2012年10月20日土曜日

アルバイトの思い出2

前回のエントリからずいぶん時間がたってしまった。


2000年夏、塾講師。大学院に進学し、京都に引っ越した。あえて東京から京都に転居したのは、自分の中で日本=東京と狭く考えてしまっていることに気づいたからだった。京都に移って、言葉だけでなく様々な文化の違いや、単純に市バスが遅いとか本屋の品揃えが悪いとかいう不便さに気づいたが、一番ショックだったのがバイトの時給の安さだった。しかも大学院に進むと、学部の頃よりも当然のことながら忙しくなる。そこで一番効率がよさそうな塾講師をやってみることにした。担当科目は、一番好きな科目ということで国語にした。(あとで気づいたが、中学生レベルを教えるのであれば数学や英語にしておいたほうが仕事が多くてよかったのだ)はじめに高校生・浪人生対象の予備校講師の試験を受けたものの、模擬授業がうまく出来ず不採用。しかたなくもうちょっと待遇が悪い京都市内大手の塾の試験を受け、小中学生の国語を担当することになった。6月頃から伏見の校舎で研修を受け、夏休みから授業をやった。中学生たちは元気でかわいかったが、苦労したのは小学6年生のクラスだった。私自身中学受験とは全く縁のない田舎育ちだったから、勉強ができるわけでもない子たちが、なんで私学に行きたがるのか理解できなかったし、受験勉強が嫌なのに親に逆らえなくて、そのフラストレーションを塾で発散している子供たちを、どう受け止めたらいいのかよくわからなかったのだ。この塾は子供たちはろくでもなかったけど、先生方はとてもおもしろくて有能な人たちばかりで、いまでもよく思い出す。現在の自分の基礎を作った仕事だったと思う。悪くない職場だったけど、別の塾にもっと良い条件で雇ってもらえたので、ちょうど一年たった次の年の夏に辞めた。

2001年夏、塾講師(高校生対象)。M2になるころに、友人のお父さんが経営している個人塾から声がかかって、高校生に国語を教えることになった。伏見までの通勤のために普通自動二輪免許をとって、バイク通勤していたので、大津の塾にいくのも全く苦にならなかった。一学期は高校3年生の国語を教え、夏期講習では高3国語、中3国語のほか、高2英語、高3世界史を教え、秋以降は推薦入試を受けたいというギャル相手に小論文の指導もした。いろいろな科目を教えるという貴重な経験ができたけど、この職場には長くいられなかった。ここの塾は家族経営で、講師も私以外はもともとこの塾のOBOGばかりだった。だから塾長のワンマン体制だったし、とても息苦しい雰囲気だった。ただ集まってくる生徒はみんなとても優秀で、レベルの高い授業をしてもちゃんとついてきてくれてとてもやりがいがあった。受験直前期にはセンター日本史、古文漢文、地理(ほんの少し)なども担当し、遅い時には夜12時過ぎに帰宅ということもあった。こんなことばかりやってたので、当然大学院の勉強は思うようにはかどらず、留年することになる。
翌春に担当することになった高校3年生のクラスは理系志望ばかりで、国語のクラスに参加希望者が激減したため、私も仕事をやめざるを得なくなり、退職。

2002年春〜2005年春、喫茶店(調理・バリスタ)。修士課程3年目に入り、塾講師を続けていくことに自信がなくなってきた。受験勉強の経験に乏しい私は、やはり体を動かす仕事のほうが向いているのではないか、そう思い、当時つきあっていた彼女が学部時代からずっと喫茶店で働いていたので、おれもやってみようと、市内中心部の老舗喫茶店で働き始める。最初はギャルソンをやるつもりだったが、一日目にエプロンを渡され、その後3年間ずっと調理だけをやってきた。そのうちフロアもやらせてもらいたい、最初はそう思っていたが、一年ぐらい経つともともと別に好きでもなかった料理が楽しくてしょうがなくなった。店でうまくできなかったことや、新しいメニューは、家に帰って何度も練習した。この仕事は私の性格にあっていたようで、忙しいし、調理場はいつも暑いしで、全く楽な仕事ではなかったが、博士課程1年目の終わりまで続いた。料理がひと通りできるのはこの仕事のおかげである。

