定であれば、ケルンは方向がずれる。どうにかならないかともう少し調べたところライプツィヒにも博物館があることがわかった。とくにライプツィヒのスポーツ博物館は、ライプツィヒとザクセン地方の体操の歴史、そしてDDRにおけるスポーツの歴史についての資料を収蔵しているらしい。それならなおのこと好都合と思ったが、現地に来てようやくこの博物館が常設のものではなく、メールで訪問の予定と目的を連絡しなければ入れないということが分かった。しかも博物館側は、毎日午後に一通しかメールをよこさない。つまりメールのやりとり一往復で2日かかるのだ。そのため最初のメールから一週間たってようやく博物館を訪れることができた。博物館といっても、倉庫の半地下室の物置だ。事務室や作業場があるが、それ以外はダンボールや本棚そして通路にも未整理の収蔵品がおいてあった。この物置の一角にデスクを一つ貸してもらい、そこでドイツの体操についての資料を見せてもらうことができた。資料を探すとはいえ、この博物館に何があるのかよくわからないままに来てしまった私は、とりあえず学芸員さんが提案してくれた資料と、別の資料にタイトルが出てきた雑誌をいくつかデジカメで撮影するくらいのことしかできなかった。もう少し調査を進めて、欲しい資料がはっきりしていたら、この博物館ももっと有効に使えるかもしれない。また来年辺りくるかもしれない、と伝えると学芸員の女性はいつでも来てねと笑って言った。
博物館で貸してもらえたデスク

デスクの後ろにはあん馬と資料の棚

音楽には詳しくないが、機械としての楽器は面白いし、音声という自然にあふれているものを秩序化する音楽、そして音楽を作るための楽器の発展というのは、コンピュータや通信メディアの発達とも大いに関係があるように思えるので、以前から興味を持っていた。古い弦楽器や鍵盤楽器の展示を見ていると、弦の数が今よりも多かったり、作りがはるかに複雑だったりする。おそらくは、音の分節化が今とは異なっていたのだろう。時代が下るにつれ、楽器はシンプルに軽量化されていく。そして19世紀末には自動楽器や録音再生装置が開発される。この博物館でなんとしても見たかったのが、この「ジンフォニオン」である。シュレーバーが入院中に愛用したというこの自動楽器は本当はどのようなものなのか、実は本を出す直前までよくわかっていなかった。ピアノのように大掛かりなものか、またはエジソン蓄音機みたいな円筒状の音盤をくるくる回すものだろうと思っていた。試しにネットで調べてみて、今のレコード再生装置と殆ど変わらない外観であることに驚き、ジンフォニオンについての論文中の記述を修正したりもした。今回ようやく本物を間近に見て、思いの外小さいことに驚いた。写真からも分かるように、音盤の大きさは30センチくらい。外箱も一辺の長さは35cmほどだ。これだけコンパクトな装置が100年以上前にはもう作られていたことに感動した。この博物館のすばらしいところは、楽器の展示だけでなく、各部屋に設けられた機械で、当時の楽器の音を聞くことができるということだ。自動楽器の奏でる音楽も聞くことができた。
博物館の外観。庭園もとてもきれい。

ジンフォニオン(ディスクオルゴール)

2014年9月8日月曜日

ドイツふりかえり2ドレスデンとライプツィヒ

今日は、2013年春に一ヶ月滞在したドレスデンと、2014年夏に10日間過ごしたライプツィヒ、というザクセン州の二つの街を比較したい。
ザクセン州の地図。二つの中心都市ライプツィヒとドレスデンがある。
両都市は電車で1時間ほどの距離。

両都市は、ドイツ東部(旧東ドイツ地域)のザクセン州を代表する大都市であり、それぞれ50万人以上の人口を有する(Dresden51万、Leipzig53万)。ドレスデンには大きなオペラ座があり、ヴァグナーが滞在したことから、音楽で有名だし、ライプツィヒは大学都市であり、現在もドイツ有数の出版の町として知られる。ひとつの地域に同程度の規模の都市が二つあることから、なんとなく群馬県における前橋と高崎、あるいは埼玉の浦和と大宮、または長野県における長野と松本みたいな関係をイメージしていたのだが、実際に行って比較してみるといくつか違うところがあるとわかった。

町の成り立ちから生じる違い
ドレスデンは王宮のまち、いわば城下町である。ザクセン選帝侯領の首都がここに置かれていた。いっぽうライプツィヒは、街道の要所として商業と学問の街として栄えてきた。ライプツィヒ大学は、ドイツではハイデルベルク大学に続いて1409年に設立された大変伝統ある大学だ。現在もライプツィヒは、ドレスデンやチェコ方面(東)、ニュルンベルクなどバイエルン方面(南)、ベルリンやドイツ北部(北)そしてフランクフルト方面(西)へと続く鉄道網が交差する場所だ。

諸国民戦争記念碑からライプツィヒ市内を望む。ほぼ平坦な土地であることがわかる。
また、地理的・地形的にも街の雰囲気は大きく異る。ドレスデンはエルベ川、ライプツィヒはザーレ川の流域にあるが、ドレスデンがエルベ川の谷沿いに南北に狭く東西に細長い市街地を形成しているのに対し、ほぼ平地にあるライプツィヒの場合は、ザーレ川は市の中心部より少し離れたところを流れている。
街を流れる河川との関係や、地形の違いをとっても、二つの街の性格の違いがよく分かる。
ライプツィヒ市内中心部からほど近いところに、古い高層住宅が残っている
ライプツィヒの場合は、ウィーンやパリのように旧市街地がぐるりと環状道路で囲まれており、その外側に住宅地が広がっている。旧市街を出た西および南がわにはきれいな住宅が立ち並んでいるお屋敷街がある。エルベ川の谷底を中心とするドレスデンの場合、川に面した旧市街の外、坂を登ったところに住宅地があり、お金持ちたちは急坂の上に屋敷を構えている。エルベ川から見上げるきれいな住宅街は、ちょうど今住んでいる夙川や芦屋にもよく似ている。阪急夙川駅から甲陽園へと電車が登っていくように、ドレスデンでは、エルベ河畔のロシュヴィッツ橋(通称Das Blaue Wunder)からお屋敷街へと2系統のケーブルカー(SchwebebahnとStandseilbahn)が発着している。