2004年春、図書館非常勤職員。博士課程進学後から、単位取得退学をする2009年春まで5年間続けた。たぶんバイトとしては二番目に長く続けた(一番長いのは堺看護専門学校)仕事だ。仕事内容は、図書館業務全般。本を並べ、貸し出す、閉館時に鍵を閉めるなど。このバイトのお陰で、京大人環総人図書館(旧教養部図書館)を端から端まで徹底的に利用することができた。棚に並んだばかりの新刊書から、購入以来数十年誰も使わなかったであろう、ぱりぱりになった洋書まで、様々な本を、業務の合間に手にとっては読んだ。このバイトのお陰で、私は大量の一次資料を集めるという博士論文で試みた研究方法を確立することができたのだと思う。
有名な折田像の看板。これが原本(?)か

図書館の地下の秘密通路。物置になってた。


2004年夏、ドイツ語講師。博士課程に進学後、すぐに先輩に声をかけられ、ドイツ語講師を派遣する会社に面接にいった。すぐに採用され、夏休みの終りに某電器メーカーの本社でドイツに駐在する予定の社員さんに、一ヶ月間ドイツ語の特訓をすることになった。一ヶ月間月曜から金曜まで一人で担当するのは無理だったので、他の先生と組んで、週に2,3回ほど門真の会社に通ってマンツーマンの授業をした。社員さんは、さすがに一流企業に入る人だけに、すごく頭が良くて説明したことを次々理解してくれた。私よりも8歳くらい年上の人だったが、とても丁寧でいつも優しかった。私が女子だったら、不倫していただろう。夏休みの集中授業のあとは、京都の某進学校に通う男子に、大学受験のためのドイツ語を教えた。彼はべつに帰国子女ではなく、単に英語が嫌いだからドイツ語で受験したい、というちょっと変わった子だった。本人はそこそこがんばっていたが、さすがに医学部を受験するにはまだまだ勉強不足で、けっきょくセンター試験も二次試験も満足の行く結果は挙げられなかったようだ。
その後この会社での仕事は、駐在員さんへのドイツ語講座を一回、駐在員の奥さまへのドイツ語と生活の研修を一回やらせてもらった。最近は英語や他の言語の講師を探して欲しいという依頼ばかりで、ドイツ語の仕事は来ない。




アルバイトの思い出2

前回のエントリからずいぶん時間がたってしまった。


2000年夏、塾講師。大学院に進学し、京都に引っ越した。あえて東京から京都に転居したのは、自分の中で日本=東京と狭く考えてしまっていることに気づいたからだった。京都に移って、言葉だけでなく様々な文化の違いや、単純に市バスが遅いとか本屋の品揃えが悪いとかいう不便さに気づいたが、一番ショックだったのがバイトの時給の安さだった。しかも大学院に進むと、学部の頃よりも当然のことながら忙しくなる。そこで一番効率がよさそうな塾講師をやってみることにした。担当科目は、一番好きな科目ということで国語にした。(あとで気づいたが、中学生レベルを教えるのであれば数学や英語にしておいたほうが仕事が多くてよかったのだ)はじめに高校生・浪人生対象の予備校講師の試験を受けたものの、模擬授業がうまく出来ず不採用。しかたなくもうちょっと待遇が悪い京都市内大手の塾の試験を受け、小中学生の国語を担当することになった。6月頃から伏見の校舎で研修を受け、夏休みから授業をやった。中学生たちは元気でかわいかったが、苦労したのは小学6年生のクラスだった。私自身中学受験とは全く縁のない田舎育ちだったから、勉強ができるわけでもない子たちが、なんで私学に行きたがるのか理解できなかったし、受験勉強が嫌なのに親に逆らえなくて、そのフラストレーションを塾で発散している子供たちを、どう受け止めたらいいのかよくわからなかったのだ。この塾は子供たちはろくでもなかったけど、先生方はとてもおもしろくて有能な人たちばかりで、いまでもよく思い出す。現在の自分の基礎を作った仕事だったと思う。悪くない職場だったけど、別の塾にもっと良い条件で雇ってもらえたので、ちょうど一年たった次の年の夏に辞めた。

2001年夏、塾講師(高校生対象)。M2になるころに、友人のお父さんが経営している個人塾から声がかかって、高校生に国語を教えることになった。伏見までの通勤のために普通自動二輪免許をとって、バイク通勤していたので、大津の塾にいくのも全く苦にならなかった。一学期は高校3年生の国語を教え、夏期講習では高3国語、中3国語のほか、高2英語、高3世界史を教え、秋以降は推薦入試を受けたいというギャル相手に小論文の指導もした。いろいろな科目を教えるという貴重な経験ができたけど、この職場には長くいられなかった。ここの塾は家族経営で、講師も私以外はもともとこの塾のOBOGばかりだった。だから塾長のワンマン体制だったし、とても息苦しい雰囲気だった。ただ集まってくる生徒はみんなとても優秀で、レベルの高い授業をしてもちゃんとついてきてくれてとてもやりがいがあった。受験直前期にはセンター日本史、古文漢文、地理(ほんの少し)なども担当し、遅い時には夜12時過ぎに帰宅ということもあった。こんなことばかりやってたので、当然大学院の勉強は思うようにはかどらず、留年することになる。
翌春に担当することになった高校3年生のクラスは理系志望ばかりで、国語のクラスに参加希望者が激減したため、私も仕事をやめざるを得なくなり、退職。

2002年春〜2005年春、喫茶店(調理・バリスタ)。修士課程3年目に入り、塾講師を続けていくことに自信がなくなってきた。受験勉強の経験に乏しい私は、やはり体を動かす仕事のほうが向いているのではないか、そう思い、当時つきあっていた彼女が学部時代からずっと喫茶店で働いていたので、おれもやってみようと、市内中心部の老舗喫茶店で働き始める。最初はギャルソンをやるつもりだったが、一日目にエプロンを渡され、その後3年間ずっと調理だけをやってきた。そのうちフロアもやらせてもらいたい、最初はそう思っていたが、一年ぐらい経つともともと別に好きでもなかった料理が楽しくてしょうがなくなった。店でうまくできなかったことや、新しいメニューは、家に帰って何度も練習した。この仕事は私の性格にあっていたようで、忙しいし、調理場はいつも暑いしで、全く楽な仕事ではなかったが、博士課程1年目の終わりまで続いた。料理がひと通りできるのはこの仕事のおかげである。

2004年春、図書館非常勤職員。博士課程進学後から、単位取得退学をする2009年春まで5年間続けた。たぶんバイトとしては二番目に長く続けた(一番長いのは堺看護専門学校)仕事だ。仕事内容は、図書館業務全般。本を並べ、貸し出す、閉館時に鍵を閉めるなど。このバイトのお陰で、京大人環総人図書館(旧教養部図書館)を端から端まで徹底的に利用することができた。棚に並んだばかりの新刊書から、購入以来数十年誰も使わなかったであろう、ぱりぱりになった洋書まで、様々な本を、業務の合間に手にとっては読んだ。このバイトのお陰で、私は大量の一次資料を集めるという博士論文で試みた研究方法を確立することができたのだと思う。
有名な折田像の看板。これが原本(?)か

図書館の地下の秘密通路。物置になってた。


2004年夏、ドイツ語講師。博士課程に進学後、すぐに先輩に声をかけられ、ドイツ語講師を派遣する会社に面接にいった。すぐに採用され、夏休みの終りに某電器メーカーの本社でドイツに駐在する予定の社員さんに、一ヶ月間ドイツ語の特訓をすることになった。一ヶ月間月曜から金曜まで一人で担当するのは無理だったので、他の先生と組んで、週に2,3回ほど門真の会社に通ってマンツーマンの授業をした。社員さんは、さすがに一流企業に入る人だけに、すごく頭が良くて説明したことを次々理解してくれた。私よりも8歳くらい年上の人だったが、とても丁寧でいつも優しかった。私が女子だったら、不倫していただろう。夏休みの集中授業のあとは、京都の某進学校に通う男子に、大学受験のためのドイツ語を教えた。彼はべつに帰国子女ではなく、単に英語が嫌いだからドイツ語で受験したい、というちょっと変わった子だった。本人はそこそこがんばっていたが、さすがに医学部を受験するにはまだまだ勉強不足で、けっきょくセンター試験も二次試験も満足の行く結果は挙げられなかったようだ。
その後この会社での仕事は、駐在員さんへのドイツ語講座を一回、駐在員の奥さまへのドイツ語と生活の研修を一回やらせてもらった。最近は英語や他の言語の講師を探して欲しいという依頼ばかりで、ドイツ語の仕事は来ない。