ドレスデン戦史博物館から市内を見下ろす。よく見るとエルベ川対岸の小高い丘も見える。
ロシュヴィッツ橋(Das Blaue Wunder)
どっちがいいのか?
二つの街は、統一後の四半世紀でだいぶ変わってきたようだ。ライプツィヒの駅は改築されて巨大なショッピングモールになったし、中心部の旧市街は観光地として整備された。ドレスデンでは第二次大戦後、50年近く(!)瓦礫の山だったフラウエン教会が、2005年に復元が完成している。両都市とも、ドイツ東部の代表的な観光都市だが、実際歩きまわってみると、ドレスデンのほうがインパクトのある観光スポット(王宮、教会、エルベ川など)は多いけど、町がきれいなのはライプツィヒかな、と思った。ドレスデンの場合、観光地が集中している旧市街はごく小さな範囲でしかなくて、街の中心はエルベ川対岸の新市街にも広がっている。しかし新市街の方まで来ると道路は整備されていなくてでこぼこしているし、建物も美しくない。(だがそういう味わいがドレスデンらしいのだと思う)ライプツィヒも工事現場は多いが、1900年前後の古い建物は町のあちこちに残っているし、広々した公園が町の各地にある。数日かけて観光をするならドレスデン、長いこと住み続けるならライプツィヒのほうが居心地が良さそうだ。

ライプツィヒには広々したきれいな公園がたくさんある



ドレスデン新市街の中心から約10分ほど。このあたりで町はずれになる。

観光客に人気のドレスデン旧市街。しかしあまりきれいでない新市街も魅力的だ。

2014年9月5日金曜日

ドイツふりかえり1ドイツのクルマ

この春から自分の車(母からもらった10年落ちの車だけど)を運転するようになったため、ドイツに来ても道を走る車を注意して見るようになった。先日もmitnehmenしたケバブを公園のベンチでモリモリ食べながら、大通りを走る車を飽きずに眺めたりした。

ドイツではどんな車が人気なのか
ドイツに初めて行った当時、日本では高級車のイメージが強いメルセデス・ベンツやBMWが当たり前のように何台も走っていることに驚いたものだった。しかし道を行く車をよく見ていると、意外と日本車やドイツ以外の車も多いことに気づく。ドイツ車・日本車・その他の割合は、印象にすぎないが、6:2:2位の割合だろうか。あるいはドイツ車はもっと少なくて、5:2:3(ルノーなどフランス車が多い)くらいかもしれない。そしてこの比率は、今私が住んでいる夙川・芦屋エリアともあまり変わらない。こちらの場合は、ドイツ車5:日本車3:その他2といったところか。そのくらい家の周辺ではドイツ車ばかり目にする。
また、クルマの色は、ドイツ人は日本人のように熱心に洗車をしない(冬は降雪後の泥汚れでものすごく汚かった)ので、黒や青、赤などが人気だ。日本のクルマは白が一番人気なのだろうけど、ドイツで白い車というと、ほとんどが社用車だ。白いベースに、会社のロゴや連絡先などを入れたクルマがたくさん走っている。

ドイツにおける日本車
ドイツを走る日本車だが、当然のことながら日本とはだいぶ異なっている。人気なのはトヨタとホンダ、意外とマツダも多い。そしてどのメーカーの車も排気量の小さいものが多い。トヨタならヴィッツやオーリス、ホンダはフィットなど日本でも一番小さいクラスが売れているようだ。クラウンやレクサスみたいな大きなセダンやハリアーなどのSUVはほとんど見ない。日本ではそこら中にあふれているハイブリッド車、プリウスやアクアもほぼ走っていない(一台だけプリウスとインサイトを見たが)。また、家族連れやリア充の若者に人気のワンボックスカーもまったく見なかった。ドイツでは、セダンやSUVは国産車(MB、BMW、VW)が主流で、日本車は小さい車が人気なのだろう。

日本で売ってない日本車
そこそこの人気を誇る日本の車だが、ドイツで面白かったのは、日本で見たことがない車種が走っていることだった。
街で写真を取るのを忘れたので、ホンダのサイトから。
一番良く見たホンダ車が、このシビックだが、日本では売られていない。(限定販売のみ)また、バス停の広告でよく目にしたトヨタの新しいコンパクトカーであるアイゴー(AYGO)も、日本にはない車種だ。
ライプツィヒのバス停にて。このクルマの広告を何度も見た。
これはかなり小さく、ヴィッツくらいの大きさだった。シビックは日本でも売れそうなのになぜ販売していないのだろうと気になった。

必ずしも大きい車が人気というわけではない
ドイツで走っている車の大きさだが、道が広く高速道路は速度無制限だからといって、大型の車が主流というわけではない。前述したように小さい日本車が人気だし、ドイツ車でもBMWの1シリーズやVWのゴルフはどの街でもたくさん走っている。BMWの5シリーズ、7シリーズ、ポルシェのカイエンなどは、芦屋では当たり前のように走り回っているが、ドイツのほうがむしろ少ないように見えた。だれもが高速道路で数百キロ離れたところまで旅行したりするわけではないのだし、街中には狭い通りも多いだろうし、コンパクトなクルマが便利な場面は日本と同様多いのだろう。